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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月21日
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中世の牧と駒牽

 

 久万元年(一一五四)八月十六日以降は信濃諸牧の貢馬牽進の記録は中絶してしまう。その二年後には保元の乱(一一五六)、さらにその三年後には平治の乱が起きた。永暦元年(一一六〇)から、平氏政権下で役馬が復活したが、養和元年(一一八一)には「信濃国で逆徒(木曽義仲)のために、馬を掠領され(『吉

記』)駒牽は中止された。源頼朝が平氏を滅ぼすと、文治元年(一一八五)から駒牽きが再復活した。建久八年(一一九七)藤原定家の日記「明月記」には

「八月十六日、駒牽の事に依り、黄昏、束帯をつけて出仕、退出後、一行を右中弁の許に送る」

とある。しかし信濃の状況は昔とは違っていた。安貞元年(一二二七)当時信濃の国務をとっていた藤原定家は、

「在庁はみな当世の猛将で、国守の命令にはほとんど従わず、国務はなきに等しい状況である」

(『明月記』)

と国府の状況を記しているが、これは御牧も同様で、御牧は豪族化した牧吏の支配下に置かれ、駒牽も形式的なものになっていた。

 承元四年(一二一〇)幕府は守護・地頭に、諸国の勅旨牧を興行(盛んにする)せよと命じ、承久三年(一二二一)八月十六日には望月牧の貢馬が牽進されるまでになった。駒引上卿(駒牽行事に列席する上席の宮人)前太政大臣藤原実氏と参議藤原定家は

  引更へてけふは見るこそ悲しけれ さやはまたれし望月の駒    藤原定家

  物ごとに去年の面影引かへて おのれつれなき望月の駒      藤原実氏

 

と贈答し、形骸化した駒牽の行事を悲しみ、華やかなりし昔を偲んでいる。

 弘安七年(一二八四)鎌倉幕府が制定した新式目三八か条の中には

「出羽・陸奥を除く東国御紋を止めらるべし」

とあるが、その後も信濃の駒牽は逓年八月十六目におこなわれて、嘉暦元年(一三二六)に至る。
この年「八月十六日、駒牽常の如し」(『師守記』信史補遺①)とあり、これが鎌倉時代の駒牽最後の記録となっている。

 鎌倉幕府滅亡後は、南北朝争乱期の延元四年(暦応二・一三三九)八月十六日の駒牽が初見(信史補遺①)であるが、それ以後の駒牽は順調ではなかった。

・興国六年(貞和元・一三四五) 

駒牽の儀と月蝕のかかわりが論議される(『園太暦』)。

・正平四年(貞和五・一三四九)

信濃の駒、途中で佐々木高氏の軍勢に奪われたため、馬寮の駒五疋を貢進する。

 ・応永三十年(一四二三)と永享元年(一四二九)信濃国府の事務官である雑掌や監牧代が、諸牧の中

からようやく一疋だけ調達して牽進する。

 ・文正元年(一四六六)八月十六日は世上物騒につき、駒牽の儀は十月二日に延期される

(『後法興院政家記』信史袖遺①)。

 駒牽が延期された文正元年の翌年に応仁の乱が起こり、以後駒牽の儀は絶えた。弘仁十四年(八二三)九月二十四日『日本記略』にはじめて信濃国御馬の駒牽の記録がみえてから六四二年である。その間、中絶の時期を含みながらも、宮中行事の華として継続され、信濃の政治・経済・文化に少なからぬ影響をおよぼした。

 

豪族の私牧

 

 長保四年(一〇〇二)左衛門権佐明法所士令宗(よしむね)(あそ)()(みつ)(すけ)は、信濃国におけるのことについての諮問に答えた中で、

「拡散の牝鳴か官牧にきて交尾し、この牝馬がもとの私牧に帰ってから子馬を産んだ場合は、

その駒は母につけて私馬とすべきである」

としている。この答申の根拠は、御牧の駒の生産は牡馬の数を基準にして定められていて、牝馬については問われないから、駒はその生母である牝馬につくべきであるというのである。このような問題が起きるのは、信濃国では官牧の近くに私牧があって、両方の馬が境界を越えて、互いに他の牧場に紛れ込んでいる状況を示すものである。当時佐久郡にどのような私散があったか明らかでないが、木曽義仲の挙兵に従った武士団や、地元の伝承・遺構などによって多少の考察をしてみよう。

 

