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2020年06月08日
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(豊臣秀吉) 二度にわたる朝鮮出兵 慶長の役

 

 大系 日本の歴史 19881120

  朝尾直弘氏著 小学館 一部加筆  

 

講和交渉がすすめられていたあいだにも釜山周辺の朝鮮南部に日本車は駐屯をつづけ、反日義兵闘争のさかんな南部三道の鎮定にあたり、とりわけ講和交渉に反対する朝鮮軍がたてこもる慶尚道晋州城を攻撃しこれを陥落させた。文禄五年九月に講和交渉が決裂すると秀吉は新たな陣立てを指示し、慶尚道南岸地

帯を中心にして攻略を本格的に再開した。

 そして慶長二年(一五九七)八月、全羅道南原(なんげん)城をおとし、()(せん)に島津義弘、慶尚道蔚山(うるさん)に浅野幸長(長歌の子)・加藤清正らを配置し、日本式の城づくりによる拠点固めが行なわれた。いずれの城も突貫工事によって完成がめざされたが、蔚山城のばあいは完成しないうちに明・朝鮮連合軍の攻撃を受けたため、慶長二年の暮れから翌年初頭にかけて箭城し、ようやく到着した日本からの救援軍によって九死に一生をえるありさまであった。

 とりわけ蔚山城の築城と龍城をめぐっては、凄惨な様相がくりひろげられたことで知られている。豊後臼杵の一向宗僧侶慶念は従軍医僧として現場にあり、その見聞をつぶさに記録した。朝鮮人兵士の包囲のなか、築城のために必要な材木を採りに行かされる陣夫たちは、採りに行けば朝鮮兵に命を狙われ、恐れて仕事をおこたれば処罰される、そうした作業を四六時中くりかえさねばならなかった。龍城してからは兵兵糧と水不足になやまされ、その弱昧につけこんだ水売り商人があらわれたりした。また、荷物をはこんだのち不要になった牛馬はたちまち皮をはがれて食用となった。「ただ畜生道にてはあらずやとおもひ侍るばかりなり」、と慶念は記している。さらに、このような最中に日本からの人買い商人が朝鮮人の首に縄をかけて引き立ててゆく光景も見られた。

 

朝鮮における大量虐殺と鼻切り 豊臣秀吉

 

第二次出兵の前後から、朝鮮民衆にたいする大量虐殺と鼻切りがいっそうはげしくなった。すでに文禄の役のときから手柄を示すものとして、朝鮮軍将兵の首のかわりに鼻切りや耳切りが行なわれ、それを塩や酢に漬けて秀吉の元にはこんでいたが、この慶長の役ではそれ以上のはげしさで行なわれた。鼻切りの相手が戦闘員であれ非戦闘員であれ、獲得した鼻の数こそが戦功をはかる基準とされたのであり、となればだれもが競って婦女子から老人・子供にいたるまでほとんど抵抗する術をもたない者を鼻切りの対象とし、数千から万をこえる鼻が海をわたって秀吉のもとに送り届けられることになった。

 秀吉はあつめられた明・朝鮮人の耳や鼻を京都方広寺大仏の西に埋め、塚を築いて供養すると称し、おのれの「慈悲」を天下に示そうとした。

 耳塚 当初は鼻塚とよばれ,五山の僧侶400人を集めて大供養がいとなまれた。

 

慶長二年七月半ば、日本水軍は元均の指揮する朝鮮水軍を撃破し、その後の戦いにはずみをつけることとなったが、文禄の役に活躍したその功績ゆえに同僚のねたみをかって失脚させられていた李舜臣が水軍の指禅にかえり咲くと、またもや日本側は補給路を断たれることとなった。

 そうしたなかで、慶長三年八月一八日、秀吉の死を迎えることになる。その死は秘匿され、日本側はこれを機に朝鮮半島からの撤兵を実行する。しかし、やがて明・朝鮮側も秀吉の死に気づき、撤兵する日本軍に追い討ちをかけ、最後尾にあった小西行長は李舜臣に退路をはばまれて進退に窮し、島津義弘の急援軍が()(りょう)(しん)で率舜臣を打ち破るなか、ようやくにして帰還がかなった。

 

 秀吉の強硬外交

  尾をひく悲劇

 

 秀吉による二度にわたる侵略戦争をつうじて朝鮮半島の受けた被害は甚大なものがあった。耕地は戦前にくらべて三分の一に減少し、人口もまた大幅に減退したといわれる。すくなくとも五、六万をくだらない数の朝鮮人捕虜が日本に強制連行されてきた。その多くは農民であり、日本でも農作業を強制されたのであった。

 

 朝鮮侵略は他面において、日本に大きな文化的影響をもたらした。陶磁器の分野では、この時期以降九州や中国地方を中心に朝鮮の技法に学んだ陶磁器生産が活発となり、それぞれの地域における特産品または藩専売品として知れわたることとなった。あるいは、銅活字の渡来や、また日本に約三年間抑留されていた朱子学者姜沆の、藤原惺高などとの交流をつうじて日本朱子学にあたえた大きな影響も見のがすことができない。

