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2019年05月15日
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柳沢吉保の事績 歴代皇陵の修理

  細井広沢

 荻生徂徠とならび称される吉保の儒臣に、細井広沢がある。諱を知慎といい、万治元年に遠江掛川藩士細井玄佐の子として生まれた。広沢は雅号である。広沢の兄芝山は諱を知名といい、尊王学者として知られる人物である。

 広沢は少年時代に江戸に出て儒学と書道を学んだ。儒学は朱子学と陽明学を兼修し、書道は明の文教明の書法、唐様の痕奥をきわめ、門下に三井親和・閑思恭・松下烏石らの大家が輩出し、広沢流の唐様は一世を風靡した。

 広沢は、また歌道・絵画・天文・測量・兵学・騎射・刀槍など、みな奥秘を究め、諸般にわたる学殖、識見は時流に擢んでていた。早くも広沢に目をつけた吉保は、元禄四年に儒臣として抱え、手腕を揮わせたのであった。吉保が、細井広沢・荻生徂徠など第一流の人材を召し抱えたことで、その経綸のほどが窺われる。

 広沢の兄芝山は、はじめ播磨明石藩主松平信之に仕えたが、延宝七年に信之が大和郡山に国替になると、芝山も大和郡山に移住した。

 大和国は、山城・河内らとともに、古代帝陵の最も多く分布する地域である。芝山は平素帝陵の荒廃を慨いていたから、この機会を利用して歴代帝陵の調査を行い、修陵の実現のために努力しようとし、公務の暇を見ては現地に赴き、あらゆる苦心を重ねて研究に没頭した。しかし久しく等閑に付されていたため、文献も殆んどなく、地元の住民に歴史的知識も乏しく、わずかな地名伝誦を頼りに考証を進めるという有様であった。

 当時の為政者の帝陵への関心も低かった。その例として、寛永十五年夏、京都所司代が奈良奉行に対し、管内の帝陵についてその所在や現状について調査報告を求めたところ、時の奉行の報告に曰く、「大和には陵一ケ所も御座なく候」と。驚くべき無責任さである。

 こういう社会の中にあって、芝山が取り組んだ大和国の古代帝陵調査は困難をきわめた。しかし、芝山はあらゆる困難に堪えて調査を進め、蝸牛の歩みながら漸く成果が現れはじめた。七年の歳月は瞬く間に過ぎて、貞享二年を迎えた。この年六月、藩主松平信之は、その人材を認められて老中に任命されると同時に一万石加増、下総国古河藩に国替を命ぜられた。その結果、芝山も大和を去ることになり、帝陵の調査研究も頓挫の形となった。

 この年、芝山は三十歳、老中松平家の儒臣として重い任務を負っているので、以後はこれまでに収集調査した資料の整理に専心した。

 それから六年目の元禄四年、弟の広沢が柳沢吉保に召抱えられた。この時吉保は将軍綱吉の側用人、若年寄上席、高一万二、〇三〇石であった。吉保と広沢はどちらも万治元年生まれの三十四歳であった。やっと諸侯の列に加わったばかりの吉保が、俊秀の広沢を儒臣に抱えたので、人々は吉保の度量に目を見張った。

 元禄七年、吉保は武蔵国川越藩主となり、老中に准ぜられ、次いで国内の由緒ある神社仏閣の造営修補の事を主宰する地位についた。このような事務は、故実・典籍に通じた人物でないと扱えない。吉保は広沢に一任した。それは、広沢が後年になって著した『諸陵周垣成就記』の次の記事から窺うことができる。

   知慎、嘗て故羽林吉保に仕侍し、元禄の頃天下の神社・仏寺御修補の事

を司りて、其事を知慎に与らしめ侍りぬ。時に知慎が兄知名、宿志を一

束に書て贈り、それより起りてかしこくも諸陵に事ありしなり。

 

とあり、さらに芝山の書簡の内容について、次のように述べている。

曰く、今、聖代に当りて、絶えたるを継ぎ廃れたるを興し給ふ。汝が仕

ふる主君は当時の柱梁として、わきて神両仏寺修造の事を司り給ふ。文

事に汝、事を与り承るなれば、時ありて此事を聞え上げてんや。万一此

の事成就せば、如何なる御祈祷、御造立にも踰えなん。

 

