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2019年05月15日
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柳沢吉保の栄達 

 

『武川村誌』 一部加筆

  吉保は、徳川綱吉と値遇したことによって江戸時代の武士として異数の栄達をした人で、その閲歴を採り上げれば、ぼう大なものとなるので、ここには主要なものに触れておく。

 

吉保、小納戸となる。

小納戸というのは、若年寄の支配に属して膳番・庭番・馬方・鷹方・髪月代など、将軍の身辺に侍して雑用を担当する役目で、定員一〇〇名、高五〇〇石であった。この役目の者は将軍の側近に侍るので、才能によっては異数の出世をする場合がある。

吉保は延宝八年に綱吉が将軍職についたとき小納戸を命ぜられ、天和元年四月布衣を着ることを許され、三〇〇石の加増があった。この時、従来の度米三七〇俵を采地(石高)に改め、上総国山辺郡の内ですべて八三〇石を知行した。

小納戸としての吉保の精勤ぶりと、聡明さを知った綱吉は、吉保に学問上の門人となるよう命じた。

続いて貞享元年に二〇〇石を加増されて一、〇三〇石、

その翌年には従五位下出羽守に叙任、

三年に上総国の内で一、〇〇〇石加増、高二、〇三〇石となった。

 

柳沢吉保、側用人・若年寄となる

貞享四年九月十七日、父安忠が没した。綱吉は上使を遣わし、香奠三〇〇両を霊前に供えさせた。

元禄元年十一月、庶事の掛(側用人)を命ぜられ、席を若年寄上座とされた。庶事の掛とは側用人のことで、側衆(将軍の側近)の啓達を監督し、老中・若年寄の伺候を将軍に取り次ぎ、評定所にも列し、譜代犬名をもって任じた。それで側用人といわれる。格式は老中に准じ、その威望は老中を凌いだ。綱吉の創置である。

吉保は、側用人任命と同時に和泉・武蔵・上総の内で一万石を加増され、大名になった。

元禄二年三月、和泉・上総の内で二万石加増、合わせて三万二、〇三〇石となった。

元禄四年三月二十二日、綱吉ははじめて吉保の邸に臨んだ。将軍が家臣の邸に臨むというのは格別のことである。綱吉はこの時吉保に白銀三〇〇枚・酒肴二荷・鞍置馬一疋、伯者安綱の刀を与えた。吉保もまた来国光の刀、茶壷などを綱吉に献じた。この日、席を改めて綱吉自身が大学を講じ、吉保をはじめ陪席の大学頭林信篤、ならびに将軍家随従の諸大名、吉保の家族、また吉保召抱えの儒臣七人が聴聞した。ついで吉保が同じく大学を講じ、林大学頭、吉保の儒臣七人も続いて講じた。この日を第一回として、綱吉は以後宝永五年までに、五八回にわたり吉保邸に臨んだ。

 

綱吉は、文武両全を期し、片手落ちにならぬように努めた。元禄六年十二月三日に吉保邸へ臨んだ時は、吉保の家臣柳生勝興の剣術を試みた上、綱吉自身が勝興の相手になって見事な勝負を試み、並居るもの手に汗を握った。

 

吉保 川越藩主となり、老中格、大老となる。

元禄五年十一月、吉保は摂・河・泉三国と武蔵の内で三万石加増され、同七年正月七日さらに一万石加増があって、合計七万二、〇三〇石となり、武蔵川越の藩主を命ぜられた。同年十二月老中格に昇進した。

吉保の譜に「老職に准ぜらる」とあるのはこのごとである。

元禄九年八月、荻生徂徠を儒臣として召抱えた。徂徠は号で講は茂卿、通称惣右衛門、別号を?園といった。本姓物前氏ゆえ漢学者流に物茂卿といい、?園学派の祖となった。譜に、儒学をもつて松平羊濃守吉保につかえ、のち常憲院殿吉保が邸に渡御の時拝謁を許され、御前に召されて経義を講論し、のちしばしば登営して周易を講じさせたまうを拝聴し、御手づから御印籠を賜う。とある。

徂徠は、少年の頃父が冤罪により上総に追放され、二十五歳のとき赦免されるまで、極貧の中で豆腐の粕で生命をつなぎ、苦学研鐘した。その学問は空論を拝して実用経済を重んじたので、時弊を匡救するものとして諸侯は争って召抱えようとしたが、自ら持することの高い徂徠は容易に仕えなかった。しかし吉保の情理をつくした招聘に接すると、その知遇に感じて快く出仕したのであった。

元禄十年七月、武蔵、和泉両国のうちで二万石の加増があり、九万二、〇三〇石の高となった。

元禄年十一月十四日、綱吉邦吉保邸に臨んで諸奉行の訴訟裁断を監し、また自ら論語を講じた。この日、吉保の儒臣荻生徂徠・細井広沢をはじめとする五人も陪席して聴講し、のち綱吉の指名により疑義を質問させたという。

元禄十一年七月、吉保は東叡山寛永寺の根本中堂造営の総奉行を勤めて首尾よく竣工したので、その功を賞されて左近衛権少将に任ぜられ、席次は老中の上位に置かれることになった。これは老中の上位というので、大老格と呼ばれたが、その権力は大老そのものと変わらなかった。

保明から吉保へ、将軍の親族となる

元禄十四年十一月二十六日、柳沢邸に臨んだ綱吉は、これまで出羽守保明と名のっていた吉保を自芽の座側に招き、「父安忠の存命中より一意専心奉仕し、多年表裏なき実直な勤務は万端わが意にかない、満足この上ない。よって勤仕の者たちの模範として、今後は親族の待遇とする」といって、松平の姓、綱吉の「吉」の一字を与えて吉保とし、出羽守を美濃守に改めさせた。同時に吉保の嫡男越前守安貞にも松平伊勢守吉里と名のらせた。

元禄十五年三月、大和国の内において二万石を加増され、一一万二、〇三〇石の高となった。






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最終更新日  2021年04月18日 06時25分05秒
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