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2019年05月15日
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柳沢甲斐守吉里 武川衆諸家列伝 『武川村誌』

 出 生

 吉里は吉保の嫡男で、貞享四年(一六八七)誕生した。生母は飯塚染子である。初名を安暉といい、中途で安貞と改めた。通称を兵部といったが、元禄四年十一月、将軍の一字を賜わって書里と改名、従四位下伊勢守に叙任した。父の余光によるもので時に年十八歳。

 これにより先、元禄五年九月、綱吉が柳沢邸に臨んだ時、貞宗の脇指を賜わり、学問の弟子とされ、経書の句読を授ける旨の沙汰があった。

父吉保と子吉里と、二代にわたって将軍綱吉と師弟の間柄にあったことは、当時世間から羨望され、嫉祝されたことであろう。

 元禄六年三月、七歳の時はじめて将軍の宮中の別座において、『四書集注』・『小学句読』の二書を綱吉自身から賜わった。同八年十一月にはじめて綱吉から大学の句読を授けられた。同年十二月、綱吉の親筆「福寿」の二大字を賜わった。同十二年十二月三日、従四位下越前守に叙任した。時に吉里十三歳であった。

 父吉保に似て聡明であった。吉里は前述の如く飯塚染子の所生であるが吉保が染子を側室に納れたのは、正室曽雌定子に実子がなかったために、曽雌氏の同意を得た上でしたことで、道義的の問題は何もなかったのである。

 染子が教養の高い女性であったことは、これも吉保の項で述べたその参禅記録『故紙録』によって証明される。

 元来、染子は上総国市袋村の浪人、飯塚杢大夫正次の息女で、吉保の生母了本院佐瀬氏が天和元年に柳沢家に復縁になった節、その侍女として伴われ、仕えてきた女性である。

 吉保の正室曽雌氏は内助の功の高い賢婦人であったが、運わるく子宝に恵まれなかった。封建時代の常、後嗣の無いことは武士の家にとり、致命傷というべきものである。吉保は曽雌氏と相談して側室を置くこととし、先年来、生母了本院の侍女としてその人柄を見抜いていた染子に、白羽の矢を立てたのである。

 染子は才色兼備且つ慎み深い身性であった。吉保に侍するようになって数年後の貞享四年九月、二十二歳のとき吉里を出産した。時に吉保は三十歳、高二、〇三〇石、小納戸上席、従五位下出羽守。まさに飛躍の直前であった。

 吉保の父安息は、待望した嫡孫の誕生に満足したせいか、翌十月、八十七歳で世を去った。

 染子の姉妹は、そろって才女であったが、中にも染子の妹に当たる女性は格別であった。この女性は幼くして仏門に入り、江戸谷中の浄土宗寺院に弟子入りしたが、天賦の才能を発揮して博学高徳の名神と謳われ、元禄年間には若くして信濃善光寺大本願第一一三世住持、智善上人と仰がれるようになっていた。

 善光寺は天台浄土両宗兼学で、天台宗の方は大勧進と呼ばれる僧寺が管掌し、浄土宗の方は大本願と呼ばれる尼寺が管掌してぃた。

 善光寺は、中世の戦乱のため寺運が衰退し、江戸時代に入っても元和元年と寛永十九年と、僅かの間に二度の大火にあって衰運の極にあった。以来、仮本堂を建てて急場を凌いだが、元禄年間に入ると猶予のならぬ状態になった。

 元禄十三年、この難局の中で大勧進住持職に就いたのが吉保の甥慶運で、大本願住持職には吉保の側室染子の妹、智善が就いていた。慶運はきびしい性格に加え計画的に事業を進める人で、非常な決意のもとに金堂の再建に着手した。まず造営資金調達のため翌十四年から五か年間、全国各地で前立本尊の出開帳(よそに出て本尊の秘仏を公開すること)を行い、予想を超える巨額の資金を集め得た。

 智善も慶運の金堂造営に全面的に援助した。また将軍綱吉は、幕府の棟梁甲良宗良に金堂の設計をさせ、その弟子に現場監督を命じた。総指揮は吉保であった。こうして宝永元年九月に起工、三か年後の同四年八月に竣工した。善光寺と柳沢氏一族との関係はまことに深い。

