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2019年05月21日
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貢馬(くめ)

紹介資料 『佐久市誌』第五章 佐久の奈良・平安時代 一部加筆

 

御牧(勅旨牧)では、毎年一定数の良馬をえらんで朝廷に貢上した。これを()()という。『延喜式』                                          によれば、貢馬数は

甲斐国六〇疋、

武蔵国五〇疋、

信濃国八〇疋、

上野国五〇疋

である。

信濃国貢馬数八〇疋のうち、望月牧は二〇疋で、残り六〇疋がその他の諸牧(一五牧)の負担となっていた。諸牧の貢馬数は、一牧当たり四疋の割合となるが、各牧の具体的な貢馬数は明らかでない。

 御紋を管理するために甲斐・信濃・上野の三国には紋監(監牧)、武蔵国には別当が置かれていた。信濃国には二人の紋監が置かれ、一人は信濃国府に近い植原紋にいて諸牧を監理し、他の一人は望月牧にいて、信濃最大の望月牧を管理した。

望月牧に専任の牧監が置かれたのは延暦十六年(七九七)以後と考えられる。信濃諸牧の貢馬六〇疋は、信濃諸牧牧監が率いて貢上し、望月牧の貢馬二〇疋は望月牧牧監が率いて、それぞれ毎年京都に貢進した。『政治要略』の記事によれば、延喜三年(九〇三)八月十五日に、信濃諸紋のうち、塩原・岡谷・宮処・埴原など一一牧で六〇疋を貢進しているが、この年山鹿・新治・長貪・塩野の四牧は貢進していない(一志茂樹「官牧考」『信濃』二巻五号)。このように、望月牧を除く信濃諸牧の各牧の貢馬数は一定していなかったと考えられる。

 御牧から貢進された貢馬は、伊勢神宮を始め、勅祭礼の祭馬(祓馬・神馬・走馬など)にあてられ、また天皇・親王・公卿などの持馬として賜与された。

貞観十八年(八七六)信濃国の勅旨牧には御馬二二七四疋がいるとある。そのなかからわずか八〇疋が、貢馬として貢進されたに過ぎないのである。貢馬にもれた馬は、一般的には駅馬と伝馬にあてられたが、信濃国はこの限りでなかった。『延喜式』主税の項などでは、信濃の貢馬の入京の経費や秣料は、直接その馬寮の庄田からあがる小作料で払い、牧馬や(なめ)した馬皮などの売却代金は馬寮に送れと指示している。

 馬は乗用・駄用・農耕用として大切であり、皮は鞣皮として用途が広かった。そして馬の脳は皮の鞣し剤として貴重であったという。

駅馬の価格は信濃・出羽二国は上馬(稲)五百束・甲馬四百束・下馬三百束、牧馬の皮の価格は五尺以上稲五乗・四尺以上三束・三尺以上一束と定められていた。

信濃国の御牧の経営を支える馬寮の庄田は、左馬寮分一八四町五段二五三歩、右馬寮分一八四町五段二五三歩、合計三六九町一段一四六歩という広大なものであったが、その場所は明らかでない。一六の御牧にはそれぞれ馬寮の庄田が付されていたものと思われる。それらの水田は地代をとって農民に貸付け、その収益をもって牧の経営や貢馬の入京費用などに当てていた。

 御歌の歌馬は、細馬(上馬)・中馬・焚馬(下馬)に分けられ、一〇〇疋ずつを「群」という放牧の一単位で飼育された。駒(子馬)が二歳になると、毎年九月国司(牧監)が牧長と立ち合って、官の字の印を左股の外に捺し、毛の色や流を記録して、帳簿二通を作り、一通は国衛にとどめ、一通は太政官に申達した。御牧は優秀馬を効率的に生産しようとしたから、牝馬(ぼば)(雄馬)は優秀な父馬(馬)が数頭いればよかったので、その他の牡馬は五、六歳になると軍団や京に送られ、残りは駅馬・伝馬とし売却した。

四、五歳以上二〇歳の生殖能力のある牡馬(ひんば)(雌馬)は一群として飼育され、一〇〇疋につき毎年六〇疋の駒の生産を義務づけられていた。六〇疋に足りない場合は、不足分の駒一疋について稲四〇〇が徴集された。これは牧子にとってたいへんな重荷であったので、神護景雲二年(七六八)信濃国牧主當伊那郡太領金剌麿の上によって、稲二〇〇乗に軽減された。                

 

御数の構成はおよそつぎのようである。

 牧監(監牧) 

信濃国二人、諸牧の牧監は植原牧に、望月牧の牧監は望月牧に置かれ、牧田六町を公廨田(官職に対して与えられた田)として与えられた。牧監は都から任命される場合と、その地方の豪族が任命される場合とがあった。位階は国司に准じ、信濃(じょう)(守・介につぐ三等官正六位)で、所管内の御を統率し、官牧馬帳を整えて馬寮に達した。任期六年。

 ◇牧司長(牧揚長)

