カテゴリ:甲斐武田資料室
勝頼に従う者四十四人、武田家の最期、信長・家康の甲州入り
(『甲陽軍鑑』)編著吉田豊氏を中心に(一部加筆) 【勝頼公討死の事】 小山田兵衛が郡内の岩殿にお連れしようとしたので、勝頼公は鶴瀬までおいでになり、そこに七日間滞在された。途中、柏尾で人家をうちこわせと命じられたが、これは源氏調伏の寺があったためである。ところが山伏たちは、それはできないと申しあげ、最早お足もとから反抗する者が出てくる始末となった。 さて小山田兵衛は、鶴瀬から郡内の方向にどこまでも木戸がまえをこしらえた。人びとが、これほどういうわけかと尋ねると小山田の家来たちは、「勝頼公を岩殿へお迎えするからには、ただちに備えを作らねばなりません」と答えた。 また、小山田八左衛門という、当時名高い武士がやってきた。この者は勝頼公ご秘蔵の者であったためお喜びになり、鎧をつけずにきたので勝頼公のお召替の甲宵を賜わった。八左衛門は次の間で、この甲曽を着用する。また、初鹿野伝右衛門は参らぬかとのお尋ねがあったので、「伝右衛門は恵林寺の奥の川浦というところで、鶴瀬に行くといったところ、土地の者どもが伝右衛門の妻女を人質にとり、鶴瀬に行くことはならぬ、もしどうしても行くのならば二度とここには帰さぬといい、もし無理に行こうとすれば妻女を殺そうとする有様なので、鶴瀬にくることはできません。すでにいずれの山里においてもこの通りであります」とお答えした。 【武田の落日 三月九日夜・十日 小山田八左衛門・武田左衛門佐信光殿が裏切り】 ところが三月九日夜のこと、この小山田八左衛門と、勝頼公の従弟にあたる武田左衛門佐信光殿が申し合わせて裏切り、人質にとってあった小山田兵衛の母親を奪って、郡内に逃れようと、作っておいた木戸がまえから鉄砲を打ちかける。左衛門佐殿は小山田兵衛の妹婿、小山田八左衛門は兵衛の従弟だったのである。 この裏切りによってお供の人びとはあらかた散り、残るはわずか四十三人となった。鶴瀬のさらに奥、田野という人家が七、八軒あるところをさして、十日の朝、勝頼公は出発されたが、お馬に鞍を置く者もいないため、侍大将の土屋惣蔵と秋山紀伊守が鞍を置いて馬を引き出す。 また亀の甲の御槍は、阿部加賀守と勝板公お守役の温井常陸守とでかついだ。 【武田の落日 三月十一日 勝頼一行滅亡】 さらに十一日巳の刻(午前入時ごろ)には田野の奥、天目山の土民六千人あまりが一揆を起こし、辻弥兵衛という侍がその中の大将となり、勝頼公めがけて矢や鉄砲を打ちかけた。一方、信長からの討手は、川尻与兵衛、滝川伊予合わせて五千の兵力で攻めかかってくる。土地の者どもがそれを案内して、勝頼公の裏側にまわってきた。これを三度にわたって突き返したのだが、ついにかなわず、滅び失せられたのである。 【武田の落日 小宮山丹後守の忠義】 さて、武田のご譜代小宮山丹後守は上野国松枝の城代であったが、信玄公の御代に、遠州二俣の城を攻めた際、鉄砲にあたって討死をとげた。その嫡子小宮山内膳は、父の丹後に劣らぬ武士であったが、長坂長閑、跡部大炊介、秋山摂津守、この三人と仲が悪かったため、勝頼公は内膳を憎まれて、おことばもかけられなかった。とくにその当時は、小山田孝二郎という侍と内膳の間にもめごとがあり、彦二一郎はお気に入りの者どもと仲がよかったため勝頼公によく、これに反して小宮山内膳はお受けが悪かった。 この内騰が十日の朝、田野にやってきて「もの申そう」と案内を乞い、土屋惣蔵にむかって、勝頼公のお耳にはいるように、 「三代にわたって互いに信じ合っていたご主君は、人を見当てられたのか、見誤まられたのか。ご用には立たぬものと思われて押しこめられていた自分が、お供申しあげれば、お目がね違いを立証する結果となる。さりとて、お見当てになられたとおり、ここをはずして逃れれば、武士の義理にそむく。ままよ、ご恩にあずかったことはなくとも、お供申しあげよう」といわれた。土産惣蔵、秋山紀伊守をはじめ人びとが、涙を流して内膳をほめたのも、もっともなことであった。 