 曽保と染子を両親とした吉里は、天性聡明であった。元禄十四年十一月十五日に十五歳で元服、将軍綱吉より祝儀として来国俊の刀を賜わった。同月二十六日に綱吉が吉保の邸に臨んだ節、柳沢父子に対して綱吉の語の一字「吉」を与え、徳川家一門に准じて松平の姓を与えた。この日、父の柳沢出羽守保明は松平美濃守吉保と改め、嫡男の同じく越前守安貞(初名安揮)は松平伊勢守吉里と改めた。さらに吉里は、翌十五年侍従に任ぜられた。

 宝永二年二月五日、十九歳を迎えた吉里は将軍綱吉の所望で『論語』を進講したが上々の首尾で、綱吉は一文字の刀を賞賜した。綱吉は同六年正月十日に病死し、世子家宣が嗣いだ。

 

柳沢吉里、家督をつぐ

 宝永六年六月三日、吉保が六代将軍家宣の許しのもとに大老の職を辞して隠居すると、嫡男吉里は家督をつぎ、高一五万二、〇三〇石の甲府藩主の地位についた。時に年二十三歳。

 この日、吉里は家宣の許しを得て二人の弟、十六歳の刑部少輔経隆と、十四歳の式部少輔時陸とに、山梨・八代両郡の内で新墾の田、それぞれ高一万石ずつを分かち与えた。将軍の直臣で、高一万石以上のものを大名という。

 思うにこれは、吉保が隠居する以前に新将軍家重から内諾を受けていたものを、父の隠居直後に吉里が正式に許されたものであろう。

 将軍家宣が許すということは、当時の権力者の老中、側用人の間部詮房や侍講の新井白石らの問にも異議のなかったことを意味し、後世に伝えられる犬公方綱吉の死後、将軍家宣が即時に「生額燐令」を撤廃し、同時に大老・側用人吉保を追放したとする説は、前半の「生類憐令」即時撤廃は事実であるが、後半の家宣が吉保を即時追放したとするのは事実と大いに相違する。家宣と吉保の間は終始円満で、隠居を願い出た吉保を家宣は丁重に慰留し、五か月後に至って漸く許したのである。

 ただ間部詮房は、己れの才能の吉保におよばないのを棚に上げて妖妬し、敵意を抱いており、また新井白石は、吉保に重用された荻生徂徠に対し強い妖妬心を感じていたので、その徂徠を重用した吉保を後年に至って誹讃したのである。このような訳で、吉保の死後に書かれた低俗な小説・講談本・脚本の額、たとえば『柳沢騒動記』・『護国女太平記』・『日光郡部枕』などがあり、『兼山麗沢秘策』は白石談話の筆記といわれるが、後世の史家から事実無根の悪書と評価されている。

 吉保退隠ののちその二子が、吉保を批判するべき立場の将軍によって大名に取り立てられた事実こそ、吉保の潔白を証するものである。

 享保九年、吉里が大和郡山に国替になった時、経隆は越後黒川藩に、また時睦も越後三日市藩に転封となり、両家とも明治維新後まで続いた。

 

吉里の民政

甲府に入城する

吉里は、宝永七年四月二十一日、はじめて甲府に入城した。それから半年ののち、甲府惣町の家持に対し、一戸当たり青銅五〇〇文を賑給した。賑給というのは奈良平安の昔、毎年五月京中の貧民に対し、米塩を施与した朝廷の年中行事のことであるが、吉里はその故事にならって甲府城下の民に賑給という形の藩主就任披露をしたのである。これに続いて吉里は、甲府城内の楽屋曲輪(いま県庁本館のある所)に能舞台を設けて能楽を興行し、国中の神主・僧侶・百姓・町人の別なく観能を許し、吉里自身も何番かを披露した。善政を布いて民心を収摸し、先祖の地を長く領知するのが君父に酬いる道と考えたのである。

吉里の治績のうちで、特筆すべきは、農政の面での穂坂堰の開削である。この治績は、父吉保の武蔵川越城主時代に成し遂げた三富開拓に比べ得るほどのものである。

 茅ケ岳火山の南西麓に位置する穂坂の台は、古代の官牧穂坂牧の置かれた所で、火山灰から成る台地で、内陸盆地の常として降水量乏しく、したがって早魅の害をうけることがしばしばであった。中でも三之蔵・宮久保・三ツ沢の三村は最も渇水の著しい土地で、村内一、二か所の湧泉も旱魃には涸れてしまい、村人は馬の背に水桶を結びつけ、四キロメートル以上もへだたる塩川まで下りて川水を汲み上げ、持ち帰って飲用に当て、渇を凌ぐのであった。