 一人、清幹な庶人から選任したが、郡司関係者が兼任することもあった。

◇牧帳(牧司長の補佐) 一人。

◇牧子長(牧馬を直接管理する責任者)牧子(牧群の責任者)一群(一〇〇疋)につき二人。

馬医(めい)書生(しょしょう)(事務)・占部・足工・騎士などの技術者があった。

 ◇飼丁 馬の飼育係。馬一疋につき一人(『厩牧令』)とあるが、

細馬一疋につき一人、中馬二疋につき一人、鴑馬三疋に一人であった(『厩牧今』)。

 

官牧の馬の一日の濃厚飼料は

細馬、栗一升・稲三升・豆二升・塩二勺。

中馬、稲二升・若豆二升・塩一勺。

鴑馬、稲一升。

稲は半糠床で、相・中・鴑馬各一疋ずつの一日の飼料稲は合計六升、

細馬一〇疋・中馬四〇疋・鴑馬五の一〇疋構成の一群を想定すると、

その一日の所要米(半糠米)は一石六斗、一年に五八四石という厖大な数量となる。

 

信濃一六牧の総馬数は二二七四疋で(『類聚三代格』巻十八「太政官符」貞観十八年正月二十六日)、貢馬数は八〇疋であるから、貢馬一頭に対する総馬数は二八疋強で、望月牧の総馬数は五六〇疋余ということになる。

 御牧には放牧地域と繋飼地域が必要だった。放牧地は馬一疋につき一~二町前後が必要とされたが、良質の牧草を育て、病疫を防ぐために数か所の輪牧場が必要であった。繋飼場は冬の飼育、調教期間の飼育などに必要で、その近くには厩舎・飼料舎・馬場・交尾場・飼丁の宿舎などが必要であった。これら放牧場や繋飼場の外囲には、陛と格をめぐらして、馬の逃亡や田畑荒しの害を防ぎ、また害獣の侵入に対する備えともした。いまも御牧原や、追分・沓掛付近にみられる野馬除跡がその遺構の一部である。格は馬柵とも記し、「ませぐち」は格の入口を示す地名である。

 前出の太政官符には

信濃国の御牧の御馬が、格や(こう)(堀)の外に放散して、亡失したり、田畑を荒して損害を与えている。

牧監は必ず牧ごとに巡検して、牧長・帳・牧子・飼丁などに命じて、朽損・焼亡・盗失した格を、は

やく修造させよ。

とある。官牧で馬の逃失した場合は、百日間探させ、期限がきても見つからなかった時は、失った当時の馬の価格に准じ、その七分は牧監・牧子・飼子弁償させ、三分は牧長と牧帳から徴集すると、きびしく規定されていた。

 (『類聚三代格』寛平五年三月十六日大政官符(牧監をして欠失牧馬を椎償せしむべき事)。

 駒が二歳になれば、毎年九列十目、国司と牧監が同道で牧に臨んで検印し、四歳までは別群として飼育する。四歳になれば震慄の対象となり、良馬を選んで調教し、明年八月、牧監以下が付いて貢上した。信濃の貢馬の入京の費用や休耕は馬寮の牧田からあがる小作料(地子)でまかなわれた。信濃国の馬寮水田は、他国に比してとくに多かった。

 

 信濃国の貢馬の初見は、『日本紀略』弘仁十四年(八二三)九月二十四日の条で、

天皇武徳殿に幸し、信濃国御馬を覧て、親王以下参議以上に各一疋を賜う、

とある。そして信濃の駒牽の最終記録は文正元年(一四六六)十月二日で、『後法與院改家記』に

伝間す、昨日平座如例云々、次いで駒牽云々、

八月十六日延引也、其時分世上物忩(ぶっそう)の間其儀なく云々

とある(椙史補遺上)。これは応仁の乱の前年で、世の中は乱れ、駒牽のできるような状態で無かったのである。

 望月牧の貢馬教は、延喜五年(九〇五)官符に

「もと三〇疋を、いま二〇疋に改められた」

とある。貢馬にあたっては、牧監・馬医・書生・占部・足工・騎士(馬六疋ごとに一人)などの牧吏がこれに付添い、一日一駅(平均五里)のわりで上京した。これに対して沿道の国々は、貢馬一疋に対して一人、牧監に三人、馬医・書生などの牧吏二人に一人ずつの人夫と、牧監に三疋、馬医・書生などの牧吏には、一人一疋ずつの馬を出さなければならず、一日一疋当り一束の飼秣(まぐさ)も負担させられた。その上引率の牧吏たちは、所定外の人馬を徴発して、乗用とするなどの暴挙があったが、沿道の人々や郡司・駅長さては国司でも朝廷の威をかる彼らを制止できず、貞観四年(八六二)には太政官符をもってこれを禁止したが、止まなかった。これは御牧の牧更か朝廷の威を笠にしたばかりでなく、新興産業である畜産の暴利を一手に納める強力な資本家になっていたからだとする説さえある。

(一志茂樹「官牧考」『信濃』二巻四号)。

 






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最終更新日  2021年04月17日 14時57分48秒
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