カテゴリ:柳沢吉保 山梨北杜資料室
柳沢吉保と生類憐み令 綱吉は、元来は好学で孔孟の教えを政治に実現するを期したので、初政は善政を喜ばれたが、実子を望むあまり迷信に陥り、側用人牧野成貞に命じて「生類憐み令」を公布させたが効なく、吉保の建策によって亡兄綱重の子、甲府中納言綱豊を養嗣子とすることを決意し、その実行を吉保に託した。吉保は綱吉の意を体して御三家その他との交渉を円満に進め、徳川綱豊を将軍世子とすることに成功した。 綱吉は吉保の功に酬いるため、三万九、二〇〇石余を加増して一五万一、二〇〇石余とし、甲府は枢要の地故、容易に与える地ではないが、格別をもって甲府に封ずることとした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月18日 06時24分22秒
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