北海道空知に於ける朝鮮人・中国人の強制労働の実態
北海道空知に於ける朝鮮人・中国人の強制労働の実態はじめに北海遊歴教協は、愛国主義と国際主義との統一を歴史教育の軸としてこの立場より数年前より取り組んできた。私も遊歴教協の一員としてその立場より歴史教育を考え実践も行なってきたところです。‐戦時中の空知における朝鮮人、中国人の強制労働の実態供野周夫氏著 一部加筆 この課題は同時に日本帝国主義の他民族抑圧の実態を明白にすること、つまり日本帝国主義の戦争責任を追及することをも含んでいます。それは多民族に対してはどうであり、自民族についどうであったかを明白にし、そこから教訓を引き出し、今日の歴史的課題に答えることでもあると考えます。 空知は炭坑地帯として発展していたが、アメリカ帝国支流に従属する日本独占のエネルギー政策のもとで、かつてはビルド鉱とすらいわれた大手の炭鉱にも「閉山」攻撃かかけられ、いくつかの大手的ヤマすら姿を消しました。 私は空知の石沢産業を支えたのは誰なのか、このごくわかり切っことを再度深めてみることによって愛国主義と国際主義との統一発展させたのは、ひとり日本人ばかりではなく、朝鮮人の労働者、中国人の労働者であること、激しい労働強化と搾取、虐待は程度の差こそあれ、三国の人民に共通に加えられたことを明硫にし、プロレタリア国際主義の立場を貫くことの重要性を再認識することでした。また同時に三国人民の血と汗と涙によって築きあげた炭坑、三国人民の犠牲の上に立つ炭鉱を一方的に「閉山」し、国家資金を略奪している炭坑独占の責任を追及することでした。 以上の基本的視点に立って、日本帝国主流下の朝鮮人、中国人の強引労働の実態を究明したのがこの報告です。 朝鮮人の炭鉱労働者 強制連行された朝鮮人 戦時中の空知における朝鮮人、中国人の強制労働の実態より供野周夫氏著 一部加筆一九○四年、つまり朝鮮が日本の植民地なる前には、在日朝鮮人はわずか二百二十九人しか居なかった。しかし一九一〇年には「日韓併合」とともに、朝鮮人は「帝国臣民」となり、安くて有能な朝鮮人労働者の供給地になった。「日韓併合」以前には「特に宗教、画家、陶工。織物工などは、日本にそれぞれの技術とか芸術品をもたらし、日本定着して帰化した人も、かなりの数が歴史上に記載されている。それらの人たちの中には親日的な政治家や、いわば留学生などもあったわけですが日本に定着する場合には、文化面、技術面で優れているということで、尊敬のまなこを持って見られていた。」(畑田重夫『日本帝国主義の朝鮮植民地統治について』)という。それが後に見られるような虐待、過酷な搾取、民族的差別、侮辱は、日本帝国主義のブルジョア民族排外主義によるものであった。朝鮮人の労働者は、植民地化の渡航という異常な形態をとおして、農民からプロレタリアートへの転化という歴史的過程をとらされた。といえよう』(『朝鮮近代史』勤草書房、渡部学編著)次に掲げる表一は強制連行した朝鮮人の人数であるが、それはまさしく二十世紀の奴隷狩り他ならない。日本の朝鮮支配は、さまざまな植民地支配の中でも例を見ない過酷なものであり「あらゆる最新の技術的発見と純アジア的拷問とを結びつけた前代未聞の残虐なやり方で朝鮮を略奪している。」(『レーニン全集』三十一、大月書店)のであった。以下は空知における強制労働の実態を若干の資料を基にして追及したものである。 空知における朝鮮人労働者の実態 戦時中の空知における朝鮮人、中国人の強制労働の実態より供野周夫氏著 一部加筆空知における朝鮮人の使役については、既に一九一七年頃よりみられる。