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2019年05月15日
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柳沢吉保 川越城主 三富の開拓

 元禄七年正月、吉保は将軍家輔佐の功により一万石を加増され、領地をあらためて武蔵国内で入間ほか四郡、

摂津国内で川辺ほか郡二郡、

河内国内で渋川郡、

和泉国内で泉・大鳥二郡、

以上の内で七万二、〇三〇石

を領し、武蔵国川越に薄地を賜わり、入部したのである。

 川越城は、長禄元年(一四五七)に扇谷上杉家の老臣太田道灌が築いた名城で、相模北条氏を経て天正十八年、徳川氏の有に帰した。

 家康は川越城の江戸防衛の戦略的重要性に鑑み、この城主の人選には苦心した。天正十九年から寛永十一年まで酒井氏、同十二年から同十六年まで堀田氏、同年から元禄六年まで松平氏、というように、いつも徳川氏同族の腹心を藩主とし、川越城を守衛させてきた。

 松平伊豆守信綱の孫信輝が下総国古河に国替になった直後の元禄七年正月、吉保は川越の地に入部した。領内の民百姓たちは、今度の殿様も威張って入城するだろうと予期しながら迎えたところ、予期に反して規律は整い、藩士たちの動作は静粛で、領民を威圧する風は全く見えず、一同を深く悦服させたという。

 実は、吉保は入部に先立ち、家中の諸士に「士綻条目」を示して、堅く守ることを命じた。その主な内容を示せば、

領内の百姓町人に対し、侍風を吹かし、無法な行為をしてはならない。

いわれのない貰い物は堅く禁ずる。

日常の生活は質素を旨とし、侍の本分に励むように。

藩主の吉保は家臣たちの範となるように努力するので、諸士は領民の範となるように努めて欲しい、というもので、これが藩士たちに徹底していたからであった。

 吉保は入部して、領内を富ませねばならないと考えた。川越城は入間郡にある。城の南およそ一二キロメートルの所に武蔵野と呼ばれる原野がある。現在の入間郡三芳町大字上富、所沢市大字中富、同下富にわたる地域である。東西三・六キロメートル、南北五・一五キロメートル、面積一四万キロメートルにおよぶ。

入間郡二九か村の入会地で、農民たちが幾らかの野銭を領主に納めて採草地とし、株や茅を採取してきた関係上、複雑な入会権が絡み、争いの絶えないところであった。

 将軍家側用人である吉保は、藩政の運営は、城代家老曽爾権大夫に一任していた。権大夫の諱は貞刻、甲斐武田氏の祖、武田太郎信義の弟、曽爾禅師厳尊の十五世の嫡裔で、吉保の股肱の臣として、のち柳沢の姓と保の一字を賜わり、柳沢権大夫保格と名のる人である。

 吉保は、権大夫から武蔵野の様を聞き、ここを開拓して農民を豊かにしようとと思い立った。これには吉保の政治理想が土台となっている。

 『論語』の子路第十三に、孔子が高弟の冉有(ゼンユウ)と衛の国に行ったとき、人民が多いなと感心した。冉有が問う、多い人民はどうなさる、と。孔子は、富ませることだ、といわれる。再有がまた問う、人民が富んだらどうなる、と。孔子は、人の道を教えることだ、といわれた。

 民を富ませ、五倫五常の道を教えるのが政治の理想だ、と吉保は考えていたのである。

 吉保の意を承けた権大夫は、武蔵野に関りのある二九か村の全名主を立会わせて検地を行い、争点の調停を済ませて絵図を作り、各自が納得の上で境界を画し、承諾の印判をとった。いま三芳町上富の旧名主島田家所蔵の古文書に、元禄七年七月二十二日に、勘定奉行・川越城主・江戸町奉行・寺社奉行連判の上富村地割絵図と立野境界争論裁許状がある。

 これによれば開拓着手は元禄七年七月下旬と推察される。入植希望農民たちの努力により、二年後には上富・中富・下富の開拓が終了した。

 開拓終了とともに周辺の村々から入植させ、元禄九年検地の時は上富四九一町歩(四八六ヘクタール)、中富二一一町歩(二〇九ヘクタール)、下富二五四町歩(二五一ヘクタール)、計九五六町歩(九四六ヘクタール)の耕地と、上富九一屋敷一四三戸、中富四〇屋敷四八戸、下富四九屋敷五〇戸、計一八〇屋敷二四一戸の大新田集落が誕生した。

 開村の年、元禄八年より向う五か年の問は無年貢、元禄十三年より徴税が開始された。

 三富開拓は、荒川右岸の丘陵地で、東方を流れる荒川は深い峡流をなして利用できず、開拓民は用水に苦しんだ。吉保は一二か所の共用井戸を掘り上げ、お助け井戸と呼ばれた。

 吉保は三富の民に心の拠り処を与えようと、元禄九年上富に臨済宗妙心寺末の三富山多福寺を開き、名僧洞天恵水和尚を開山に請じた。境内一四万五、〇〇〇坪(四七・八五ヘクタール)、年々米一〇〇俵を寄進して寺の経営を助けたという。三富開拓に尽した吉保の功績は不朽である。






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最終更新日  2021年04月18日 06時17分56秒
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