 たまた享保元年(一七一六)の夏、未曽有の大旱魃に見舞われた三村では施すすべもなく、村役人を代表として窮状を藩主に直訴させた。

これに対して吉里は、「世の中に水ほど得易いものはないといわれるのに、これら三村の民は、その水にこんなに苦しんでいる。気の毒なことである」とい

って、水利土木に長じた家臣山口八兵衛政俊を普請奉行に命じ、堰の開削に当たらせた。政俊は水源を浅尾堰の余水に求める方針を立て、享保三年三月に起工した。

 普請奉行山口政俊は三村の役人一五名と堅く誓い、もしも、工事が失敗の節は、政俊は切腹、三村役人は磔を覚悟の上で村人を督励した。三村の婦女子らも遠近の神社に百社参りをし、また伊勢の内外宮に代参を派して完成を祈った。

 工事の必要経費九〇八両のうち、五八七両は藩の負担、二四〇両余は地元負担でまかなったが、なお不足の八〇両は藩主吉里が手元金を三〇年賦無利息の条件で貸し与えた。

 このような上下一致の苦闘の結果、工事は思いのほか進捗し、同年九月には完了した。

 以後三村の民は、飲用水はもとより潅漑用水にも恵まれ、二、三〇〇石余の増収となった。

 藩主吉里は、三村の役人一五人にそれぞれ畑三畝を賞賜した。享保五年(一七二〇)六月、三村の民は風越山暗渠の口に「大穴口碑」を建て、付近に柳沢

神社・山口霊神の生両を祀った。

 後年、吉里の家老柳沢里恭(サトトモ)が主命を帯びて穂坂堰を検分に見えた時、

三村の民は老幼婦女の別なく堰下に群れ集まり、涙をまじえて主君吉里の仁徳を讃えた。里恭も、三村の民が日夜協心戦力、堰を完成したことを激賞した。

「ああ、勤しむかな、三村の民、力をあわせ心を同にすること、戦いに臨んで死してのち己むが如し。是を以て能くその工を遂げしなり」と。

 

柳沢吉里 甲府城の修築

甲府城は、浅野長政・幸長父子が在城した文禄二年(一五九三)から慶長五年(一六〇〇)までの間に完成したとみられ、当時は壮麗な城郭であったが、関ケ原役後徳川氏の直轄となり、徳川将軍の兄弟が藩主に封ぜられても、家門は領国に就かないならわしであったため、城はただ物見櫓と石垣の際の丈の低いひめ垣があるだけで、殿舎は設けられなかった。

 ところが宝永二年(一七〇六)、柳沢氏が甲府に封ぜられると、当然殿舎を営まざるを得なくなったので、土木工事が始められるごとになった。

 宝永七年(一七一〇)、はじめて吉里が入城した時は、殿舎の普請も完成し、大名の居館にふさわしい構えとなった。主な曲輪を挙げてみると、大手橋を渡って北行し、大手門を通って左折すると楽屋曲輪に入る。ここには楽屋御殿があり、儀式を行う。いま県庁本館・教育庁はこの曲輪跡にある。その北に接して屋形曲輪がある。ここに屋形御殿があり、藩主以下の居館となっている。いま県議会議事堂・県庁北別館・山交デパートはこの曲輪の跡である。          

 天守台の西が本丸、本丸の西に一段低く二の丸がある。いま武徳殿がある。二の丸の南の一段低い所が台所曲輪で、県議会議員会館がある。天守台の東の一段低いのが天守曲輪で、本丸を取り巻く形に南西に延びている。天守曲輪から一段低く東に稲荷曲輪がある。いま青少年科学センターがある。稲荷曲輪の南東に接して数寄屋曲輪がある。ここに数寄屋御殿があった。数寄屋曲輪の西の一段低い広場が鍛冶曲輪で、一蓮寺の故地で、武具修理場・武器蔵があった。いま恩賜林記念館がある。屋形曲輪の北に清水曲輪があった。清水御殿があれ、吉里の子供たちの住居であった。いま甲府駅敷地。稲荷曲輪の北に御花屋敷がある。いまサドヤ醸造場・東京瓦斯会社がある。

 城の外に南北に内郭があり、武家屋敷があった。内郭の外に掘と築地があり、その外が城下町で、内郭と町屋の境に見付門がある。本城の門は大手(追手)門・山手門・柳門の三か所で、門の外側の掘には大手橋が架けてあった。内堀は鍛冶曲輪南の堀を残して大正末年から昭和初年にかけて埋められた。