 しかし、こうした文化をつたえた陶芸や印刷・刺繍にかかわる技術者あるいは知識人たちは、各自の意志とは無関係に強制的に日本に連行されたのであって、結果としてかれらのつたえた先進的な技術や学問が日本文化に刺激をあたえ、すぐれた文物を生みだしたのである。

その意味で、戦争と略奪による異常な文化伝播なのであった。

 したがって、たとえば島津氏によって薩摩に連れてこられた朝鮮人陶工たちは、はじめ薩摩の地に何の保護もなく放置されたため、悲痛の日々を送らねばならなかった。異国の地において生活の糧を自力でえるため、日常の雑器を焼いては食料と交換した。周囲の日本人百姓とのあいだには意志の疎通が十分にはかなわず、いわれない差別や迫害を受けることもあった。かれらを連れ帰った島津義弘は、藩の政策として朝鮮人陶工たちを保護したが、しかし、それも日本人からの隔離・集住と朝鮮の言語・風習の保存を強制し、あたかもかれらが徳を慕って来住したかのような外見をとるものであった。

 捕虜たちのうち文才のあるものや学者たちは、大名の侍臣としてとりたてられた者も多かったが、しかし自由に帰国することは許されなかった。また日本人と結婚したばあい、その夫や妻、子どもに心をひかれて帰国を果たせなかったものもすくなくなかった。蔚山の戦いの際に捕らえられて近江八幡に連行されたある女官は、江戸時代になって朝鮮通信使が近江八幡のあたりを通過するときには、行列の後を追って故郷のことを問うたという。

 帰国を望みながらも帰国後の条件の不備をきらって帰る機会を失い、そのまま日本に定住したり、あるいは奴隷として転売されたものもあった。朝鮮人捕虜のなかにはポルトガル人をはじめとするヨーロッパ人にも買われて、東南アジアやはるかアフリカ方面にまで流出した者もあったことが、ヨーロッパ人宣教師によって記録されている。

 こうした事情が秀吉死後における日朝間のすみやかな修好回復を困難にしたのであり、捕虜の返還が講和の重要な前提条件となった理由であった。

 

   秀吉の南進政策

 

秀吉は、朝鮮侵略の戦争と並行して東アジア諸国にたいしても強硬な外交姿勢を示した。そのことは束アジア諸国の人びとのあいだにも知られていて、ルソンから派遣されていた修道士は、一五九七年(慶長二年)長崎での処刑直前の手紙の中で、

  ここの王(秀吉)は……来年にはルソンに行くだろうこと、そして今年はコリオ(朝鮮)の問題に忙 

殺されているので(ルソンには)行かないこと、さらに、この目的のためレキオ(琉球)とエルモサ 

(台湾)を占領し、そこからカガヤン(ルソン局)に兵を進め、……マ二ラをとろうと考えているこ

とが人の口にのぼっています。

と述べており、朝鮮侵略戦争がただそれだけにとどまらない点を正確につかんでいるようすがうかがえる。

 そもそも秀吉が対外政策を展開した時点における東アジア世界は、すでに以前とは異なる様相を呈していた。一五六〇年代の後半、福住吉各地を荒らし回っていた倭寇が撃破され、台湾に逃れてここを新たな根拠地としていた。この時期の倭寇の巨頭として知られる林道(りんどう)(けん)らは、無頼の徒一〇人をあつめたものには銀三両をあたえて部酋(ぶしゅう)にするという、賞金による人集めの方法をとり、巨大な倭寇集団を形成した。

 こうして、台筒鳥は倭寇、すなわち中国人を主体に日本人等をふくむ海商集団の根拠地となり、軍事上・交通上の要衝として重きをなしたのであった。かれらの活動の舞台は南のフィリピンにまで達し、四千人の部隊を指揮下におさめた林鳳は、一五七四年にフィリピン襲撃を実行する。この襲撃の際の先発隊の指揮をまかされたのが日本人シオコであり、また、この襲撃の時点ですでにマニラには約二〇人の日本人が居住していたともいわれている。

 一五世紀以来の東アジアを律していた明帝国を中心とした王朝開の体系的な秩序は、この時期明帝国の衰退によって解体に向かっていたが、それはさらに一六世紀の半ばに頂点に達する倭寇の活動、あるいはフィリピンなどをあらたな出会貿易の拠点とするヨーロッパ商人などとのあいだの多元的な私的通交へと展開した。こうした状況のなか、秀吉は「唐入り」の宣言において、「ただに天明国のみならず、いわんやまた天竺・南蛮もかくのごとくなるべし」と、東南アジアからインドをふくむ天征服帝国を構想、みずからは明帝国にかわる公貿易体制の守論者にとってかわるつもりでいたが、これを受けとめた諸国の秀吉を見る眼には別なものがあった。






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最終更新日  2020年06月08日 17時19分33秒
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