と。この書簡が広沢の許にもたらされたのは元禄十年春のことであった。広沢の兄芝山は当時すでに病いを罷っており、数年前より藩主松平信之に致仕を願い出てこれを許され、療養生活をしていた。そこで広沢は急いで病兄の畢生の悲願を主君吉保に伝えようとした。とはいえ、相手は首席老中の立場にある吉保である。広沢としても慎重を期さざるを得ない。幸いに好機を得て主君に建言したところ、吉保も、広沢の兄芝山の延宝以来の帝陵調査の苦心の顛末を聞いて深く感動し、必ず芝山の宿志を遂げさせてとらせよう、将軍家への執達もできるだけ速くしよう、兄にも心安く療養に精出し、吉報を待つように伝えよと広沢を励まし、将軍への執達の手続きを急いだ。

 吉保から執達を受けた将軍綱吉は、儒教の本義、仁義礼智忠信孝悌の道の実践者をもって自認するほどの人物であったから、芝山のこの度の挙を心から嘉尚し、その宿志を速やかに実現すべく、万端の方策を吉保に命じた。

 吉保は、草莽の臣芝山の微衷に出でたことが、遂に将軍を動かすに至ったことを喜び、自身の意見をも添えて広沢にこれを通知し、病床の兄芝山を励ますよう命じた。七月下旬のことで、病床で苦しんでいた芝山は、扶けられて衣服をあらため、江戸城と柳沢邸に向かって遥かに手を合わせ感謝の意を表わした。このことは広沢の『諸陵周垣成就記』に、

 

其秋(元禄十年七月)家兄(芝山)大いになやみ臥し給ひぬ。その折しも我主(吉保)知慎に命じて帝陵の御所在考へしめ、まさに諸陵に事あらんの御あらましなれば、急ぎ我が兄にかくと告げ奉りぬ。兄、病の床に在りて手を合せ、聖君あり賢佐あり、時なるかな。知名死すとも骨朽ちざらんと。又先考(亡き父)先妣(亡き母)を拝して、その教養にょりて此の心を今日にたもちて此の時にあへりとて大いに喜び給ふ。知慎心に思ふ。此の大善事を成す人、いかで福寿を得ざらん。疾病の平安、日を期して疑うべからず、且つ又子孫も出で釆て必ず繁茂せんとは、心肝に銘じて頼もしかりしに、いく日ならずして八月朔日、四十二歳にて失せ給う。

 

と、述べていることから知ることができる。芝山は、延宝以来の多年の労苦が実ろうという矢先、不幸にも病魔にたおれたのであった。

 いっぽう吉保は、綱吉の意を承けて慎重に手続きを進めた。八月二十一日京都所司代の松平信庸に命じ、武家伝奏の柳原資廉・正親町公通両卿をして次のように奏上させた。

 

  古来の陵、所々にこれ有る内、当時その所分明ならざるに付、雑人らも憚

  らざる体にこれ有り候ては如何に思召され候。その所ところに垣を申付け、

  猥に近付き奉らざる様、仕るべき旨仰せ出され、猶は又、各々へ相違し、

御内慮、御気色を窺い奉り異儀なきに於いてはその通りに申し付くべきの

由、申し来り慎間、御序で次第宜しく御沙汰有るべく候。

 

朝廷では、この奏上を嘉納されて翌二十二日、伝奏より京都所司代に次の返牒があった。

 

  大切の儀、思召し付かれ候段、誠に以て叡感斜めならざる御事に侯、いよ

  いよ右の通り仰出だされ候はば、御満悦たるべく候。此れ等の趣き、宜し

く申し沙汰有るべきの旨、御気色候。

 

 このようにして、帝陵御修理の件は円満に進められることになり、当時朝幕の関係の融和をうかがわせる。しかし幕府にこの美挙を発議させた発頭の人細井芝山は、この時すでにこの世の人でなかった。痛ましい限りである。

 幕府は、修陵について勅許を得たので、京都町奉行・奈良奉行・大坂城代らに命じ、管内所在諸陵を調査させて京都所司代に報告させ、集められた資料を基礎に修陵に着手したのは、元禄十年九月のことで、一年八か月の後に完了したことが、『常憲院実紀』に見える。

 

 こたび本朝、元弘建武の大乱以後、古帝王の寝陵荒廃して其の所在確かな

  らず。樵牧雉兎の蹊径となりき。然るを数百年を経て修治するなし。是一

大欠典というべし。しかるを当代(綱吉)感じ思召す旨ありて、この年比

御料は代官、私領は領主に仰ごと下り、普く古跡を捜索せしめ、薄籬を設け、

樵採を禁ぜられしに、此の四月その功を竣へし由、京職松平紀伊守信庸より

注進す。神武天皇より後花園天皇まで百三代、重祚二代と安徳天皇を除き(中

  略)二十二陵は漂没して其跡も定かならず。現今七十八陵のうち十二陵は

旧垣あり。六十六陵はこたびあらたに表章せられぬ。

 

