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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月15日
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儒臣の荻生徂徠と田中省吾、甲斐へ

 
 吉保は、甲府藩主になったとはいえ、幕閣の首班という立場にあっては、自撰の霊台寺碑の述べる山川形勝の実地を尋ねることはもとより、祖先発祥の地武川一帯を調べることはできないが、硬文の内容と実地を確かめたいので、平生信任している儒臣の荻生徂徠と田中省吾にその任務を託したのであった。

 当時徂徠は柳沢家に出仕以来満十年で年齢は四十歳、儒学における評価は、京都の伊藤仁斎に譲らず、吉保も自慢の種にしていた。「家の飾り惣右衛門ほどなる儒者は、公儀にこれなき様に思召し侯。」と家臣が記している。惣右衛門とは徂徠の通称である。当時、徂徠の右に出るほどの儒者は幕府にもいないと評価され、柳沢家の飾り(名誉の象徴)といったのであろう。豪邁卓識一世を風塵し、大小の諸侯が辞を卑くし、幣を厚くして招くのに一瞥も与えなかった徂徠が、吉保の聘には欣然として応じたのである。士は己を知る者のために死すという、徂徠は、吉保において知己を見出したのであり、明良相通うたのである。

 吉保の命を受けた徂徠は、僚友田中省吾と宝永三年(一七〇六)

・九月七日(太陽暦十月十一二日)に江戸藩邸を出発、甲州路に向かった。初夜は八王子に泊り、

・八日小仏峠の瞼を越え、鳥沢で日は暮れたが間中を強行して猿橋に到り、松明の光りで寄橋の奇なるゆえんを確かめ、猿橋に宿った。

・九日、笹子峠を越えて勝沼の葡萄を賞味し、石和駅に急いで主君の祖五郎信光公の旧荘を訪ねようとしたが、既に日が暮れて果さず、石和宿に泊り重陽の節を祝った。

・十日、甲府に入り、州大夫(城代柳沢保誠)に面会し、藩主の命を伝えて城中を巡視し、その壮麗に驚き、天守台に登臨して城外四方を展望し、霊蜂富岳をはじめ山川を僻仰する。

十一日、旧府城に機山公の英武と雄図を偲び、城跡の狭陰質素なるに驚き、人を以て城となす機山信玄の真意を解したという。ここから東に足を運んで藩主寿蔵の地、霊台寺(永慶寺)の工事現場を巡視の上、宿所に帰着した。同夜、城代柳沢権太夫保格の邸に老臣以下の参集を求め、藩公親製の穏々山霊台寺碑の披露を行った。田中省吾が朗読し、徂徠が文意を解説した。一同は藩公吉保の名文と徂徠の解説に服した。

・九月十二目は藩公の祖先発祥の地、武川衆ゆかりの地を訪れる日である。甲府城の南、隻羽(カタバ)口を右に見ながら甲府を後にし、藍河(相川)・荒河・苦河(句川・工川・貢川)を渡り、幻谷村(宇津谷村)を経て潮河(塩川)を越え、韮崎宿に到り仏窟山雲岸寺の仏窟に参詣した上で釜無川の東岸を北行し、七里岩の台上に新府城跡を仰ぎ見ながら釜無川を渡り、徳島堰に兵左衛門俊正の遺業を讃め、柳沢氏の本家、青木氏の故郷青木村に、青木家歴代の菩提所、武隆山常光寺に到着した。藩公吉保の祖父兵部丞信俊は、青木家の出身である。 

徂徠の『峡中紀行』の文を借りて、常光寺詣で以後の徂徠の動きを尋ねてみよう。

常光寺に到る。寺門は東向し、門前皆田なり。田を隔てて人家数十族を作

  す。音域村(青木村)なり。郷の有司来りて餉(カレヒ)を治むる者、住持の僧と偕(トモ)に出でて迎う。揖(イフ)して入り堂に登りて藩主先公の神主 (位牌)に謁し、而る後方丈に往きて話す。横山の時の封券を観る。人名の門の字、皆問に作る。蓋し古時なりとす。花押も亦時様の者に非ず。古撲頗る趣有り。

