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2019年05月21日
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佐久の御牧の概要 望月牧

 

紹介資料 『佐久市誌』第五章 佐久の奈良・平安時代 一部加筆

 

望月牧の牧地は、千曲川と鹿曲(かくま)川で囲まれた御原台地に比定されている。御牧原台地は蓼科山系が北にのびて、千曲川に臨む最末端に位置する。御原は

「従前はスガマ原と称す、周囲六里(約二四Km)樹木なく、沢中は熟地にして、池沼水田あり、古昔 

望月牧にして、野馬除堀一条、長さ二里、長堤二条あり(中略)。原野反別八百町余」

(『長野県町村誌東信編』下の城村)

という地域である。標高は七〇〇~八五〇ⅿ、小起伏の入り混じった地形で、現在は北御牧村・望月町・浅科村・小諸市の一市一町二村にまたがっている。

御牧原の南部、スガマ地籍には(すげ)も自生する湧き水があって、乾燥地御原の中ではオアシス的な地域である。ここには須恵器を焼いた幾つかの窯跡が残り、平安時代初期とされる信濃最古の鉄鐘(文)が出土している。また幡神社(浅科村八幡)境内にある高良社(重文)は、とスガマ地籍にあったものといわれるが、高良社は高麗社で、このあたりの牧場開設にかかわりのあった、朝鮮牛島からの渡米人の社といわれている。スガマは放牧に必要な木場で、入の浜の沢木の下流には駒込があり、有池川対岸には土合占境群や御馬寄の馬具を副葬する古墳などがある(既述)。スガマの木は西南に下って七日沢の浜をつくるが、ここも放牧の適地で、百浜地籍に点在する古墳群の中には、柳浜三号墳のような馬具を副葬する古墳がある。

 牧場を有する野馬除は、断続的にその跡をとどめている。この跡をたどると、それは百沢北方から東北にのびる尾根にそって、富七塚の三角点(八五八、四m)に至り、それより西北方向ヘスガマを貫き、御牧原中央の「四つ京」から、トヤ原を経て下之城集落の東に達している。この間、富士塚より約五㎞はほぼ直線的に通じ、いまも所々に野馬除の(ほり)・土居跡をとどめている。これより方向を北に転じて、八反田への道を横切ってさらに北向し、東北に円弧を描いて篠沢に没する。

 

 富士塚から下之城上まで、一直線の野馬除によって、御牧原台地の敷地は、南北に二分されていたが、全域の周囲は、西は望月城跡から島川原に至る断崖の線、南は百沢から蓬田(よもぎた)・桑山の幡山(通称)の線、そして東と北は千曲川に落ち込む断崖原画されている。北側の断崖上にあって、正完二年(一二五八)棟札の宮殿をもつ釈尊寺(延暦寺末)は、望月紋の紋官や牧民などのために開削されたものなので、その付近の諏訪山も望月の境域であったと考えられている。

 

 このように広大な御牧原の面積は、

「八幡山脈の西斜面を加算すれば、約千町歩が望月牧ということになる」

(「望月牧址考」「北佐久郡志」④)。

 

御牧原の西の所生を下れば印内(望月町)がある。印内は院内の転嫁で、もと天台宗の古刹月輪寺が所在していたことにもとづく地名である。その南方古宮地籍の対岸、旧望月宿の西北端付近には一丁田・五反田・六反田などの地名があって、望月牧の厩舎や牧田があった所と考えられる。印内の北方、下之城地籍の古社両刃(もろは)神社には異形の神像や石龕(せきがん)(正二年、県宝)かおり、付近には一丁田・八反田・鍛冶田などの地名がある。

 八丁地川ぞいの山の神(望月町吹上)・高呂(望月町)付近には馬具を副葬した古墳があり(既述)、馬場・竹の花(牧場管理者の居館の所在地)あるいは馬具などの製鉄跡を思わせる金山・吹上などの地名かある。付近には建長二年(一二五〇)彩色修理銘を残す、木造阿弥陀如来像(重要文化財)のある福王寺(望月町小平)があり、立科町上房(かんぼう)の古刹津金寺(天台宗)には、承久二年(一二二〇)と嘉禄三年(一二二七)銘で、野盛道らによって造立された石造宝塔三(県宝・写21)がある。

 御牧原は、望月牧の放牧地であり、これをめぐる山麓の鹿曲川や、八丁堀川の河岸段丘上には、馬を馴致調教するための厩舎や馬場が置かれ、管理者の牧官-地頭と推定される志野一族の居館や寺院かおり、牧田も聞かれていたものと考えられるのである。

 吉沢好謙(たかあき)は『信濃地名考』で

「望月牧は(中略)千曲川東北に廻り、西に鹿曲川あり。上原・中原・下原・御馬寄・駒寄等の地名あ

り。牧布施の南に駒形の神祠、千曲川を隔てて小原・塚原に駒形の神祠建つ。望月の封境なるべし」

 

とあり。書いて矢島原・牧布施・入布施など現在の浅科村・望月町布施地区を望月牧の敷地に想定している。当時牧馬一頭に対して牧地一町歩(一haが必要とされたという。そして馬の病気の発生や牧草地の荒廃を防ぎ、良馬を育て、馬一〇〇疋につき、毎年六〇疋の子馬を生産するという義務を果たして、牧場経営の成果をあげるためには、いくつかの支牧を設けて輪牧をおこない繋飼場や馬場を設定して、高度の飼育・繁殖・調教などをおこなう施設が必要であった。望月牧でも御牧原周辺に、そうした場所が必要であったのであろう。

御馬寄・前方などはそうした施設の集中して置かれた場所であったと考えられ、春日にも駒寄・牧寄がある。牧地は長者原(布施地区)におよんでいた。牧田は岸野地区にも設定されていたのであろう。これらの広大な敷地は左右馬寮の支配下に置かれ、滋野一族がそれぞれの牧他の管理に当たっていたと思われるが、平安時代末期になると、律令制が緩んで、荘園制がこれにかわり、御牧も馬寮の荘園と化してきた。 

これにつれて地方武士の力が強くなり、彼等は国有や馬寮の管理下にある郷村の荒地や牧地を再開発して荘園化し、これを私牧化するようになった。

治水四年(一一八○)以仁王(もちひとおう)の平官追討(りょうじ)は、全国の武士をたちあがらせた。信濃では木曽義仲が挙兵すると、佐久の武士たちもその傘下に入った。かれらはみなの管理者である志野氏の一統で、その中心人物が()(ない)(ゆき)(ちか)である。根井氏は滋野望月氏の一流で、根々井に本拠を置き、塚原駒形神社、小原駒形神社(小諸市)に象徴される千曲川右岸一帯地を支配して、多くの馬と兵の動員力を保持していた。湯川の段丘上にはその一族の落合氏おり、御原周辺の牧場管理経営者としては、望月氏をはじめ、矢島氏(矢島原一帯)・石突(いしづき)(五本木)・本沢氏(布施)がいた。そのほか桜坪氏・野沢氏は千曲川氾濫原や前山・犬沢などの蓼科山麓に私紋を経営していたであろ。浅問山麓や東山づきには小諸・平原・志賀の諸氏があった。彼らはいずれも古代佐久の牧人から成長した武士たちで、義仲の中核となり、北陸道を長駆して、京都に上り、古代の壁を打ち破り、中世への道を開いたのである。






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最終更新日  2021年04月17日 14時58分44秒
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