「三菱美唄鉱では大正六―八年(一九一七~九)の好況と、太平洋戦争の二度にわたって大量に使用した。朝鮮人労働者は安全弁的な存在で、好況の波にのる資本家の労力不足を一時的に満たし、不況による企業の縮小は帰省をうながすという状態であった。」(三菱美唄炭鉱労働組合編著『炭鉱に生きる』岩波書店) 以下この書から当時の状況をみると、大正六年には朝鮮から募集した労働者が一二四名も入った。これらの労働者は主に切羽で後山として働いていた。日本帝国主義が他民族の侵略を開始してからはこの傾向はさらに強くなる。すなわち、昭和十四年十月には四六一名、十五年には六八五名、十六年九〇〇名、十七年七〇〇名というように送り込んだ。これらの朝鮮人は主に農村の素朴な青年が多かった。募集の方法は自己希望となっているが、戦争末期では強権を発効し、野良に出ている者を無理矢理につれてくるという強奪同様の手段をとった。 空知では、どの位朝鮮人を強割労働させたかは正確にはわからないが、畑田重夫氏は数十万・四十万とも六十万ともいわれている、とのべている。空知では、どの位の朝鮮人を強制連行したかについても定かではないが、一九四五年に在住していた朝鮮人の数を各市町村史、「北炭七十年史」を基に著者が作成したものが表2である。表2 空知における強制 連行一覧表 (1945年在住数)連行炭鉱 連行人数夕張鉱 7,300平和鉱 1,500大夕張鉱 3,200眞谷地鉱 838三菱美唄 2,817三井美唄 1,641上砂川 3,109住友赤平 1,159三井芦別 1,947歌志内鉱 2,504上歌志内 805新歌志内 332空知鉱 2,504新幌内鉱 1,489幌内鉱 1,736奔別鉱 1,174弥生鉱 512万字鉱 100計 44,575 表2は、一つの年に在住した人数であるし、この外に強制労働をさせた雨龍浅野炭鉱、北炭万字炭鉱、美流浪炭鉱などは正確な資料が残っていないためつかめないし、また雨龍発電所の朱鞠内ダム工事などにも使役しているから、四万四千五百七十七名も一つの輪郭として、部分としてのみ押えられよう。朝鮮人の使役の実態戦時中の空知における朝鮮人、中国人の強制労働の実態より供野周夫氏著 一部加筆「坑内における請負組夫は、タコ部屋といわれた土工請負の転化したものであった。しかし戦争末期では朝鮮人労働者が大半でこれらの組夫は突貫作業の坑道開さく、岩石掘進、水現場などのひどいところで作業をした。現場には棒頭がつき、逃亡を監視する見張員を坑道の便所に配置して作業をおこなっている部屋には厳重な囲いをほどこし、封建的奴隷労働さながらの鉄則にしばられていた。リンチは所かまわず加えられる。例えば炭車が脱線するとそれを一人で直すことができないと腰が抜けるほど叩くなどは日常茶飯事であったご(『炭鉱に生きる』)。しかも、危険の比較的少ない坑外労働はできるだけ日本人労働者に、危険多い坑内労働は先山を除いてできるだけ朝鮮人労働者にさせた。表三は、三つの炭鉱の坑外と坑内の対比であるが、この傾向は戦時中の各炭坑に共通していたのである。表三3 坑内と坑外の日本人と朝鮮人の 労働者の比較(昭和18年6月現存) 炭坑名 坑内 坑外 日本人 朝鮮人 日本人 朝鮮人三菱美唄 2,459 2,216 2,092 93三井美唄 1,294 1,507 1,004 134北炭夕張 2,527 4,793 2,411 635三井砂川 1,840 1,979 1,926 249 前掲『炭鉱に生きる』に収録されている。原典は 「北海道炭鉱統計資料集成」 元タコ部屋で酷使された金善水さんは、「朝鮮で浮浪児のようにブラブラしていたら警察につかまり、いい所につれていってやるといわれて炭鉱に来た。