(中略)寺僧を拉ひて先公の墳墓を覧る。碑の制、諸(コレ)を今世都下士庶の用ひる所の者に比すれば、極めて短小なり。其の時俗想ふべし。字皆剥落して復た存せず。辞して寺を出づれば則ち先公の荘有り。迺ち来時の路を経て桐沢口に出で、折居村に入り、入戸野・円井村を過ぐ。果して徳渠発源の処有り、水声雷の如し。小武川を渡り官棭村(宮脇村)に至れば、則ち日暮れたり。土豪の家に宿す。是の日寒気甚だ粛(キビ)し。而して村は山中に在り。夜、庭に出でて徘徊す。月痕頗る小に、樹木蒼然たるを覚ゆ。忽ち鬼物の人を怖るるが如き状を見る。独り『猛虎一声山月高し』を吟じ、仔立之を久しうす。戸に入れば省吾、既に寝ねたり。

 

 

十三日、官脇村を出で、牧原を経て右のかた金峰を艮の方に挑む。北は則ち

谷鹿岳(ヤツガタケ)なり。西北行して山高村に入れば、路側に数人の捬伏す    る有り。之に訊ぬれは柳沢郷民の来り迎ふるなり。大武川を右にして西行す。川は鳳皇(凰)山より出で、東南に流れて小武川と合し、東のかた釜無川に注ぐ。南のかた音域(木)より北のかた慶来(教来石)に至る一帯の地を武川と号するは、此に由りて得たり。困りて藩主十二世の祖源八府君、十二子を武川の地に分封せし事を憶ひ、其の邑所を問へば則ち云う。

三吹は艮に在り、里にして近し。

白須は子に存り、界ハ山を以てす。

横手は戊に在り、大武川之を限る。僅に三里許りなるべし。

慶来は乾に在り、上下二邑有り、

上邑(上教来石)十二三里(十五六里)、

下邑(下教来石)十五六里(十二三里)なり。

上慶来に関有り、山口と曰ふ。適ち信州に界を接するの処なり。新奥は宮掖(脇)の西南山中に在り。其の東北に馬場、東南に山寺、各々多少の路有り。来路の由る所、音城(木)・牧原・官掖(脇)を併せて皆十二族の姓を受くる所なり、と。(中略)

 柳沢村 餓鬼嗌

己に柳沢村口に至る。星山故城有り。左側の黍田中に竹を挿みて表識する処、是を使君の旧荘と謂ふ。其の西十歩許り、昔時大柳樹有り、是れ邑に名づくる所の者、己に枯れたり、此の餓鬼嗌(ガキノノド)を去る幾多なるやを問へば、則ち邑の西南、山中十里許りに在りと。邑民を促し、引きて其の処に至らんとするに皆頭を揺り、其の険陰往くべからざるを恕ふ。強ひて後、之を可(キ)く。

  石空川を済り田禾の中を穿ち漸く山間に入る。(中略)己に一蠍突然横たは

りて前に在る者の下に至る。走れを第一関と謂う。蠍上を千里眼と為す。  兵部君の難を餓鬼嗌に辟くるの時、是れ其の暴客を待つ処なり。路左に転じて巘を過ぐれば、崖下半ば渓流の為めに留まれ極めて細し。水皆乱磯の間を環繞し、其の声聴くべし。崖下の路、忽ち聞く忽ち窄く、右に山腹の稍(ヤヤ)平かなる処を挑む。逸見の塁処と曰。左に両山相擁し、最も探き処を指し、是れを山高の塁処と謂ふ。櫟(ドングリ)平と名づく。更に行くこと一二町、復た蹊径無し。左は崖崩数丈可り、乱石無数、狼籍相倚り勢殊に畏るべし。渓流皆右に避けて行く。崖根悉く露はる。路蓋し其の嚙むむが為めに尽くるなり。云ふ、此より前七年、庚辰(元禄十三年 一七〇〇)八月十五日、大風雨有り、山大いに震ひ、崖上の大石飛落する者数を知らず。此より餓鬼嗌に至るまで皆亦り。

