2295091 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年05月25日
XML
カテゴリ:富士山資料室
郡内州義民事歴(秘史実録)
『都留市歴史資料集』(二)権藤成卿氏著 より 一部加筆

〔史料紹介〕

昭和九年、雑誌「改造」第五号に載った、領主秋元氏治政中起きた農民一揆に関する文献である。今一日郡内一揆の研究がすゝられて、秋元氏を代官としたり、郡内の歴史背景で平氏小山田支配をのがすなど、本文献の誤まりをいくつか指摘できるが、郡内一揆をはじめに日本中に紹介したものとして意義あると思い、かつ資料としても、既に人手不可能の状態にあることを考慮し採録した。

〔諸言〕
 郡内義民の惨刑は、代官秋元摂津守作司が、所管民虐圧の為に起りし訴願に対する、冷酷極まる虐断である。郡内は、今の山梨県、南都留・北都留二郡の地にして、四面山岳に囲まれ、桂川其中を頁き、曲折湾環、一大両統を成せる寰区なれば、共産物の多種多様なるも、穀産常に不足し、古来有無交易を以って、食料を補給するの慣行は、自ら民政上の恒例となり、住民工芸に秀で、蚕職城の業大に発達し。郡内織り、甲州絹等の特産世に知られ、共経理上に於いては、頻る有利の地域であった。幕府が寵寓深き秋元泰朝を、比地の代官となせしは、亦自ら所以ありと謂はねばならぬ。
 乃ち此の有利なる地域に於ける民政、其需給物資の出入は、決して他の単純なる農村と、同一に律し得られるものではない。然るに泰朝より富朝、富朝より喬朝の三代にわたる民政は、幕府の新政実施に伴って強圧的にして、只管租税の増収のみを図り、其税源たる民業の消長を省みず、苛斂徴求を事とせしのみならず、下層役人の姦濫も多かった。従来倣妙なる民政の運用に依り、物資の交換疎通を図り来りし郡内が、代官秋元氏の強圧的苛斂徴求に破壊され、多の餓死者を出す迄になったのは、所謂有利なる地点ほど、鋭敏なる経済的反響あるを知るべき実証である。
 然るに世の、いずれも第一に佐倉の木内宗吾問題を掲げ、その次に起れる此の郡内問題を取り落とし、正徳中の北条の万石騒動を第二に掲げ、高野山一揆を第三として順次に書き並べてある.もっとも大内宗吾のは、其人物行為、一々人を感動させ、所謂良民の名に当たり、やがて藩の措置も大いに心を尽し、刑罰も宗吾父子を斬り、他の関係者は、手心加えた迫故に止め、万石騒動も、高野山の一揆も、長民の刑死は十二人7にして、却て賊官汚吏を罪し、為政者の処置、頻る情け尽せし点が認めらるゝが、郡内事件は、仗殺、囚役、斬殺、磔殺、無慮百数十人、前後十四五年の久しきに及び、しかも其の刑義者らは、不屈不墝、妻子に及ぶ惨刑を覚悟して事に当り、終に代官秋元の徒管とまでなし得た。事は一小地域の問題なるも、極めて政治的に重大性を帯び、特に当局者の畏れをなした事件なるも、その事件が却て天下後世に伝はらない.聊か怪訝千万である.併し占来の一例として、想像も及ばぬ様な、残虐事件、乃至機密事件、破倫事件等は、大体多く掩蔽(えんぺい)され、その大部分は後世に伝はらない。
 今、その例を考ふれば、平安朝末期に於ける、長者富豪の良い勦滅(そうめつ)事件が、殆ど全部歴史の表面に現われては居らぬ。僅かにお化け談にその片影を認める位である。また庄司目代の下で苦しめられたる惨凄惨極まる人民の実況が、書き伝えられ居らぬ。僅かに諸寺の供養記などに、その一斑を窺はるる泣で。彼の徳川時代に於ける、天主教徒の屠戮焚殺。天主教徒の屠戦焚殺、寛永中三十余万人に及んだと云うのでるが、その裏面に於ける、陰惨極まる事蹟は、何程も伝わって居らぬ。往々之を羅馬古文献取り、九牛の一毛を拾う位である、且つその検察吏探偵吏と、仏敦憎侶との間に結ばれたる、畏るべぎ密事が、徳川幕府の仏法保護政策に利用され、残虐益す惨虐を極め、寛永以後更に引き続き、多数なる生民を殺したことは、事毎に掩蔽抹殺し尽くされ、歴史の表面観では一切不明である。
郡内義民事件
 郡内義民事件が、時の当事者により、かく深く隠蔽され抹殺されたことは、其の時の事情と云い、土地柄と云い、領主たりし秋元家の成り立ちと云い、訴願の性質と云い、都民の決心と云い、必ずや之を陰蔽抹殺せねばならぬ、事情ありしを考え来れば、本問題が当時如何に重大にして、且つ機密政策により処理されたかがわかる。乃て予は先ず、当時に於ける幕府の施政概況か説き、次に甲州民の尚俗と武田氏滅亡以後の状況を説き、その次に秋元家の成り立ちを説き、しかる後に本題に入り、老友渡辺氏の提供されたる考左により、諸種の文献を取捨して、其の大略を講述するのである。但し二百五十年の間の陰蔽抹殺、伝説の誤謬と憶説の紛淆とは、その真偽の弁明頗る困難であるが、小説家ならざる予は、特に信拠なき悝諺などは一切之を取省き、他の文芸家の巧妙華麗なる文字を以って問題多き本件の編綴補修さるゝことを待つ者である。