【武田の落日 離反者続出】 内膳は土屋惣蔵の了解を得て、自分の母、子供、女房などを弟の又七に預け、逃れさせようとした。又七は帰るまいと思ったが、土星惣蔵が、「自分も、わが子供、女房を配下の脇又市に頼んで逃れさせた。又七殿も必ず内膳殿の母上、子供、女房たちを守っていただきたい」と無理にすすめて押し帰した。 次に内膳が惣蔵にむかって「長坂長閑ほどうしたか」と尋ねると、「きのう鶴瀬において逃れた」と答える。跡部大炊介はと問えば、「これも昨日逃れた」。秋山摂津守はと尋ねれは、「十日も以前に逃れられた」 という。 「では、わが争い相手の小山田彦三郎は」と問えば「これも十日前に逃れた」と答えた。 内膳は涙を流して、 「さてもさても、勝頼公はご運も末となられたことよ。お目がね違いのため、お取り立てになった者どもがすべて逃げてしまうとは」 と嘆いた。 また十一日には、最後までお供したいとお約束申しあげたご婦人方二十三人そのほかに、すべてお暇を出された。 また勝頼公の奥方を、石黒八兵衛とお坊主の何阿弥に申しつけられて天目山奥の部落へと落とされる。 【武田の落日 勝頼と信勝の最期】 勝頼公は信勝公にむかって仰せられた。 「信勝は武田重代のお旗と楯無の鎧を持って山道を越え、武蔵国に出て、奥州にまで逃れるように」 これを聞かれた信勝公は、 「勝頼公は北条氏政の妹婿ゆえ、氏政も面倒をみられることと思いますので、ここからお逃れくださいますように。私は当年十六歳となりましたので、十年前の信玄公のご遺言どおりご家督を頂戴し、ここにて切腹をつかまつります」 といわれ、退かれる様子は少しもない。 そうしているうちに、いよいよ敵軍の旗が見えはじめてきた。このときその場には、ご婦人方とその介添えの小原丹後守、その弟の下総、金丸助六郎がいた。この助六郎はもともと金丸姓を名乗り、土屋惣蔵の兄にあたる。そのほかは勝頼公、信勝公を含めて四十三人であった。 左側では土屋殿が弓を持って射られると、敵軍は多勢のため、無駄な矢は芸もない。 勝頼公は自の手拭を鉢巻にされ、太刀をとって前にうしろに斬りつけられる。右には信勝公が、いまは十文字の御槍も捨てて太刀で戦われていた。 やがて土屋殿は、矢が尽きはてて刀を抜こうとされたとき、敵の槍が六本、一時に突きかかってくる。勝頼公は土屋殿をあわれと思し召したか、側に走り寄って、左のお手で槍をはねのけ、六人の敵をたちまち斬り伏せられた。だが、つづいて三本の槍が勝頼公に突きかかり、喉に一本、脇の下に二本を突き通し、勝頼公を押し伏せて、お頸を取り申しあげた。 阿部加賀守は先刻の戦いで川端にて討死する。 【武田の落日 武田勝頼の首級】 なお敵方は、はじめ勝頼公のお頸を見つけられなかった。それというのは、小原丹後がご婦人方の介錯をしたのち、毛髪を敷いて切腹したその頸を、勝頼公のお頸と思って公卿(白木の台)にのせていたからである。ところが尾張浪人の関甚五兵衛という者が、信玄公の御代から武田の足軽大将として、駿河用宗の城番を勤めていたところ、三年前から織田城介信忠殿に内通し、 寝返っていた。この者が勝頼公をよく存じあげていたため、召し出されてお頸をえらび出し、小原丹後の頸を捨てて勝頼公のお頸を公卿にすえたのである。 勝頼公はご生前、つねに、 「たとえ大名であろうとも、追いつめられて腹を切るのは口惜しいことである。相手さえあれば斬り死にして果てたいもの」 と仰せられていたが、そのおことばどおり斬り死になされた。そのご様子は、太郎信勝公のお納戸奉行であった侍が、自分の領分の山村から山伝いに田野に出ようとしたところ、遅くなって地元の者たちにさえぎられ、田野の後ろの山にかくれてご最期の場をよく見ており、人に語ったものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月18日 06時06分27秒
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