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2019年05月16日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
信州高遠の城落城附仁科薩摩守晴清生害の事

(「武田三代軍記巻廿二」)           .

(『武田三代記』清水茂夫氏・服部治則氏校注)一部加筆

斯くて、勝頼微分国の城々、
先ず信州松尾城は、小笠原掃部大夫、信忠の先手に開け渡して、降人となる。
飯田の城に寵置かれし保科弾正少弼も、降を乞うて開け渡す。
深志の馬場民部少輔も、城を去って甲府に引き返す。
大島の城に置かれし日向玄藤斎も出奔す。
其外、数十箇所の要害、或は攻落され、或は降人となり、過半落去し、相残る要害も怺(こら)へ難く見えける所に、信州伊奈高遠の城は、勝頼の御舎弟仁科薩摩守晴清(初は五郎・信盛と号す)楯寵り給ひける。相従う人々には、小山田備中守・渡辺金大夫・羽桐九郎次郎・小菅五郎兵衛・春日河内守・今福又右衛門・畑野源左衛門・諏訪勝左衛門・飯島民部・飯島小太郎・今福筑前守・神林十兵衛以下、都合軍勢三千余人ぞ楯寵りける。
然るに、二月下旬の頃に及んで、未だ城を開かず。織田中将信忠、飯田の城に着陣あり。此事を聞き給ひ、我が旗本を以て攻干すべしと、其勢一万余人にて、搦(からめ)手より向はれければ、翌日小笠原掃部大夫を案内者として、森武蔵守・田平八郎・河尻肥前守・毛利河内守、其勢二万余人にて大手に馳向う。城将仁科晴清は、持てば忍ふべき城なりけれども、迎も遅れぬ所なりと思はれければ、花々しく討死し、誉を後代に残すべし。真に一門の者共、身命を惜み義を捨て、敵の馬前に降り、剰へ皆、誅戮せらるべきこけて浅ましけれとて、仁科重代の桐の葉という小実の鎧に、竜頭の鍪(かぶと)を著し給ひ、信濃藤四郎と号せられし三尺七寸の太刀を帯(は)き給ひ、一千四百余人の逞兵(たくましい)を従へられ、三月一日の辰の刻に突出で、縦横に駈乱し戦はれければ、小山田備中守は、大手より切出でて、辰の刻より午の刻迄戦ひ、城中に引入れけるに、敵を討取る事二百七十余級、味方百七人討たれたり。是より先、日々夜々の攻撃、鉄砲の上手を以て、牆の如くなる敵を、矢坪を指して打倒しけるにより、無の矢、一つもなく、信忠の旗本究竟の勇士、数を尽して討たれければ、河尻肥前守、中将の御前に参り、兎角、甲府をだに攻干し候はば、其外の枝城は、攻めざるに落去仕るべし。
未だ勝頼、安穏にましますにより、敵の鋒先当り難く候。当城は押を差置かれ、一日も早く、勝頼を御退治あれかしと、申しければ、信忠仰せけるは、武田家の鋒先、奮迅として強勇なる事、兼ねて知る所なり。高遠の城だに斯くの如くなれば、勝頼が根城は、さこそと思ひ知られたれ。最期の合戦、一入武勇を振ふべし。所詮、大事の敵なれば、信長公の進発を待つて誅伐すべし。唯此城をだに攻落さば、尤も甲府も攻安かるべし。諜を以て落すべしとて、矢文を城中に射させられけり。其の文に、二月廿八日、勝頼、甲府の旧館に於いて生害あり。一門の面々、或は殉死、或は降人となりて、甲・信の間、既に平均す。然るに、仁科殿一人、堅固に城に怺へらるの条、尤も殊勝なり。早く城を開かれ、降人となり給ふに於いては、信忠、御命を申請ひ、本領安堵致させ候はんとぞ、書かせられける。仁科殿、これを見給い、信忠、己が心に比べて、我を謀るこそ安からね。
勝頼、未だ生害あるべからず。斯く謀って我を降らしめ、縲絏(るいせつ)の恥を以って、信長に面縛させ、首を切るべしとや。仮令、不義にして千年の寿を保ち、栄華を子孫に伝ふとも我れ何ぞ、浮雲の富を好とせん。さあらば、軍兵共に最期の合戦させ、凉く腹切らんと、天正十年三月二日、搦め手の多門に上り給ひ、我は昨日の防戦に、深手を負ひたれば、歩行自由ならず。各々最期の軍として、我に見せよと宣へば、畏まり候とて、追手・拐手、一度に門を押開き、先づ搦め手より小幡周防守・小幡五郎・春日河内守・畑野源左衛門・今福又右衛門、千七百人を従へ、大波を立てゝ伐って出で、信忠の備、七段迄切崩し、以上四度つきい出、首を得る事四百三十七級なり。追手には、小山田備中守・羽桐九郎・小菅五郎兵衛・今福筑前守・諏訪勝左衝門、
六度迄敵を伐崩し、首数二百八十余級討取りける。
爰に諏訪勝左衛門が女房、長刀を以て敵に駈合せ、七人迄薙伏せ、終に討死をしたりけり。六度目の駈合に、小山田備中守も討たれければ、其外、過半討死し、或いは創を蒙り、寛に城門を打破って、敵、早や城中に込入りけるに、信忠の小姓山口小辨・佐々清蔵、馬廻には、梶原次右衛門・桑原吉蔵、森武蔵守が臣には、各務兵庫介等、一番に乗込みける。これに続いて戸田半左衛門尉も、搦め手の門際に乗付け、指物を木立に引懸け、少し躊躇いける所に、後陣の大勢、一度にどっと乗入りたり。時に小菅五郎兵衛は、仁科晴清の御前に参り、敵、既に城中に込入り候。今は御腹を召され候べし。某、御介錯を致し、御供を仕らんと存じ候へども、勝頼公の卸先途を見届けたく候条、衛暇を下さるべし。仰せられたき事共、某、伝説仕らんとぞ申しける。晴清、其の時、矢倉の狭間の板を押開き給ひ、寄手に向ひ宣いけるは、此度、我れ心を変じ、信忠が軍門に降らば、一命を続いで所領を安堵さすべきとの矢檄、苟(いやしく)も我れ清和源氏の流を出でて、法性院信玄が五男なり。何ぞ不義にして、一命を続いで、媚を匹夫に取って、信忠が馬前に降らん。早く勝頼父子、並びに我が首を取って、信長に見すべし。汝が父、弱冠より不義暴悪を以て、親族を課し、或は延暦寺を焼き、数千の衆徒を殺し、将軍家を蔑ろにし、恣(ほしいまま)に逆意を挙動ふ。一旦摂然として、武威を振ふと雖も、終には積悪、其身に及んで、忽ち亡び失はん事、踵を廻すべからず。
今、武田五郎仁科薩摩守、生年三十四歳にて生害するぞ。汝等が武運、立所に尽きて、腹切らんずる時の手本にせよといひもあへず、桐の葉の上帯切って落し、押膚脱いで、刀を弓手の脇に突立て、馬手の細腰迄引き廻し、返す刀にて心元に押立て、十文字に掻切り絵ひ、矢倉の狭間の板、押立て給ふと等しく、小菅、衛首を討落し、則ち火をぞ懸けたりける。斯かりければ、本城二の曲輪、所々に火を放ち、一時の灰燼とぞなしにける。
 信忠、則ち城中を点検あり。竟に三月二日、未の刻に及んで仕置等あり。是より直に、上の諏訪に至って、本陣をぞ居ゑられける。





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最終更新日  2021年04月18日 06時01分59秒
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