カテゴリ:山梨(甲斐)の御牧(みまき)の全貌
貢馬の道 貢馬の上京の道筋は官道を通って、一日一駅ずつの行程で、所定の日に入京した。『三代実録』貞観九年(八六七)八月十五日の条に、 「天皇紫宸殿に御し、信濃国貢駒を閲覧す」 とあるのが、信濃の貢馬入京の期日を明示する初見である。仁和元年(八八五)までは「信濃国貢駒」として八月十五日に八〇疋全部が貢進されていたが、翌仁和二年には牧司の懈怠によって延引して、八月十七日に天皇が信濃国貢駒をご覧になっている。その後、いつからか望月牧と他の一五牧は、分かれて貢進するようになった。 望月牧の貢進の日取りは、延喜十七年(九一七)八月十五日、同二十二年九月四日、延長二年(九二四)十月十六日というように乱れてきている。望月紋以外の信濃諸紋の貢馬六〇疋は八月十五日に貢進されていたが、八月十五日が朱雀天皇の国忌日となったので、村上天皇の天暦年中(九四七ごろ)から八月十六日となった。佐久の御牧のうち、塩野・長倉の両牧の貢馬は、他の諸牧の貢馬といっしょに東山道を通って、京に向かったことはまちがいないが、望月牧の貢馬二〇疋は単独であるから、規定どおりに東山道の各駅を経由して上京する道筋のほかに、雨境峠を越えて、古東山道の道筋で、有賀峠か杖突峠を越えて、伊那から東山道の駅を経由する道筋をとったことも考えられるが、いまでは推測の域をでない。 駒牽の行事については、『政治要略』の年中行事の項に詳しく記されている。 貞観七年(八六五)八月十五日、信濃諸牧一五牧中、山鹿・新治・塩野・長倉四牧を欠く一一牧の貢馬六〇疋が貢進された。朝廷からは駒迎えの使が逢坂関まで出された。紀貴之の 「あふ坂の関の清水に影見えて、今やひくらむ望月の駒」 の名歌が思いだされる。 天皇以下、文武高官が出席して華やかな駒牽の行事は、紫宸殿南殿の庭に貢馬を牽進しておこなわれた。天皇出御のもとで、親王・公卿・大臣・大将・左近将監などが列席、主常寮より御馬解文(上申文書)を奉る。ついで牧監・左右近衛番長以下、左右馬寮の騎士が、御馬を牽いて、日華門より入るが、第一の御馬が御前にきたとき、大臣が「騎れ」という。引き手(騎土たちは一斉にひざまずき一礼して騎馬し、七、八度庭をまわったのち、大臣の「下り」という声で一斉に下馬する。そして大臣の「御馬取れ」という声で、左右馬寮の取手が御馬を一疋ずつ交互にとって、御前に進み、牧の名を奏上してから日華門・月華門から退出して終わった。 御馬の配分は、貢馬数が八〇疋のときは二〇疋、六〇疋のときは一〇疋、五〇疋のときは六疋を、左右馬寮が交互にとる。つぎに皇族・公卿が各一疋を選びとり、残りの御馬はさらに左右馬寮が交互にとったが、前後にいろいろな儀式があって、駒牽は華やかな王朝打事であった。このような貢馬も、延真のころ(九〇一~九二二)を境として、貢馬の期日や所定の馬数の貢納が、乱れるなどかげりがみえてきた。 『政治要略』天暦六年(九五二)九月二十三日の条によると、甲斐・武威・信濃・上野などの国司に対して、 「貢上御馬の貢進を延期し、その定数が不足しているのは、牧監の怠慢であり、 国司が任務を疎略にしているからである。 今後なお貢馬の期日を延期し、その定数を滅ずるならば、牧監は他の功績があっても褒賞せず、 なお爾怠すれば免職する。国司は五位以上はその位禄を奪い、 六位以下のものは、その公席(職分に対して与えられた田)を五分の一に滅ずる」
というきびしい太政官符が出されている。
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最終更新日
2021年04月17日 14時57分16秒
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