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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月15日
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宝永二年一月二十一日吉保を召した綱吉は、吉宗年頃の勤労、言のつくすべきにあらず。このたびの典礼どもも、去年以来一人にて議定し、内外一事として疎漏なし、我邦の副弐(将軍世子)を定め、国の基本をかたむること、吉保一人が功というべし。さればその功労に報いんため、甲斐の府城を賜わるべし。甲府は中納言殿の御領といひ、其上人臣の封地とすべき地にあらざれど、吉保が事、一家と同じく思召、且つ祖先の地たるをもて給はる由宣ひて御手書を給い、又長子伊勢守吉里を召して、汝よく父に命ぜられし御詞を奉り、子々孫左万世に至るまで忠勤怠らず、永く封地をつたふべしと命ぜらる。

(『常憲院殿御実紀』抄記)

と記されているように、吉保の功績に対する最高級の褒詞を与え、ついで次に示す甲斐国山梨・八代・巨摩三郡充行朱印状を与えた。

 

甲斐国は枢要の地にして、一門の歴カ領し来ると難も、真忠の勤により、今度山梨・八代・巨摩の三郡一円(別紙目録)

に、これを充て行ひおわんぬ。先祖の旧地として、永く領知せしむべきの状、

(徳川綱吉)

宝永二年四月廿九日 朱印

 

別紙の目録とは次のものである。

甲斐国

山梨郡一円百四拾六箇村

高、六万八千拾四石一斗一升六合

八代郡一円百七拾九箇村

件の如し。

甲斐少将殿(原漢文)

高、五万九千五百三拾二.石四斗五升四合五勺

巨摩郡一円三百三拾六箇村

高、拾万千二百拾九石二斗九升五合

都合拾五万千二百拾九石二斗九升五合

外二七万七千四百七拾七石壱斗二升八合四勺内高

右、今度郡村の帳面相改め、高聞に及ぶのところ、御朱印を成し下され候なり。仍つて件の如し。

(徳川綱吉)

宝永二年四月二十九日  朱印

本多伯者守正永

稲葉丹後守正通

秋元但馬守喬朝

小笠原佐渡守長重

土屋相模守政直

松平美濃守殿

この朱印状の原案に、政務勤労とあったのを歯がゆく思った綱吉が、筆を入れて真忠之勤と訂正したのである。感動した吉保は、次の和歌を詠じた。

 

めぐみある君に仕へし甲斐ありて 雪のふる道今ぞふみみん

 

甲府藩主としての吉保(「武川村誌」一部加筆)

  宝永二年(一七〇五)二月、武蔵川越藩主柳沢吉保が甲斐甲府藩主に転じ、その家臣団三、二〇〇人余りは、家財道具一切をまとめて七日に川越を発足した老を皮切りに、逐次移住を開始した。武蔵から甲斐への路次には小仏・笹子の峻嶺が幡踊していて、官道甲州街道に助郷・伝馬・人足が整備されていても、要するに大規模な引越しであって、藩士たちの家財道具の荷造作業の煩雑さと出費は相当なものであった。

このことを予察した吉保は、生計の苦しい家臣に向かって、「この度はお前も入用が多いことであろう。ついては金一〇〇両を与えるからその積りで支度せよ」と申渡した。さて出発前になって金を渡されたのを見ると、金二〇〇両あったので、驚いてその旨申上げると、「じつは初めから二〇〇両与える積りであったが、内輪に支度するようにわざと一〇〇両といったのだ。自分も勝手元は不如意である。お前も大身になればそれにしたがって物入りも多くなり、結局不勝手になるものであるから、平生その積りで倹約を旨とするがよい」、と諭したことが『源公実録』に見えている。

後世、吉保がその権勢に任せて賄賂を収め、財を積んだなどというものがある中が、史学者の公正な研究結果はこれらを低俗な誣説と排している。

吉保は、大老格の側用人という立場のため、江戸を離れられず、城代家老が藩務を執った。

 

吉保、宝永二年、甲府城下に次の三カ条を令した。

一 只今まで古府中と申す事相止め、一同に府中と申すべき事、

一 古城と申す事相止め、御館跡と申すべき事、

一 町々、古と申す事相止め、元何町と申すべき事、

これは武田家旧臣武川衆出身の吉保として、よく思いついたものと共鳴できる発想である。

 また条目二十七条を定め、家中以下城下在庶民に令した。その主たもの数条を記せば

一、公儀御法度、堅く相守るべき事

二、生類憐慈の儀、堅く相守るべき事

四、忠孝、礼儀を専らとし、白身の勤め方、其の役筋を守り、疎略にすべからざる事

五、家老・城代・中老・番頭並びに其の頭々の下知、相背くべからざる事

七、学間武芸の稽古、解怠すべからざる事

九、火の用心、油断すべからざる事

十一、博突勝負、堅くこれを停止す、且つ放時の行跡、異相の風俗、或は雑  説・落書、或は男女非礼の好色これ有るに於ては、僉議(センギ)の上罪科に処すべき事

二一、国本に於て、追手・柳門出入り、明六ツ時より暮六ツ時迄に限るべし、

若し拠なき子細有らば、先に相断るべき事

二二、用向或は学問武芸の会、平生の食事を用ゆべし、株安の節たりと云とも、

一汁五菜に過ぐべからず、総べて大酒すべからざる事

二四、音信・贈答・嫁姿の儀、簡略を用ゆべき事

二五、国本に於て、網紬、木綿の外、これを着すべからず、女の衣類、華麗に

すべからざる事

    右の条々、堅く相守るべきなり

     宝永二年乙酉正月十五日

 

