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2019年06月13日
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カテゴリ:江戸時代史料

フランス軍服を着た将軍 徳川慶喜 

 

著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏

   『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆

 

第二次幕長戦争の失敗、江戸・大坂の打毀しをはじめとする民衆の蜂起のなかで、十四代将軍家茂は急死した。しかも跡継ぎがきまっていないのだ。そこでいろいろ問題はあったが、結局一橋慶喜が将軍に治まる事となった。とりわけ老中板介勝静(かつきよ)と越前の松平慶永(よしなが)とが、崩れつつある幕府の屋台骨をたて直す人物として慶喜を強く推したのだ。

廃喜は、攘夷派の総本山である水戸の徳川斉昭の第七子であったが、決して攘夷主義者ではなく、むしろ西洋被れといわれた人物であった。フランス語の知識があり、フランス料理を好んだ彼は、

「私かこれまでに見た日本人の中で、もっとも貴族的な容貌をそなえた一人で、色が白く、前額が秀で

くっきりした鼻つきの立派な紳士であった」

と、イギリスのある外交官に評されている。

慶喜が将軍になったとき、

「私が最後の将軍になるだろう」

と述べたというが、決してそうではあるまい。彼は、徹底した幕政改革を実施して、幕府の力で諸藩を抑えこもうと、必死の努力をした。しかも彼は、フランスの経済的・軍事的援助によって、それを実現しようとしている。

将軍就任の直前、一八六六(慶応二年)一一月、慶喜は、熱海に保養中のフランス公使ロッシュの所に外国奉行を派遣し、その意見を聞いている。

まず彼は、大名でなければなれない若年寄に、旗本の永井尚志(なおむね)を起用したように、破格の人心材登用を行ない、続いて第二次幕長戦争の失敗に学んで、軍制改革を行なった。旗本が手勢らを率いて軍役をつとめる制度をやめ、代わりに旗本から金をとり、それで傭兵を組織した。それと旗本以下茶坊主にいたるまでの軽輩を、銃隊に編成した。洋服を着せ、鉄砲を持たせたのである。そのごフランスから軍事教官を招いて近代的な軍事訓練をさせた。他方幕府機構を、と従来の老中会議の体制を改め、首相格の老中首座の下に、海軍・陸軍・会計・国内事務・外国事務の総裁を置き、内閣に近い形のものにしたのである。またフランスの経済援助により、軍艦や武器を買入れ、その見返りに対日貿易の独占を許すフランスの商社を設立することになった。それどころか、火薬製造所や製鉄所の建設もすすめたのである。           このような幕府の改革は、幕府の力だけで全国統一を成し遂げようとする意気込みの現われで、倒幕勢力に不安を抱かせた。岩倉具視は、慶喜は「軽視すべからざる強敵である」と述べていたし、木戸孝允は、「家康の再生を見る」思いがすると述べていた。だからこそ幕府が体制を整える前に、これを倒さねばと考えたのである。 






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最終更新日  2021年04月14日 06時38分09秒
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