 (中略)前に滝三級を望む。珠奔り玉響き、以て耳を洗ふべし。頗る桃源秦

  人を辟くる、今尚ほ此の中に在るかと疑ふなり。左は則ち餓鬼嗌なり。其 

  の高さ幾十百匁なるを知らず。潤さ僅に五六尺、峻、言ふべからず。皆石

塊白砂、水無くして流れんと欲す。脚の措くべき無く、手も亦攀拠するを

得ず。

  仰ぎ視て惘然之を久しうす。邑人も亦還るを勧む。予、省吾と奮然として 

  相謂う。

『命を銜みて此に来る。豈に徒らに還るべけんや、且つ当昔難を避けし者は、藩主の先公と維も是れ寧んぞ人に非ざらんや』

と。相目して直ちに登る。砂、果して流れ墜ちて脚、支えざる者数なり。廼ち岩稜を得、一脚踏みて一脚探る。探るに得る所有れば、砂礫既に後踝を投せり。趾を抽くこと稍々猛なれば、右転じて後ろに在る者を撃つ。偶ま樹根の横出する者を得て喜ぶこと甚だし。一行二十人、佝僂して以て進む。(中略)遂に絶頂の処に至るを得たり。

 

  徂徠一行、餓鬼嗌に届かず

これは星山故城に登聾した際の苦しい記録であるが、まだ真の目的、餓鬼嗌には到り得ないのであった。徂徠はさらに筆を給いでいる。

 

崖崩れて路を圧し、塁所に至るべからず。(中略)前に塁所を望む。廼ち峻

  嶺盤曲の処、中間稍ミ平なるは三四十歩許り、潤さ僅に十数歩なり。後ろ崇く前庳く、腹寛く口窄く、地獄変相中、燄口鬼の細□大肚なる者の状に似たり。故に土俗名(餓鬼嗌)を命ずるのみ。遠く視れば暇々として亦皆砂礫に似るなり。一岩突として其の右に臨み、下は俵空洞の如し。亦数人を容るべきなり。聞く、兵部府君(信俊)此に匿れ、以て河清を待つ。而して邑人の祖先、多く此に産するは、当時の婦女、弓鞋何に縁りて登るを得たるかを知らず。况に世乱るれば健婦皆娘子軍なるか。然して壟前一壑を隔てて艸樹濯蔚し、水声淘湧して高深を知らず。土人を召して前行芟斬せしめ、塁地を蹈むに擬す。皆飢うること甚だし、苦愬して己まず。廼ち慨然として曰く、

   『予二人をして桃花源頭の処を躡むを得ざらしむ、亦命なるかな』と。

 

 徂徠一行は、遂に餓鬼嗌の塁跡を眼前にしながら、これを踏査することは断念せざるを得ず、あの剛腹な徂徠をして、亦命なるかな、との欺声を発せしめるに至ったのであった。

 下山は、登撃の際とほうってかわって速やかであった。ここでも徂徠の名筆を借りよう。

 

  壟を下り原の道を取りて、足を砂阪に投ず。五尺の躯の圧する所、砂と相  

  得て走る。走ること率ね七八尺、若しくは丈許り。石角を得て方に足を輟む。頃(シバラ)くして背後の二十人も相推して下る。砂礫其が為めに益々急なり。人砂の勢を相なすこと建瓴の如く相似たり。(中略)相還りみて謂ふ『阪に上る時将に里許りと謂ふ。今は則ち百歩に満たざるに似たり。現成の阪路、何に縁りて一は脩(ナガ)く一は短き。豊に山上に神仙者有り、俗物の来るを嫌ふが為の故に、駆逐して之を出すか』と。(中略)

 

狙彿一行の柳沢氏遺跡の踏査はこうして初期の目的通りには行かず、最後の餓鬼嗌は断念せざるを得なかった。しかし、既に初老を越えた徂徠が、地元の農民も辟易するほどの強健さを発揮したことは、驚嘆あるのみである。