つく迄はどこに行くともなんともいわれなかった。ついた時は、二年たったら国に帰してやるといっていたが、二年たったら、戦争のため石炭を掘らなければ負ける。この戦争に勝つために延期する、といわれた。仕事も危なくて酷い所は組にわたし、良くなった現場は会社にとられた」と語っている。イ 朝鮮人労働者に対する搾取政策「毎朝四時に起床して洗面、点呼を受け飯を掻きこみ便所に行く間もない位追い立てらか、坑内電車に乗って現場まで急ぐ、日が経つにつれて、飯の内容が悪化して、大根飯とか人参飯になって、栄善失調でみるまに仲問は倒れて行った。先山と後山と二人の作業量は、坑道の一番危険な所にまわされているにも拘らず、高さ六尺、幅五尺、長さ十二尺をほり進んでいかなければならなかった。労働時間は平均十二時間で、夜遅くタコ部屋にもどると、雑談ができぬほどつかれきってしまった。」(『目・朝・中国三国人民連帯の歴史と理論』日本朝鮮研究所)「当時は人間扱いされなかった。食べ物についていえば幹部の御飯は米、次は豆を入れた。最後には豆ばかりだった。労働時間は朝四時に起され九時過ぎまでが普通だった。」(金善水氏談)。 これらはまさに奴隷的労働に外ならない。帝国主義者は、朝鮮人労働者を尚一層搾取するために、朝鮮人を手下に使うなど非常に巧妙に支配した。『三笠市史』はこの間の事情を「この人たちは五人ないし十人で一組を編成させ、二級ないし四組をもって一班とし、五班内外をもって一隊を編成させた。一七年からはこの役付者に朝鮮総督府統制会の打合わせに基づく標準に準じて、隊長三十円、班長五円、組長三円の月額賞与を支給して、出稼増産を督励した。」とのべている。当時タコ部屋労働者の一日の賃金は三円十五銭、会社募集の朝鮮人労働者は一日五円であるからかなりな金額であった。 ロ 炭鉱災害と朝鮮人の犠牲者 先に空知の炭鉱で使用した朝鮮人の散をまとめたが、炭鉱の災害で労働者か殺された時は必ず朝鮮人も殺された。美唄関係の坑内事故による主な死亡者数は、三菱 昭和十四年 五名昭和十六年 一七七名 昭和十九年 一〇九名 昭和二〇年 九名 (資料は「炭鉱に生きる」) 最も危険な坑内労働は朝鮮人を使役したのであるから、この内半分は朝鮮人であるはずだが、現在判明しているのは、表四の通りである。表4 朝鮮人の年次別死亡者数 美唄市の三菱・三池炭鉱分大正11年 1 12年 1昭和12年 2 13年 1 15年 4 16年 43 (内ガス爆発32名) 17年 26 18年 31 19年 81(内ガス爆発42名) 20年 13この表は寺の過去帳を調査し,供野が作成したものであるが、組夫関係の葬儀を扱かった一つの寺では,過去帳が紛失していて調 査出来ないので,全部の数ではない。なお幼児の死亡数は除いている。 『炭鉱に生きる』などに引用されている「北海道炭鉱統計資料集成」なども会社報告そのままをのせているから,死亡数も実際よりは少なくなっていることは間違いない。 金善水氏は,昭和19年5月のガス爆発では朝鮮人が殆どだといわれた,石崎組の組夫90名位がガス爆発でみなやられた,とのべているし,仮設火葬場で埋葬した時に立会った人の話では,公表されている骸よりも上回る考死亡数あったことを証言している。 以上の結果から公表数より以上の死亡数、朝鮮人死亡者数も昭和19年には100名近いことが想像される。 美唄周辺の奈井江町では,現在判明分で6名。三笠市では124名となっている。奈井江町では全体のほんの一部である。 ハ 変動の激しい朝鮮人労働者 朝鮮人労働者には、移転の自由など全然なかった。