広沢は、元禄十一戊寅年(一六九八)八月、吉保の命を奉じて京都に上ったが、その折のことである。

 

 寅の八月、知慎主命によりて都へ上りぬ。ここかしこ帝陵を見奉れば皆竹  

  の周垣を新に作れり。人に問えば東武の尊命有りてかくの如し。世にも有

難き御事なり。国家の御所頑、又上あるべからず。昨日今日までも、土人

牛馬に草かひ侍りぬ。誠に今思えばあさましき事なりしといふ。さてこそ

かくやと思ひて、有難さに涙ととまらぎりし。

 

 広沢のこの記事によれば、元禄十一年八月に京都所在の帝陵は修理が完了していたことがわかる。広沢の満足もさこそと思われる。元禄十二年(一六九九)五月、吉保は広沢を慰労している。

  翌卯年五月、我が主君、知慎をして此一冊ならびに一紙を見せしめ給いて、

  是れ汝が兄弟の寸心より出で、かく事ゆきぬ。されば汝も一通を写して家

  に伝えよ、又系図にも書き載せよ、と宣ひぬ。我が兄世にましましなばと

思えば、とまらぬ涙なり。

 

 とは『諸陵周垣成就記』の一節である。広沢は同年九月、大和国に友人を訪ねた。友人は

 

おととし帝陵御尋ねありて、某も役にさされ、大和路の旧跡ことごとく巡

り侍りしが、(中略)誠に昭代の御政多き中に、是は異国までも聞えてめで

たき御事なめりといふ。知慎、心の中に思ひ合せ侍りぬ。されど言に出す

べき事ならねば、げにもとのみ言ひてやみぬ。かくて暁近き頃、夢に我兄

を見侍りぬ。その齢三十に足らぬほどに見えて容貌ことに嬉しげに打笑い

給ふが、忽篤として見えず。夢心地にまさしく世を去りし人なりと慕はし

く悲しかりしが、又しばしありて、同じさまに見え給ふが、夢に見奉る事

は多けれども、かく麗はしく悦ばしき有様は侍らず。まさしく是は昨日の

暮、帝陵の御事ども申侍りしを悦び給うならんと思ふに、なつかしきこと

も亦やるかたなし。

 

と記している。広沢は元禄十一年(一六九八)に致任して当時は江戸浅草に住み、当代一流の書家として雷名をとどろかした。

翌十二年九月二十八日に『元禄諸陵周垣成就記』を脱稿した。

 吉保が人材を膝下に集めてよく保護し、それらの献策をこころよく納れて施政に活かしたことは、吉保の大をなした所以でもあるが、その顕著な例が広沢を通して志士細井芝山の悲願、歴代帝陵の修理を実現したことである。

 大正天皇は践辞されて間もなく、柳沢吉保の勤王ならびに民政の功労に対し、大正元年十二月十四日に従三位を贈って追彰された。

 策命文(詔勅)の主文は次の通りである。

  従四位下柳沢吉保の墓前に宣はく、汝(イマシ)が命は皇室を尊び奉る心深く、

大嘗祭及び賀茂祭の廃れたるを興し給う時、其事に携はり力を渇し、御代

御代の山陵の埋没せしを探り求め、荒れ廃りしを修理するに当りてよく勤

(イソ)しみ労(ハタラ)き、或は武蔵野を開きて許多(コトダク)の田島と為し産業の道にも力を尽したるを聞し召し、其の功績を褒め給ひて今回特に従三位を贈らせ給ひ位記を授け給う。(下略)

 

これより先、細井芝山・同広沢兄弟の元禄修陵の功績に対しては、明治二十一年七月、その後裔細井昌太郎に祭棄料を賜わった。

     御沙汰苦書

             細井昌太郎

   祖先細井知名同知慎、深く山陵の荒廃を嘆じ、知慎を以て老中柳沢吉保

へ建白し、遂に元禄中諸陵修営の挙あるに到り候段、奇特に思召され依

て、祭粢(さいし)料として金弐拾五円下賜候事

    明治二十一年七月二十七日 宮内省

 

細井知名すなわち芝山は、病身で子がなかったので、絶家となっていたので、知慎すなわち広沢の後裔昌太郎に与えられたのである。

 のち九年、明治三十年四月に至り、細井芝山・同広沢の兄弟に対し、前記の功績に対し、従四位追贈の御沙汰があった。

 のち十五年、大正元年に至って柳沢吉保が贈従三位の恩典に与り、元禄修陵の功臣、ことごとく顕彰の光栄に浴したのである。

 






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最終更新日  2021年04月18日 06時20分23秒
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