 宝永三年九月七日から同十九日までの一三日間、朝は五更(寅の刻、午前四時)に出発し、日没後に旅宿に到着、それより寝に就くまでの間に、当日の調査事項を詳細にメモし、また随時に随所で興の湧く毎に詠じた漢詩も、後日のために整理するという忙しさであった。このように多端な公務の間に処しながら、一方、儒学者としては護国学派の総帥として活躍し、柳沢家の儒臣としてはもとより、幕府にも儒者として仕えた。

綱吉一代の実録である『常憲院実紀』の編纂主任を勤め、これが首尾よく完了した時、慰労として一〇〇石加増された。

 生まれつき頑健で、難苦の内に成長した徂徠は、豪邁不覇であったため、ややもすれば傲岸不遜であったかのような評価があるが、これは当たらない。むしろ温情溢れる人柄であったことは、この紀行の十一日目、江戸への帰路、甲州街道猿橋駅において、駅長旛野氏の後家の貞節と、その遺児の好学を二奇とし、奇橋猿橋、猿橋峡谷の窟穴、猿橋全駅を支える一枚の熔岩、の三奇に合わせて五奇を創し、ここに 「猿橋五奇、旛野氏ノ子にアタフ」の文を書いて与えたことで、よくわかるのである。「猿橋五奇」の説の中、旛野氏の後家とその遺児のことを、徂徠は次のように記している。

 

  土俗、婦人は夫亡すれば則ち其の家に就きて夫宿を納れ、以て家事を幹す。

  駅長旛野の妻、独り曰く、後夫有れば則ち子無きを待ず。子有れば則ち前

  夫の子を如何せん、と。遂に節を守りて嫁せざること今に七年なり。是れ倫綱の常、何ぞ寄とするに足らん。然れども世道益々波たち、節婦を見ることまれなれば、則ち奇と謂ふべし。予の此回(コノタビ)の祇役、諸名刹を往還するも、僧は皆瘂羊(アヨウ)、話、文字に及ばず。独り孀婦の子、能く予に就いて字を乞ふ。是れ又、転(ウ)た奇ならずや。

 

というもので、徂徠は、後世に母子家庭と呼ばれる旛野氏未亡人とその遺児の、健気な生き方によほど感動したに相違ない。これをあらためて揮毫し、旛野家へ贈ったのであった。徂徠の僚友省吾も同時に次の七絶を贈った。

    馬を猿橋に駐め、遊ぶこと両回

    橋辺の駅戸、流れに倍(ソム)いて開く

 最も憐む邑長の一病婦

    節を守ること七年、心己に灰ゆるを

 

 『峡中紀行』が峡中への官遊の正式な旅行記であるのに対し、その姉妹編と見るべき『風流使者記』は、いわば徂徠・省吾両士の峡中吟行記で、旅行期間中に親しく接し、または見聞した事項を即興的に賦した七絶の集録で、収めるところ三〇〇首、その内訳は、徂徠の作一五三首、省吾の作一四七首である。

 旅行を終えた十九日の夜、両人は柳沢邸に伺候して藩公吉保に復命した。吉保は慰労のことばに添えて、次の七絶一首を賜わった。

    千里の山川 十日の行

    峡中の事々 情を娯しましむるに任ふ

    明暗 客と為る 総べて悪しき無し

    惹き得たり 風流使者の名

 

と。この一首を読んだ両人の感激はいかばかりであっただろうか。こうして 『風流使者記』の名は生まれたのであった。

 徂徠の学才も、吉保の庇護があったからこそ、意のままに発揮することができたものと思われる。この一事によっても吉保の見識と文藻が、いかに非凡であったかが察せられる。『峡中紀行』・『風流使者記』は、甲府藩主柳沢吉保の儒臣徂徠・省吾の両人が、主命を奉じて峡中の地に出張し、主家発祥の地を中心として、藩都甲府、武田氏由緒の史跡などを旬余にわたって視察した記録と、その間に随所で賦詠した漢詩をまじえた紀行文であるが、その内容をつぶさに検すれば、藩地の山川・風土、世態・人情・風俗を綿密に描き出し、藩政の実状をそれとなく窺わせている。この点からも吉保の意図は知るべきであろう。

 






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最終更新日  2021年04月18日 06時20分52秒
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