寛文中郡内、民の訴願と惨刑
 甲州民の成俗と郡内の管治変化
 甲州は日本武尊(ヤマトタケル)酒折宮の古代より、我が国の自治御立制の淵源地として、民政史上特殊の沿革ある一邦域である。その為か山岳鬱律たる交通不便の地帯なるに拘わらず、人民の知識気力、これを四隣諸方に比し、いつも一等の優位にあり、随て人材も多く出で、一種の色彩を帯びている。かつその産物を見るも古代より蚕織に秀で鉱治に長じ、園芸に詳しく他の妖考動
部邑の根底法礎を芯っている。故に比の根底駄謨ジー・浬解せずして、甲州を1酒せんとするレnは、燧石を以て火袋を擢るの愚をなすよりも、史に一人の旭陥か犯すむであるI燧石を以て火銕を擢る汽は、げ尨映ド付を粉砕するよであるが、この怯礎根底の即解なぎ置酒は、申州一国のぶ例八俵を破り、耽欧州的W蕩か、翁国に波及せしめ、絡には収りdめもつかぬことになる恐れがある。
 鋤ハ昨府削覆して、足利時代となり、民政内談制全く瓦解しても、。甲州一院域の人民は、克く‥‥E、成仏を守り、已仁以阻の乱皿をげy・、武川氏勃興の時な迎へた。由来武田氏は、緊照甲州人民に弥蔵・され、庇護され来りし、甲族源氏の11.‐統であるI枕武田氏に生れた手照のφ、順仏庚は、問然の風雲県て
産物に見るも、八代より収織に秀で、拡冶に長じ.園‥Eに粕 あったか、.将だ甲州人丿積勺の成心にこり卜げられたる回親しく、他の怯ヒー忖追ぬ優は、及びもつかぬ腕前である.故に てあったか、相心なく仏土は、甲州入Lの成にに引せられて占代の娃悩卦呻の時代にあって、哺人口と穀類所出を比例す 騰㈲し、戦国㈲代に鴇彩を放ったッ目将である.戦斗申.上のいれば、μしき供給不足なりしに拘はらず、反切疎通巧妙にし 玄は、にに犬ト佃らざる者なyも、民政史上のーい玄は、殆んて、嘗て他の制旧を.句けた巾がない.           ど全仙丹滅されている.併し.トの腿る所ては、帖土そ白八心 読がび八ヤ安の時代を経て、源心‐..氏の白張に移り、源氏 ‐目べ価は、飢‐W窓固たる優良に隅応を置いて力健比類なyい、勺の勢わ治山となり、逆心ら府以降は、.叱に口、氏胤に沈9‐副帥 加山艦だ処にあるものと恵一七
され「民の山ら治まる所に隅ひ之を続ぶ」とムふ政則を、覚えず知らずの中に体用申『付する所の良俗を成し、芥町沁‥桐昨日
なり‘目測的に山ら治まり
付する所の良俗を成し X‥則X‥桐尽日、自’ド.的公序を尚ぶの慣例は自ら外
帖よは、八丈中辻勃興の同めに、にLケ勺