 吉里は甲府城下の町並の整備にも熱意を示し、父吉宗がかねて命令した事項の実現を強力に進めた。これまで古府中と呼ばれていた区画を廃して府中に繰入れ、古何々町をやめて元何々町とし、古城を御館跡と改めたのも武田氏崇拝の心を端的に示したものであろう。

 柳沢氏二〇年間の経営によって、城下町甲府は面目を一新した。『甲府御城付』によれば、享保九年、侍屋敷三四七軒、与力同心七三二軒とあり、また町家は家数一、八三七軒、借家一、0〇一軒、人数一万四、0〇六人、内男六、七三一人、女七、二七五人とある。

 他国商人の往来も多くなり、商品流通も活発化した。京・江州から小間物・太物類の商人が甲府を訪れ、江戸からは薬種・小間物、越中の薬売、信州の酒も入り込んできた。『裏見寒話』に「勤番士引越の頃(享保九年頃)は、昔より保山父子の余沢によりて大いに繁華になり、香具の類・呉服の類を始め、不自由なることなし」と述べられている。

 

柳沢氏善政説に対する異説『武川村誌』

 

 『源公実録』の一節の次の記事は、柳沢氏の善政の証として史家の間よく引用される。甲州より大和郡山へ所替の時、領中の民が米を残らず納めた。何処に於いても所替の時には百姓は上納を怠り勝になるものであるのに、吉保は平生慈悲 深きが故に、年貢の徴収にも百姓の難儀にならぬよう、非道の事なきように、無理押しのなきように、毛見の節にも百姓等の物入りなきようにと、郡代

代官を戒めるによって、役人共も心附厚く、為にかくの如く滞納しないのであると、その頃城中で曝したという。

 というもので、これは辻善之助博士の著『人物論叢』に、「柳沢吉保の一面」 の題のもとに収載した博士の講演記録の一節で、その出典は『源公実録』である。この吉は吉保の重臣柳沢重守が多年吉保の側近に侍して、直々に聞いた話の書留で、史料的価値の高い書物とされ、多くの史家に引用されたものである。

一方戦後の地方史学は長足の発達を見せ、領民側資料を検討して得た成果によって、従来の『源公実録』的評価による柳沢氏善政説に対し、具体的資料よる批判が加えられた。

その第一弾は、『新編語藩史』第四替所収の飯田文弥氏執筆「甲府藩正徳検地」 である。

 柳沢吉里は、就封の第一年宝永七年から享保七年にかけ、山梨郡栗原筋、八代郡大石和筋・同郡小石和筋の各村に検地を実施した。

 正徳元年(一七一一)に栗原筋下井尻・西後足敷・上塩後、以下一二か村を検地した。これが正徳検地のはじめである。以下にその実態を飯田氏の原文のまま記述させていただく。

 吉里は宝永七年から享保七年にかけて、山梨郡栗原筋と八代郡大石和筋・小

石和筋の各村にわたる検地を実施した。地域的にはかつて甲府家によって検地の行われた旧桜田領(河西領)を除外し、甲府盆地東部の三筋でこれまで旗本の小給地が複雑に入り組んで検地が区区に行われてきた所であったので、統一的にこれを実施する必要性に基づくものであったと考えられる。そしてその結果は、石高において少なくとも前検地出高を踏襲するものであり、あるいは新出高を認めることによって領民の期待を裏切ることになった。この検地による山梨郡の出高は八九九八石余と記録されている。

大石和筋一ノ蔵村(現一宮町)の場合についてみょう。同村は旗本安藤次右衛門の知行の際、延宝六年(一六七八)に検地が行われたが、芝間新田開発などはないにもかかわらず、慶長検地の村高に比べて百十九石余の打出となり、訴願の結果取箇にて酌量されることになったという。柳沢領となって以来、右

の出高について願い出て、従前通り取箇で用捨される方法がとられていたが、享保二年(一七一七)一統の検地が施行されることとなり、高も減少することと喜んでいたところ、反別においては従来の反別三十五町歩余のうち四町六反余減じたが、田畑共に品等が格別に上がったため、高は減らないことになった。

 つまり

『安藤次右衛門様御検地之儀ハ、地面相応之位ニ而反別ニ而出高仕供故、百 姓小前ニハ高下無御座候処ニ松平甲斐守様御検地ニ而反別ハ減ジ申候得共、位ニ而出高仕候故百姓困窮仕候御時』

