カテゴリ:富士山資料室
富土石と富士講 その二 小野川の富士石・富士塚・浅間堤 小野川の富士石 信仰する石の成長譚について、柳田国男は『日本の伝説』「袂石」の頂で石の成長にふれて豊富の例をあげ、別に「生石伝説」で石成長について説かれているが、富土石について、身辺な例を一つだけ挙げておきたい。 「信州の小野川に富士石という大きな岩があり、之は昔この村の人加富士山に登ってお山から拾って来た小石がありました。家の近く迄来て袂の埃を払おうとして、紛れてここへ落しだのが、いつかこのように成長したのだといっております」(『伝説の下伊那』) 天龍市の富士石、富士山本宮浅間神社の鉾立石、山宮参道のお休み石が何れも小石から成長したものだという信仰のあることから、富士山の石は待ち下ると成長するという信仰があった。石信仰の上に分霊憑依の典型として、石が象徴的に取り上げられているもので、富士石、伊勢石、熊野石などを始め、秋葉山、厳島、熱田などの古杜や霊地に関する石も、分霊が宿ると信じられ、それ等の小石を持ち帰って、分霊の霊威を信ずることで、石もまた成長するというのである。 富士塚 吉田にはこの外小沼の松沢氏西の高台に、「富士山神社」という大形の石碑が祀られている。この富士神社御本体は、もと三百m北の月夜平に昔「五畝の社地」があって、富士塚を造ってその上に祀られてあったもの。大正末から昭和の初期に、周囲を開墾して桑園から今果樹園となって、社木も旱魃して社地は畑となり、御神体の石塔は三度移転して現在の高台に奉納した。(小社もあったが今は無い) 此処富士塚の富士山神社から村社の諏訪神社まで、昔は獅子舞が練り上げられたといい伝えられているよし、すぐ近くの松沢つるさん(七五歳)は語るのであるが、今は全く例祭も行わず、つるさんが毎月一日、十五日に参詣するだけだという。 この獅子舞の奉納は、諏訪神社まで一km程の道のりで、昔は道幅も狭かったので、大神楽ではなかったかと思われる。吉田では、大庄屋中塚原左衛門が、大神楽を好んで舞ったといわれた。私は五、六歳の頃、源左衛門の舞った大神楽の獅子頭と太鼓を貰ってきて、大いばりで部落を舞い歩いた。弟達から孫まで、近所の子供達も、随分長く楽しんで遊んだが、桐材で彫られた獅子頭は今にその形が残っている。 浅間堤 月夜半の富士塚、富士山神社の柱の東北、矢沢の奥で澤木を堰き白止め、造ったのが浅間堤で、山は追って谷深く、水は紺青に澄んで、西の辺は木陰に遮れて暗く、物凄い感じの溜池である。これが冨士講。不二教の信徒が中心になって精進協力して築かれたため池で、浅間堤と名づけて永く語りつがれる所となった。付近に人家もなく、伝承も朧気であるが、吉田口より代行所への届書を寫す。(略) 昭和五八年秋二又沢が一挙に10mも河床を下げる洪水で、土石流人の大被害を受けた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月16日 19時42分38秒
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