カテゴリ:富士山資料室
富土石と富士講 その六 部奈の富士講と林団蔵・女傑 松下千代(三千子) 大淵紀元氏著 『伊那』 1986・2
部奈の富士講と林団蔵 伊那谷の富士教を語るに就いて、その正統を継承した先達部奈の偉人林団蔵を除く事は出来ない。(彼の事蹟は生田村史に詳である) 前に古田月夜平の富上講でふれたが、部奈の高台の一角、部奈東方の牛棒山に富上講のお塚を追って富士浅間神社の石塔を祀り講社の道場とした。 生田は弘化三年から奥州白河藩阿郎正備の所領として市田郷原町宿陣屋の支配下にあったので、市田六ケ村との交渉は多かった。 林団蔵が富士講・富上教の先達として部奈疎水の大事業に取り組み、同志の有力な支持を得てこの難工事に挺身遂行し得た事は、偏に団蔵の不屈不例の熱意に拠るところであるが、同時に部奈部落の宿願と天明年間より度々試掘を試みて果し得なかった、団蔵の父祖三代にわたる悲願の結集でもあった。 彼は険阻な渓谷を跋渉し、自ら測量して大鹿村大河原字鵜飼沢から岩を穿ち渓を拓いて万難を排し、弘化元年三月に工事を起して弘化三午二月竣工した。 その工事の至難を極めたのは、延長六十七間(一二六m)の墜道工事で、孔道は人の歩き得る程度であるが、当時は専門的な機械もなく、玄能と鎚をもって硬い岩盤を刳り貫いたもので、両方から貫通するに至った、その間の苦心経営は筆舌に尽くせぬところと伝えられている。
疎水の総延長 三里(十二km) 総工費 金二千二百九両、銭一〆八一文
部奈はこの疎水の完成によって、新に水田二十余町歩を造成し、米の増収分、年々六百石に及んだという。 団蔵はこの大成功に力を得て、嘉永二年、旱魃に備えて部奈に大小十三個の溜池堤を造成した。団蔵は功に依り、阿部能登守から部奈姓と帯刀を許され二人扶持を支給さられた。これによって「部奈に角力人なし」(栄養不足で力競ベをする人もない痩せ細で住む人も居なくなるという程の意か)とまでいわれた寒村も、今日の美事な村柄となった。
女傑 松下千代(三千子) 大淵紀元氏著 『伊那』 1986・2 女傑 松下千代(三千子) 寛政十一年、飯田伝馬町亀割賢哲の長女に生まれ、十五歳別府村原伊占の三男治兵衛を迎えて同し町内に分家、後他出町に移り先祖の旧姓松下氏に復して、古本屋と称した。 文致の頃不二教の小谷禄行の教を受け、道名を慈行三千と改め、西井の間に伍して無頼の徒を導き、一家の不和を解いて子弟を善導する等、社会教化に尽力斟からず、お千世朧を考案して諸人にすすめる等、南信峡谷不二実行教の先駆者で、女高山と称せられた。 明治丑年二月七十四歳で亡くなるまでその間四ト五年、毎朝冷水に身を浄め、朝食の菜料は素足一路に限り、▽劈をこの教に委ね、京に上り皇居を拝して宝祚の隆昌を祈ること二トー回、富士山に上り御来光を拝し、大下の康宏を祈念すること八度、西は五畿より東海東山に及んで、東は武総、常野の間に往来して宣‘目なく節儀を説き、生活向上や農業の改駆普及を企画指導する等、その功検挙に暇なく萬人に思慕敬仰せられた。 時鳥きかせてほしと思うかな 雲井にあがる道の一声 柴田 花守 法名 礼道三千大姉 上黒田旧伊那街道に洽って野底橋より100m余、 富岡鉄斎書「師母三千子嫗の碑」がある。
(筆者〒 高森町大高山) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月16日 19時33分41秒
コメント(0) | コメントを書く
[富士山資料室] カテゴリの最新記事
|
|