二年契約であったものの、「戦争に勝つまでは」という日本の勝手な理由により、強制労働が続けられた。重労働と差別に耐えられなくなって逃亡するものも少なくなかった。逃亡しようものなら、「朝鮮にいる家族にまで国賊の烙印を捺して差別待遇をするなど、威嚇と懐柔をもって管理した。」のであった。逃亡がもし見つけられたりしようものなら、死を覚悟しなければならかった。まさに命がけの逃亡だったのである。 しかし、危険を犯しても逃亡する者が後を絶たなかった。タコ部屋から逃亡し、見つからずにすんだ金善水氏は、「タコ部屋の生活で何が辛いかと言ったら、殴られた事でも、食う物を与えられなかった事でもない、一番辛かったのは差別だった。『こら半島(朝鮮)、こら猿』といっては足で蹴られ殴られるのは普通だった。怪我をしても炭鉱病院では、タコ用に玄関わきにバラックの特別な小屋を作って、そこで手当をし た。逃げてつかまったら半殺しに合った仲間を何回も見ていて知っていたから、逃げるためには随分研 究した。そして病院に行く時は監視員が手薄なのを発見し、その時に逃げた。動機は〝腹一杯ものがたべたい″〝馬鹿にされたくない″という気持からだった。」と語っている。 朝鮮人の変動の激しさを示すものの一つの例として、『三笠市史』は一つの資料を提供している。坑外労働者が減少したのは、坑内に補充したと考えられるが、坑内、坑外共に減少していることは、事故による死亡、記録に残されないまま闇から闇に葬むり去られたか、逃亡かは今後の調査にまたなければならないにしても、一ヵ月間での変動の激しさは、やはり異常な事態であったといえよう。 炭坑における朝鮮人労働者の反抗と闘争 戦時中の空知における朝鮮人、中国人の強制労働の実態より供野周夫氏著 一部加筆言葉が通じないうえに民族的差別の激しい中で、朝鮮の人々もいつでもただ殴られどおしばかりではなかった。時としては団結し反抗し闘った。しかしそれらには血の弾圧が常だった。空知での朝鮮人労働者の闘争の一、二を紹介すると、大正年間三菱美唄では「日本人と一人の朝鮮人は空車の順番のことで口論となった。しばらく争っていたが、その日本人は炭車の差しピンで朝鮮人の頭をなぐりつけた。なぐられた朝鮮人は倒れてしまった。この争いが知らされるや切羽にいる朝鮮人労働者約四十名は、鶴嘴・スコップを持って駈けつけてきた。日本人労働者達は危険を感じ、当事者をいち早く運搬小屋へ避難させたが、集合した朝鮮人は隠れた小屋の周りを二重に囲んで、当事者を出せと怒鳴った。 この事件はさらに二番方が飯揚で休養中の仲間にも知れ、七、八十人が応援に集った。会社では労務主任を先頭に、四、五人の係員が来て事件の鎮圧に当った。労務主任は演台を作り持場へ戻れと演説をしたが、一向に役に立たず、容易に解散する気配がないばかりか、ますます強く当事者の連れ出しを迫った。会社係員はやむなく坑務所で話をしようと朝鮮人の意に従い、運搬小屋を出た。その後へ朝鮮人がぞろぞろ続いた。坑務所入口までくると、かねてしめし合した如く、当事者と朝鮮人の先頭の四五人を坑務所に入れ、玄関を固く閉めたのである。窓越しに覗く大勢の朝鮮人の前で、中の仲間は腕っ節の強い係員に棒で滅多打ちの制裁を受けた。係員は見せしめのために、これ見よがしに暴力をふるった。その勢いにのまれた戸外の朝鮮人達は誰一人として中に押し入ろうする者もなく唖然と見守っていた。ややあって、労務係はこれらの人たちを引率して作業場へ連れていった。」(『炭鉱に生きる』)。この事件は、労働者が集団で抗議した行動に対して徹底的に弾圧したのであった。 