木曽義仲に味方した武将の中に志賀七郎・同八郎がある工賃氏の系については明確でないが、はやくから志賀地区に土着して、志賀川流域の水田開発を進めるとともに、志賀川上流の駒込部落を中心として、東方の寄石山・物見山などの山麓一帯から、上信国境におよんで、広大な私牧を経営して、経済と武力を養っていたものと思われる。駒込の駒形神社は「延喜馬寮式内の猪鹿牧、或いは多々利・金倉井牧・以上三牧の神祠なり」とする説(「長野県町村誌東信編」)もあるが、これは無理な説で、志賀氏の私牧の神祠であろう。志賀氏は木曽義仲に従って敗れたが、そのご鎌貪幕府の御家人となって活躍する。しかし承久の乱(一二二一)以後次第に衰微し、嘉暦四年(一三二九)三月、鎌倉幕府下知状案(『守矢文書』)には  

「五番五月会分、(中略)流鏑馬、志賀郷諏方左衛門入道」

とあって、志賀郷から志賀氏は姿を消している。志賀氏の衰微によって、その私牧も衰退したものと思われる。

 木曽義仲に従軍した楯六郎(たてろくろう)(ちか)(ただ)の私牧と、矢田義清の私牧跡が、(ぬく)()川左岸の段丘上(佐久町)にある。楯六郎は根井行親の子で、佐久平南東端の、抜井川段丘上に館を構えて、楯(館)氏を称した。抜井川は十五峠に源を発し、東流して千曲川に注ぐ。抜井川に沿ってさかのれば、十石峠を越えて、神流(かんな)川の谷に出て、上州多野都上野村・中里村・万場町・鬼石町などを経て藤岡市に達する。それより東方七に、多胡庄矢田村がある。和名抄多胡郡矢田郷に比定される地である。また中里村から神流川を渡って、志賀坂峠を越えれば、武蔵国秩父郡である。小鹿野町、秩父市を経て、定峰峠を越えれば、木曽義仲の父源義賢の討たれた大蔵館(比企郡嵐山町蔵)である。石峠の名称は江戸時代に佐久米が、日に十石この峠を越えて上州に運ばれたのに由来するというが、昔は武州道と呼ばれ、現在は国道二九九号線となっている。

 矢田義清は足利氏の椎義則(義家の孫)の長男で、多胡荘矢田に住んで、矢田氏を称したといわれる。木曽義仲の挙兵に応じ、丹波国を席巻して京都に迫ったが、水島の海戦に総大将として平家軍と戦って敗北した。矢田義清は早くから十石峠今越えて、信州に進出し、太日向村(現佐久町)本郷の抜井川左岸台地上に、大陰城(矢田城・天涯城)を築いて居館とし、背後の茂米山(一七一七)麓に私牧を経営した。楯氏居館の東方一・五㎞に隣接している。

 

 矢田氏私牧の関連地名を拾って見ると、清水平・馬洗いの池・下ませ口(馬柵の出入口)・中原の直線馬場・上ませ口・くねの内(繋飼場)・外牧・こもっけ(駒返しの転説)などがある。大陰城に幼い木曽義仲を匿い、木曽に逃してやったという伝承がある(「南佐久郡古城址調査」畠山次郎『実説大日向村』)。

 楯氏の私牧は、楯氏館の存在する抜井川段丘の南方、茂来山の北麓槙(牧)沢とその下流牧平を中心にして存在していた。野馬除と思われる長堤が一条認められ、周辺に乙馬・野駄窪・駒寄・腰牧・杭の内・東馬場・西馬場・外教・堀込・大水戸などがある(『南佐久郡古城址調査』)。茂来由は関東山脈の一支脈であるが、佐久市の平野部から、南東の今に、ふところの深い、秀嶺の姿を見せている。

 御牧原周辺の矢島原・布施窪などに望月牧の支牧や輪牧地として設置された諸牧も、平安時代末期には律令政治の崩壊に伴い、武士化して勢力を伸長してきた牧吏の私牧と化していたものと推定される。矢島原の矢島氏・布施長者原の本沢氏・五本本・校倉・東立科方面の石突氏・片貝川西方の蓼科山麓の桜井氏・野沢氏らは、それぞれの敷地を私欲化して、強大な富と武力をもって木曽義仲の平家追討軍に参加したものと考えられる。湯川・千曲川右岸段丘上一帯の牧地は、根井・落合氏らによって、はじめから私牧として開発経営された可能性が考えられる。広大な敷地、牧田をかかえこんでおこなう牧場経営は、地方豪族たちにとって、富と武力の蓄積にきわめて有利な企業であった。また騎馬戦によって勝敗が決せられた当時の武士団にとって、馬の育成・保有はその戦力を決定づける条件であったから、地方豪旅たちはきそって私牧の造成・経営に務めたのである。平安末期には牧馬地帯であった佐久地力の武士団の力が、木曽義仲の上洛という歴史的事実を通して、最高に発揮された時代で、また私教の最盛期であったということができる。                      





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最終更新日  2021年04月17日 14時56分49秒
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