カテゴリ:富士山資料室
富土石と富士講 その四 不二教・富士講 大淵紀元氏著 『伊那』 1986・2
不二教・富士講 修験道は神仏不二の信仰を奉ずる山岳宗教で、開祖は役の行者小角であるという、聖徳太子の没後におこった修験道は、日本古米の神道も外来の仏教も根本はおなじもので、仏教は民衆を済度する現世的な教であるとして、神仏不二の観念を広めようとつとめた。そのため常に民衆の側に立って、各地の山岳に寵り、修験道の秘法を極めて衆生の済度にあたった。行者達は気合術・催眠術・医術の三つを布教の手段としたという。また現世仏教の天台、真言の密教寺院を支持した。 富士山信仰の不二教・富士席も、根本的にはこの行道の教理に準じたものと見られ、明治三十年頃まで吉田では、富士講行者が水垢離をとって水行を行い、熱湯に手を入れる「深傷」、炎々ともえ盛る火焔の中を裸足で渡る「大渡り」、抜き身の刀の上を素足で渡る「剣の刃渡り」などの祈祷を行った、と母から度々話されたが、行者の名を思い出せない。 江戸幕末の頃から、下伊那を中心とする伊那谷に、不二教・富士教・富士講などの宗教結社が大いに行われ、何処の村落にも「富士浅間大菩薩」とか、「富土浅間大権現」等の大きな石塔が建てられている、富士山になぞらえた富士塚も造られて、道場とした処もあった。高さ一m五〇cmから二m、直径十m前後の塚をつくり、神の憑代として、富士神社を祭った。 富士浅間神社の近くには、修験場の行物が水垢離をとって寒行を行った滝揚があって、富士行屋もあった。 室町時代から戦国戦乱の時代にかけて、前後二百年余り、中国の西北地域、満蒙の奥地に広く行われていた羅摩教の「大聖堂大宮」を中心として二川流という宗派が盛行し、忽ち国内を風靡した。羅摩教は古く仏教と聚合して我が国に伝来した夫婦和合の神、男女交合の神で、象頭人身の双身像が争い。一つは男天の魔王、一は女天で十一面観音の化身といい、男女抱合の姿に作られている。 東京都「浅草待乳山聖天宮」が有名で、聖天というのは仏菩薩が歓喜する日、旧暦七月十五日であるという。 この二川流が、男女の性を甚しく乱すとして、徹底的弾圧を受けて潰滅したのは寛永、慶安頃であるが、僅かに許されて残ったのが不二教で、その創始者は長谷川角行であった。発生の起源は室町時代の来頃といわれ、日本古神道を基調として、日本の代表的な名山富士山を、天地正気の表象として崇敬し、これを根本として一種の教義を創唱し、富士講社の開祖と仰がれるに至った。 すなわち富士山を鎮護国家の霊山として「天地之始、国土之柱 天下参り国治、大行之本也」と遺言して開祖井上角行は富士山の人穴(女陰形洞穴)に篭り正保三年(一六四六)断食修行中没した。爾来この不二教を信奉し、実践する者が次第に多く、中興の祖といわれる伊藤食行に依って、益々その教義は敷行せられ、世道人心に感化を与えるところが大きかった。 伊藤良行は一生の間に、富士山へ登ること八十八回に及んだという。多くの同志門弟を擁して常に「信仰の余りと雖、ゆめ稼業を怠る勿れ」と訓じ、自らも質素倹約を旨として家業に専念したという。 幕末武州の人小谷禄行が出て教義は一層拡大し、二宮尊徳の報徳社等も大きく影響を受けたといわれている。 伊那谷に不二教が伝来したのは江戸末期、文致十一年十月、編笠姿に草桂履きの出で立ちで禄行が飯田を訪れたのが初めてであったという。飯田でまずこの教えに目を聞かれたのが有名な松下千代女であった。 禄行はこの千代女を布教の中心として、飯田附近にこの教えを説いたので、不二教に共鳴する支持者・信奉者・伝導者が次第に増えて行った。伍和村甘栗矢の原九右衛門、生田村郡奈の林団蔵、川路甘代田芳兵衛等であった。 その信仰と理想を、霊峯富士山にもとめて盛大に赴いたのであるが、のち富士講の名称を実行教と改めた。これは二宮尊徳の報徳教の影響もあるかに思われるが、甘々に祭られている富士浅間神社の石塔には、講中之を建つと記されているも、講員名簿その趣意書など記録の見るべきものまことに少なく、その辺定かに知り難い。 幾多名称に変更はあっても、不二教、富士講の精神は終始変ることなく、伊那谷の実行教徒はすぐれた活動を展開して、全国的な視野にたっても、地域社会に大きな実蹟を残している。その二、三を記す。
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最終更新日
2021年04月16日 19時41分51秒
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