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2019年05月27日
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カテゴリ:富士山資料室








 富土石と富士講 その一 

屋敷神と共に祀られた富士型石・富士登山の古絵図

 

   大淵紀元氏著 『伊那』 1986・2 一部加筆 

 

屋敷神と共に祀られた富士型石

 

筆者の所にも富土石が祀られてあり、丸石が供えられている。何れも時代を経た古いもの子、天然自然の姿石である。

  富士石 横70cm・高さ35cm・厚20cm・底は平である。

  丸石 直径20cm・重量 20kg

 

丸石、富士石、石棒などの姿石を依り代として、神を迎え、神に祈る信仰がこの地方にも古くからあったのだ。

 今にして気がついたのであるが、私の所庭の松の古木 (四百年以上経た文人仕立の黒松) の下に、富士形石の横一m20cm、高さ七十cmの姿石に、駒の爪((いわ)蓮華(れんげ))が一面に生えているのがある。相の移り変りと共に忘れ去られて行く、石への祈りへ安打の説話など記しとめて置きたいとおもう。これ等の安石は富ト参詣の古絵図と共に、古くから富十浅問神社帽仰のあったことを物語る処である。

 

富士登山の古絵図 

 

(縦80cm 横 45cm)

   富士山依御縁年致参詣候

    此の図は大当たり(大凡) 心得を引出し申候

  于時万延元庚申七月七日(旧暦) 登山大島村行者十一人

           大洞半右衛門

以下、絵図の但し書きを寫す。

釜澤より小谷嶽江四里、杣小屋へ三里、会所へ三里、

荒倉山会所ヘ一里、杣小屋へ一里、新倉村へ一里、

大下村へ二里、赤沢宿(山梨)へ半里、身延山へ二里半、

下山宿へ一里半、古関村へ四里、本栖宿へ三里、

鳴沢村へ三里、吉田口へ三里、

 

釜沢村より甲州身延山へ拾八里、難所也

釜沢村より甲府を通り吉田口迄 四拾里余

七面山 上り五十丁、ド下り五十丁、道而難所なり

 

その頃大高山村は戸数五十、富士の行者十一名が富士山参詣したというから、当時村人の富士対する信仰心が大変に深かった処を見るべきで、谷深くして濃霧に阻まれ、山高くして豪雨にうたれ、法螺貝(ほらがい)を吹きながらしてお互いを確かめあいながら、甲信国境を越え、甲駿の山脈を経て、片道四十余里の難を踏破して田口へ向ったのである。装備の行き届かぬ当時大変な苦行であったろう。

 帰路は川口湖、藤の本峠、石和、甲府、韮崎、蔦木、金沢、金沢峠、御堂、高遠から三峯川を南に渡って宮田、上穂、飯島、片桐と歩いて帰っている。

 此処で特に注目したいのは、高遠を出て三峯川を南に渡り、有田へ出る古道のことで、定説ではないが郷土史家の中にこれが古い東山道ではないかという説もあり、珍しい絵図である。

(駒ケ根市郷土史家竹村進氏談)

 






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最終更新日  2021年04月16日 19時45分12秒
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