というのである。

 また同筋上岩崎村(現勝沼町)ほか十四力村の訴状 (寛保元年・一七四一》

に示される

『村々困窮之元ハ、宝永年中より松平甲斐守様御検地ニ而、新田見取場等本

途ニ直り、其上位直又ハ石盛上り候而移敷出高仕、豊年之年ニ而モ御年貢 上納仕慎得ハ、余り籾無御座場所多御座候』

というのは、この柳沢検地の性格と、その後の難渋の模様を記したものであるが、かりに次に掲げる同筋南野呂村(現一宮町)の場合の措置が一般的であったとするならば、現実には出高を生じた村に対しては、新高による貢粗取立ては延期され、それが実施段階に入ってまもなく柳沢氏は国替となったと考えられる。すなわち

 

宝永二乙酉より正徳年中松平甲斐守様御知行所ニ而村高四百弐拾三石五斗六升也、御取米弐百三捨石内外ニ而御上納仕候義、享保六辛丑年迄凡十七箇年内也、然所、享保三戊成年十一月甲斐守様御検地有之、五拾七石八斗九升新検ニ而出高イタシ、村高四百八拾壱右四斗五升ニ相成候得共、丑年迄九ノ内ハ古高ニ而御上納仕、享保七壬寅年新高ニ而御上納イタシ、同九卯年柳沢氏御国啓ニ相成申侯』(『一宮町誌・史料篇』)と。

 

柳沢氏支配中の検地は、以上のように位直し或いは石盛りの引上げによる出高をねらいとし、対象地域である東郡における生産力発展の成果をつみ取ろうとするもので、本来的な検地による石高制にもとづく徴税政策の最終的段  階を示したものとみることができよう。

 というもので、この資料によれば、柳沢氏の正徳検地は、検地対象の位直し、あるいは石盛の引上げによる出高、すなわち税収増加をはかるに急で、領民の期待を裏切る結果となった。苛酷な収奪は農民の再生産意欲を失わせ、農村は衰滅するのはなくなるであろう。『源公実録』は、これに目をそらしていると評されても、弁解の余地はないであろう。

 

 その第二弾は、手塚寿男氏著『近世甲斐の史的研究』の第九章に収められた「笛吹川以東の旗本検地と柳沢検地」の論文である。第一弾、第二弾と記すのは、前者が昭和五十一年刊行の新人物往来社の『新物語藩史』第四巻所収であるのに対し、後者が昭和五十九年刊行であるからで、論文そのものは昭和五十一年十一月発行、山梨郷土研究会機関誌『甲斐路』第二九号に手塚氏が発表されたものであるから、学界への発表は同時とみてよかろう。

 手塚氏の論文の結論は飯田氏のそれと同様に、柳沢検地が民生を豊かにするものでなく、善政といえないものであったことを実証しているが、紙面の都合上、ここには手塚氏の論文のうちから、享保二十年(一七三五)の八代郡小石和筋北八代村の役人衆が柳沢氏の政策について村明細帳に記述したものと、寛政六年の同郡同筋小山村の役人衆が、石和代官所に差出した「小山村御吟味ニ付申上候書付」 の二点を紹介するにとどめる。

 「享保二十年(一七三五)北八代村明細帳」にいわく、

 当村之儀、先年ハ御三給様ニテ御座候所ニ、其ノ節ニ引合ハセ申候而ハ、松

 平甲斐守様御領地ノ内、連々御高免ニ成り、難義仕り候、(中略)既ニ壱年分 

 御年貢送リノ様ニ御上納仕り、御百姓立チ罷り在り候所ニ、御所替ニ付、辰 (享保九年)ノ春御米五百俵、御金方四百両余「差急ギニ御取立故、衣類・家財・四壁ノ竹木・種物等迄売払ヒ、皆済仕慎ニ付、過半潰レ百姓ノ様ニ罷り成り候、(中略)御給所様ノ節ハ村中ニ馬も五拾八疋御座候得共、連々困窮、右ニ御料ニ相成候節弐拾三疋に成り院処、只今漸々九疋なりでハ御座無ク候

 