刑法咳内
の伺
‥比か砧心ごてりし、面る傷口、検地を申ドして居る。汝お当山‥氏の利吋検閲も、泌く之に倣ひしと八ふのであ八こ㈲もげ仁よ








 秋元喬朝の出身と郡内民最初の訴願
   郡内州義民事歴(秘史実録)『都留市歴史資料集』(二)権藤成卿氏著 より 一部加筆

秋元富朝の後に喬朝が郡内代官(藩主)を襲職した。(喬朝一に喬知とも書けり、朝の字は秋元家代々の聾名字なれば、戸田家より養子となり、知の字を朝の字に改めたるものならん)は、戸田山城守の第二子にして、冨朝の養子となった者である.戸田氏は徳川家譜代中有数の家柄にして、喬朝が入りて秋元氏を継ぎし時は、将軍家は家綱の代となり、先代家光の余威をば儀飾の上に存し、幕府内の実情は、財政難に陥いり、それに後の明暦の大火を以て、一層困惑を極め、国庫増収計画にも之れ足らず、幸いに喬朝は、代々重臣たる戸川家の出身にして、一人前の才幹ある家から抜擢され、正にその出世の緒についたが、身分の高まるにつれ、儀式万端の費用より、工役回収に対する交際費に加え、賄賂に要する費用は、従来の郡内一万八千石では、固より支へ得べきものとも思はれぬ.そこで先代以来已に絞り尽くした郡内の所管内に於いて、苛斂徴求を始め、却て如才なく立ちまわり、漸々昇進して幕閣の末斑に列する様になった。
〔寛文時代の郡内〕
 然るに寛文二・三年(1662~63)以降は、各地方、地震洪水の害多く、六年は富士おろし烈しく、郡内一円凶作となり、疲れ切った人民は、吹き倒された家屋の修繕も出来ず、全く飢餓に瀕死居るにも拘わらず、徴賦課絞るが如く、之が為め、其冬より翌寛文七年の春にかけて、餓死七十五人を出し、流民となって他国に逃亡せし者三白七十五人に上り、愁訴の者前後二万人が代官陣屋(?)の前は、日夜飢民を以て埋まり、仰向ともされぬ所から、喬朝は二三の吏員に命じ、兎に角かく騒ぐばかりでは取り裁きの手配も出来ぬ故、然るべき者、一・二人を選び、愁訴の次第を申し立てよとの旨を命せし故、各村々の人民は大明見村庄屋想右衛門、朝日村庄屋惣左衛門の両人を惣代となし、同年三月四日訴願を提出した。然るに喬朝は、管内限りなく手配して手厳しく威圧を加へ飢ゆる者は飢ゆるまゝに、亡ぐる者は亡ぐるまゝに、全く手も足も動かされぬ様にして一まず表面だけを取り鎮め、同年の六月七日、右両人の総代を、代官陣屋の牢屋に打ち込んだ。それより翌年の春までの事情は、何の考左も残って居らぬ。但し予は当時の幕府内外の情偽と、訴願の性質とにより、断定を下すことゝする。
 本訴願書の日付は、寛文七丁未年三月四日とあり、訴願の趣旨は、

「甲斐国従来の憤例に依り、天文中武田信玄公の検地に依り、決定されたる租税運上等を俄かに変更され、交換米の下附より諸種の上納及び課役を高率となされしが、多数の餓死に籍を出し、この騒動を引き起した囚由なれば、最初家康公時代依り尊行し来れるお定め通りに、信玄公の遺例に復旧されたい」

