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2019年05月16日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
【武田の落日 天正十年(壬午)三月十一日】
 天正十年(壬午)三月十一日、勝頼公は三十七歳、御曹司信勝公十六歳、土星惣蔵二十七歳で落命なされた。
お供申しあげた侍四十四人は、土星惣蔵、秋山紀伊守,小山田平左衛門、岡掃部、子息弥介、同お小姓十六歳、土屋惣蔵、金丸助六、秋山民部、同子息、お坊主円首座、阿部加賀守、温井常陸、小宮山内膳、小原丹後、小原下総、岩下惣六郎、小原下野、多田久蔵、大竜寺麟岳和尚、お鷹師斉藤作蔵、山居源蔵、お徒衆山下杢介、みない小介、ぬきな新蔵、これ以外はさらに調べて記す。徒の二十人衆まで含めて、このようにお供したにもかかわらず、その人数はわずか四十四人であった。以上。
【武田の落日 信長の頸検分】
 三月十一日に勝頼公、信勝公のお頸を取り、これを都に送るというので、信長はその途中、お頸を検分されたが、このとき勝頼公のお頸にむかって、
「そのほうの父信玄は、わが嫡子城介を婿に約束しながら、天下を望んで縁を破り、そのほかさまざまな裏切りをされたために、都へ攻め上ろうとしたところを天罰によって俄かに病いが重くなり落命された。信玄は在世のとき、たとえ頸となってでも都に上り、宮中に参上したいと願っていたとのことなれば、勝頼父子は都に上り、宮中に参上ののち獄門にかけられて、京わらべに見知られるがよかろう。信長もすぐあとから参る」と仰せられ、お頸を都に送られたのである。(品第五十七)





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最終更新日  2021年04月18日 06時06分06秒
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