生類憐みの令

 全文二五か条の内、十一か条を抄したのに過ぎないが、藩主吉保の施政方針の要点は把握できよう。ここで問題になるのが第二条の生類憐慈のことである。 

これを悪政とするのは後世のことで、当時これを批判した人物は、将軍を戒めるために犬狩を催し、犬の皮を綱吉に贈った徳川光光圀以外、一人もなかったことから推察できよう。元来綱吉は仏教を篤く信じ、儒教の理想である仁政をしくことに努めた人である。牢屋を改善して囚人の牢死を防いだり、捨子の養育の手段を講じたりした事実に照らしてみれば、生類憐怒の精神は決して悪いものではなかった。にもかかわらず結果において悪政として批難されるのは、行政の末端において下級役人の迎合主義が加わり、はなはだしい人間疎外の悪法となったからで、貞享四年(一六八七)正月に発令され、宝永六年(一七〇九)正月に廃止されるまでの二十二年の間に、公然と批難したのが徳川光圀一人に過ぎなかったことは、綱吉の文治政治に見るべきものがあったからとい

えよう。

 とはいえ綱吉を犬公方と呼ぶのは、綱吉が正保三年の成年の生まれであったため、生類のなかでも殊に犬を大切にさせ、これに反した老を厳罰に処したため与えられた仇名である。また、法令発布の責任者である側用人は牧野成貞で、吉保ではない。吉保が側用人となるのは元禄元年十一月のことで、生類憐慾の令が発令された翌年のことである。ここで吉保が生命をかけて綱吉を諌めるべきであったとの意見もあるが、幕府封建専制下に生きた吉保に、それを要求するのは無理なことである。

 甲府藩主柳沢吉保が、生類憐懲の令の励行を、藩中一般に求めたのは当然といえよう。

 第四条の忠孝、礼儀を専らにし、自身の勤め方、その役筋を守り、疎略にしてはならない、との教え、第七条の学問武芸の梧古に怠ってはならぬ、との教え、第十一条の賭事、勝負事、放埼、反社会的な言動の戒め、風紀を乱し、社会の良風美俗を損う者への戒めをはじめとし、第二十二条の質素倹約の戒めも当を得たものというべきであろう。

 
吉保の民政

 吉保は民政に深く心を注ぎ、民を活かす政治を心がけた。甲斐は祖先の地で、長くこれを確保するには、善政を施す以外に妙策はないと知ったからである。次のような話がある。

 甲府藩主徳川綱豊が綱吉の世子となり、吉保が甲府藩主に決まった時、甲斐三郡の一部の農民が、租税の率が加重されるものと早合点して、不穏な企てをした。在国の重臣たちはこれを知って、この際最初に厳しく、けじめをつけて置くということで、首謀者と目される二一人を

描えて糾明し、厳罰する方針のもとに江戸の吉保に伺いを立てた。

 吉保は、柔克く剛を制す、という古言を引き、この際領主の仁慈を示しておくことが、今後の民政に役立つと考えて使臣を甲府に遣わし、農民たちを全員放免した。徒党の首謀者は死罪、軽くて遠島が当時の常識であったから、放免されて夢かと喜んだ農民たちは、以後吉保を徳として厚く尊敬するようになり、頑民は順民と化して民政の実績はあがった。

 ずっと後年の話になるが、享保九年、甲斐より大和郡山へ国替の時、領内の民が年貢米を残らず納めた。一般的にいって、国替えのような場合、農民は上納を怠り、滞り勝ちになるものであるのに、吉保、吉里父子は、年貢の徴収にも、農民の難儀にならないように、非道のことのないように、無理強いのないように、検見の時にも農民らに物入りのないようにと、いつも郡代、代官を戒めるので、役人たちも心付き厚く、その結果、このように滞納しないのであろうと、その頃大名たちが江戸城中で噂したと『源公実録』に見える。

 荻生徂徠の入峡

 吉保は、甲府藩主になると、甲府を永住の地と定め、菩提寺を開基することを決意した。

『甲斐国志』古跡部第八山梨郡北山筋に、廃竜華山永慶寺の項がある。

この寺は宝永二年に吉保が自身の寿蔵の所とするために、山梨郡岩窪村の竜華山下に地を卜し、山城国宇治の黄檗宗大本山黄檗山万福寺に準じ、はじめ穏々山霊台寺の名で開基した禅剃であった。したがって、宝永三年に吉保が自撰した碑文の題は穏々山霊台寺と記すが、当寺の後任である天麟仁敬が山梨郡松本村の大蔵経寺に与えた、「閻浮檀金弥勒像ヲ礼スルノ偈ナラビ并ビニ序」の巻尾に、

庚寅ノ仲秋黄檗竜華ノ天麟仁敬、稿ヲ永慶精舎ニ  

言ス

とある。庚寅は宝永七年である。穏々山霊台寺は宝永三年から同七年までの間に竜華山永慶寺と改名したのであるが、『甲斐国志』すら「寺山号ヲ改ムルノ故ヲ知ラズ、」と述べているほどで、改名の年月や理由が不明なのは惜しい限りである。

 吉保は、菩提所穏々山霊台寺を開基すると、文字通り心血を注いで「穏々山霊台寺碑」の一篇を草した。碑の序は、格調高い漢文で七六五字、銘は四言一一二句四四八字、序と銘とで一〇二四字の長い文章で、吉保の学殖と文才を窺うに足ろう。銘のみを示す。






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最終更新日  2021年04月18日 06時23分54秒
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