と云ふにある。
 此の訴願を採可するとなれば、三代将軍の新制施行より、武田氏の旧制に従はねばならぬ。例令其の願意が正当なる条理あるとするも、幕府の直属地を所管する喬朝、而かも幕閣の一員としては、之を其の一個の独断に決する訳にはゆかぬ、勿論この問題は幕閣に持ち出し、細かに其方策を錬ったと見ねばならぬ。且つまた幕府も各方面新制実施困難を極め居る際なれば、緩厳両端区々の議論もあったものであろう。是を当年の老吏安西茂左衛門手記に考え合はせれば、凡その推測は出来る。是れが両人の総代を拘囚したまゝ、ろくろく取り調べもせず、前年の三月より翌年の春まで、打捨て置いた訳と見るも、無理ではあるまい。
 是れが不幸にして、幕閣の議論が、強圧手段をとることに決し、喬朝平生の立志に一致したので、喬朝はその内意を体し、寛文八年二月四日、拘囚し置きたる総代に願意相叶わざる旨を申渡し、これを金井河原の刑場に引出し、斬罪に処し、其家を闕所断絶とした。
 (此の惣代即ち想右衛門、惣左衛門の出入は、口碑の伝ふる処によれば、共に郡内に於ける徳望ある家柄正しき位置身分のありし人なりしと云う。忠右衛門の手記中に斬刑の後、想右衛門は大切なる家柄なれば、闕所取り潰しに際し、表向きは其の従家左衛門の家を想右衛門の家と做し、之を取り潰し、想右衛門の家は僅かに保持されたと記している。惣左衛門のことは未だ何らの文章も見当たらない。)
 この斬刑執行ありしや、郡内の人民は、非号叫哭、老若男女の別なく、此処彼処に集まり、日夜反の擾揺を極め、中々鎮まるべくもなく、代官所は厳しく取締を令せしも、村々の大衆は、その積り積れる怨苦に加え、朝な夕な綴前に引き続ける近親郷當の餓死離散の有様を見、其の身に迫れる刻々危殆、それに平生の頼りとせし、慈悲深きこの惣代は、情けなくも獄門に晒される二つの首となり、供養も許されざる触れ出しの下に、怨は憤となり、憤はいつともなしに固き村邑の結束となってきた。そこで代官所は、士卒を駆り出し、民衆の集団を一掃することとなし、手当り次第に××××××××、百数十人の死者を出した。
(△注△・××とあるが厚文のまゝである。××表記はこのほか数か所出てくるが、戦前の検閲のための抹消と推測される。)
餓え疲れて、その総代の惨刑を悲しみ哀ける民衆を、かくまでに圧迫せしは、‐啻だに之を代官所乃至代官喬朝の独断専行とは見られぬ。
【筆者註】
 文中で谷村代官所が出てくるが、谷村藩は宝永元年(1704)藩主・秋元喬知が武蔵国川越藩に転封され、谷村藩は廃藩となり、都留郡は幕府直轄領となった。これから谷村には代官所が設置された。享保九年(1724)甲府藩主・柳沢氏が転封となり、これより甲斐国は幕領となり、国中には代官所が設置され、谷村代官は石和代官所の出張陣屋となり、郡内の支配を司ったもので、寛文・延宝・天和・貞享・元禄までは秋元氏の支配であった。従って文中の「谷村代官所」は間違いと思われ「谷村藩」が正しい。

 この際喬朝は江戸公邸に在って、日夜に数回にわたって情報に接し、幕閣との間に如何なる打ち合わせや説明をしたかは明確に伝わっていない。こうした事象については機密に附せられるものである。幕閣の一員である喬朝の藩内での不穏な動きは、早急にことを治める必要があり、地域農民に多大な負担を強いることになったと思われる。二名の行動も幕府や藩主に歯向かう暴挙としての扱いを受け斬首となった。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月16日 20時26分06秒
コメント(0) | コメントを書く
[富士山資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X