カテゴリ:甲斐武田資料室
武田滅亡時の登場人物詳細 『甲乱記』
清水茂夫氏校注より ◆ 勝頼夫人 北条氏政妹、天正五年勝頼に嫁す。天正十年三月十一日勝頼と同じく田野において死す。年十九。法名北条院殿摸安妙相大禅定尼。法泉寺には陽林院殿花庵妙温大姉という • 跡部大炊助勝資 『寛政重修諸家譜』は跡部大炊助勝資を尾張守とするが、『甲斐国志』は『甲陽軍鑑』によって信玄の大博であった跡部尾張守(信玄の幼少の時に死す)の子で、士隊将であったとする。天正十年壬午三月勝頼に殉死、法名跡受道張居士。跡部勝資は尾張守の甥とする ◆ 小山田信茂 (1540~1582)。弥三郎、左兵衛尉、越前守。父信有の遣領をついで甲斐都留郡の領主。信玄が小田原へ出軍のとき、武蔵八王子で地侍と戦って大功をたてた。天正十年三月信長に通じて勝頼を田野で放死させたが、自分も信長に殺された。年四十三。 • 土屋惣三昌恒(昌忠) • 金丸筑前守虎義の五男、右衛門尉昌次(直村)には弟。勝頼の小姓、幼より英名あり。『軍鑑』によれば永祓十三年十五歳にして駿州先方の土屋備前の養子となる。長篠にて備前並びに兄昌次戦死により二人の家線をあわせ賜わり両部の兵に将たり。田野にて殉死、年廿七。天正三年ののち土屋右衛門尉を称したものか • 金丸助六郎 金丸虎義の四男、金丸定光(昌義)。初め虎義の長男平三郎昌直が家をついだため二男土屋昌次・三男秋山昌詮はすでに他の首蹟をついでおり、昌直が永線三年、武田逍遥軒の被官落合彦助のため横死したので、助六郎が家を相続した • 秋山源蔵 金丸虎義の七男、親久、初名晴定。兄昌詮(虎義三男)が秋山伯看守信友をついで左衛門佐と称したが廿九歳で犬死したため、末男源三がその嗣をついだ。田野殉死のとき廿一歳 • 安部加賀守 安部勝宝。はじめ五郎左衛門、便番十二人衆。永緑五年勝頼高遠の城代の時、士隊将八人を付属、軍の指引は五郎左衛門次第たるべしと命ぜられた。 ◆ 小山田式部少輔 田野殉死の牌に、小山田平左衛門国別(中源実宝居士)・同掃部丞義次(洞岩泉谷居士)・同弥助(明塵道白眉士)・同小 児(久桂芳昌居士)あり。式部少輔・掃部助同人か ◆小宮山内膳友晴 小宮山丹後守昌友の男。使番十二人衆、のち将となる。勝頼のとき小山田彦三郎と隙あり、貶斥せられる。壬午三月幽所よりたって殉死する。 ◆小原下総守 忠国・小原丹後守昌友(秋次また秋晴)。『軍鑑』は丹後を兄、下総を弟とする。この兄弟永線五年勝頼に付属する士隊将八人の内。束郡栗原筋小原村東分に小原氏の居址がある。 • 武田相模守信豊 左馬助。信玄の弟左馬助信繁の子。普通に典厩と呼ばれた。父信繁を古典厩と呼ぶのに対して後典厩と呼ぶ。永禄八年「下ノ郷起請文」に六郎次郎信豊とあり、同心衆十人の名がある。『甲陽軍鑑』に幼名長老、初め信元といい信豊と改めたといい、騎馬二宮の将とする。『甲乱記』・『信陽雑記』などは相模守としている • 小幡上總守之助 小幡信貞、信真ともある。重貞の子。上野国小幡城主。天正十年三月、織田信忠に降参して所領を安堵さる。六月本能寺の変の直後、滝川一益に属して、北条氏直と武蔵金沢・神流川に戦った。一本系図に武田信豊、小幡上総介婿とある。『甲陽軍鑑』品第四十参照 ◆ 真田昌幸 1547~1613 源五郎、安房守。一徳斎幸隆の三男、初め武藤菩兵衛という。兄源太左衛門信綱・兵部丞昌輝の二人長篠で戦死ののち家督をつぐ。信州上田城主。慶長十六年死、年六十五 • 内藤修理亮昌豊 信玄に仕えて侍大将。上野箕輪城主となり、上野筋の奉行、小荷駄奉行として信玄に手腕を認められた。天正三年五月三河長篠で戦死しているので、ここでは修理亮昌月。昌豊の男。父に代わってその部に将であった。上州箕輪生原村着電寺の寺記に大和守昌月といい、織田軍記にも箕輪城主内藤大和守とある。 内藤大和は北条の臣相州筑井城主にもあるが、ここは修理亮改め内藤大和守昌月。徳川記には修理(昌豊養子)壬午の降人とある • 下曾彌覚雲軒。 中務大輔賢範(賢信)の孫。信州小室城を守衛。天正十年、小室にて武田左馬助信豊を謀殺。出羽守信恒 • 葛山右近 「武田源氏一流系図」では名氏友、「葛山家譜」によれば葛山播磨守綱春の四男葛山右近信次。御宿大監物友綱の弟 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月18日 06時04分07秒
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