というものである。北八代村は元禄年間には三給であった。三給とは三人の給人(領主、多くは小身の旗本)に分領されることをいう。当時は凶年を除く取米の平均は五二七・六二五三石で、徴収率は四六・四%であったが、柳沢氏領有後の宝永二年(一七〇六)の取米は五五六・二四八石で、徴収率は四八・九%となり、明らかに高免となった。同明細帳はまた、農家二〇四軒中に、水呑一六軒と、別に潰百姓七五軒を記録している。その原因のすべてを柳沢氏の農政に帰するわけにはいかないが、享保九年(一七二四)春の国替のために差急ぎ米五〇〇俵、現金四〇〇両余を徴収したため、農民は衣類・家財・屋敷周囲の竹木・再生産に不可欠の種籾まで売払って完納はしたものの、過半は潰百姓同様になった、とある。これは『源公実録』の記事に比べ、あまりに違うので、どちらが真相なのか、究明すべきことであろう。

 次に寛政六年(一七九四)の「小山村御吟味ニ付、申上候書付」にいわく、

 

当村ノ儀、慶長年中ノ御検地ニテ高弐百石五斗七升二合御座候、其ノ後、

享保年中松平甲斐守様御領分ノ節御検地コレ有り、弐百五捨石程ニ相成り 

候処、御検地ノ頃御国替ニ相成り、新検相止ム所、元ノ古検高ニテ御領所

へ相渡シ、其ノ後田安様へ御引渡シニ相成り候、右御検地ノ節、古検水帳

御取上ゲニ成リ、新検水帳モ御渡シ下サレズ、新古共水帳ハ御座無ク候

 

と。小山村は、この書付けの通り文化三年の調査でも高二〇〇・五七二石、戸数二八、人口一三一、内男六〇、女七一という小村である。他の文書によれば、同村はもと二三町九反九畝一四歩半であったが、旗本領時代に紛争が起り、享保七年の柳沢検地の時は二九町九反歩余であったという。この検地の際に古検水帳を取上げたままで新検地を実施しようとしたが、国替えのため中止になったとある。

 飯田・手塚両氏の研究により、柳沢氏善政説の根拠が危うくなったことは否定できない。しかし、『源公実録』の著者と編集事情を考慮すれば、所説が絶対に公正で客観性をそなえたものといえないこともやむを得なかろう。

 とはいえ、吉保の川越藩主時代の三富開拓の功績、吉里の甲府藩主としての穂坂堰開削の功績は、何びとも否定できないであろう。柳沢父子は、藩主としては楽只堂家訓の「それがしが家臣たる者は、家老・頭分は子遊を鏡に致し、諸士は滅明を模範に致すべく候」の戒めを常に心に懐き、善政を実現しょうと期待したことは認めなければならない。それにもかかわらず、善政とは認められない事実が少なくなかった。これをどう説明するか。

話は飛躍するが、ここに『徳川幕府県治要略』の解題の中で、滝川政次郎博士が述べた一節を引いてみよう。

 戦後の歴史家は、もっぱら農民の側に立って、彼らの窮状を叙し、小作人の

 悲惨を述べるが、悲惨なドン底生活をする細民は、明治の昭代にも存在した

 のであって、江戸時代に限ったことではない。まともに年貢を取られたら農

民は生きてゆけない。五公五民の本途物成の上に高掛三役、口米込米等の附加税を加算したら、二公一民を上廻るものとなって、百姓の喰い分はなくなってしまう。そんな税法が法文通りに行なわれたと考えることが、すでに非常識というものである。厳重な制裁が伴っている統制経済法が施行されていた占領中でも、日本人はどうにか食って来たではないか。我々の祖先は、そんな無茶な税法を強行するような愚か者でなければ、その強行を許すような意気地のない国民でもなかった。縄心は別に規定なく、検地奉行の意見に任されていたというものの、長九横八の法を行うことは天下の大法であって、これに違犯する奉行は、社会的な制裁を蒙らざるを得なかった。長九横八に縄弛みを加えれば、約三割の畝引きとなる。それに百姓は毎年不作を言い立てて税率の引下げを乞う。百姓の不作話と商人の損話は常の事であって、商人が損と元とで蔵を建ててゆくごとく、百姓も不作々々で肥え太っていったのである。江戸時代の農民の生活が、戦後の歴史家の言うような悲惨なものであったとしたならば、あの朗らかな調子の民謡が、今日地方に残存している筈はない。江戸幕府の民政は、明治の歴史教育や、戦後の社会経済史学で教えられているほど、悪いものではなかったと思うのである。

 滝川博士の説は含蓄に富み、考えさせるものである。

 柳沢氏の現実の農政とは裏腹に、大名たちの間では善政の結果、国替の際に滞納がなかったと曝されたということは、元禄・享保時代の世相を暗示しているように思われる。






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最終更新日  2021年04月18日 06時17分22秒
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