夕張では、集団で砿長交渉を行ない要求項目の一定の獲得という成果を上げた。『夕張市史』はこの様子を次のように述べている。「昭和に入ってからは、夕張砿所属大新抗では増炭を計画し、現場数に比較して多数の朝鮮人労務者を入坑させたため賃金が次第に低下し、労働者は内心不満を抱いていたところ、昭和二年七月二十九日同坑で、朝鮮人坑夫二名が落盤圧死したことが動機となり、低賃金の上他坑より危険が多い、これを改善すべきであるとして、一番方坑夫百二十四名は翌三十日結束して罷行(スト)に入り、賃金値上げ、設備改善の二要求を掲げて同砿事務所に押しかけ砿長と交渉した。 その結果砿長の交渉を入れ、朝鮮人代表金景項外三名を選定し、翌日さらに会社側と接衡を重ねることとして解放した。翌三十一日に会社側では一、現場の人員配置は適当に考慰する。二、賃金は可能の範囲において値上げする。三、設備は連々かに改善する、と回答したので坑夫側もこれに満足して八月一目より全員就業し解決を見た。」とある。 日本人労働者はただこれを傍観するのみであった。民族的差別と重視感が、共同した闘いに発展させるのを妨げていた。朝鮮人の蜂起は、一九三九年と一九四〇年に道内十六カ所で発生しているが、空知の詳細については今のところ資料が手には入らず、正確につかめないのが現状である。今後の調査に待ちたい。コンクリートの中に生き埋めと濁流に呑まれたタク部屋の朝鮮人 戦時中の空知における朝鮮人、中国人の強制労働の実態より供野周夫氏著 一部加筆空知の最北、名寄~深川間の深名線に囲まれるように雨龍ダム、別名朱鞠内湖がある。朝鮮人の生き埋めがあったのはこのダム工事の時であった。雨龍ダムは戦時統制で統合され、現在は北海道電力に入っている。北電の水力発電所の総出力五三万三三六四KW(平時一八万七一三五KW)中約一割の五万一千KW(平時三九三〇KW)の発電量を誇るもので、昭和三年から、およそ十ヵ年の調査時問と約六ヵ年の工事期間をかけて完成した。 ダム建設工事でどのような虐待が行なわれたかを、北海道在日朝鮮人の人権を守る会発行の小冊子弟五集から当時の状況をみると、番場の帳場をしていた某氏は、「あれをやったのは、朝鮮人ダコと日本人ダコですよ。今日は朝鮮人ダコが何人死んだ、昨日何人死んだ、という話は毎日だった。」と述べている。元タコ部屋の労働者ユン・ヨンワン氏が証言している内容を紹介すると、「ダムの高さ三百尺(約90m)そこで組立てする時に上にのぼりそこから落ちたら、死ぬか片輪になるかのどっちかだ。けっして下には降りないで、コンクリートを打ちこんで埋めてしまった。わしら同胞が、本当に何人あそこに埋められたか数え切れない。朝鮮人の飯場ほとんどそうだった。同じ故郷から六人きたが、四人死んで二人残った。その一人もどこへ行ったかわからない。 コンクリートの中に生き埋め、身の毛もよだつようなことが平然として行なわれた。しかも国家権力の庇護のもとに……。 濁流に谷まれたタコ部屋は、美唄市でおきた。昭和十八年九月十一目美唄には八九・〇ミリの集中豪雨が襲った。美浜川上流の谷あいの狭い平地に建てられていた監獄部屋には、約百名近い朝鮮人が、クコとして閉じこめられていた。部屋の幹部は折からの豪雨と洪水で身の危険を感ずるや、我が身だけ部屋から脱出し、その時に厚い戸に外側から鍵をかけ独り裏の山手に逃げた。格子戸から手を出して、助けを叫ぶ「朝鮮人労務者」に目もくれなかった。幾十とかく格子戸から必死に打ちふる手、そして叫び声を、水かさを増した濁流は一瞬のうちに呑みこんでしまった。目撃者のチョソ・イムチン氏は「丁度水がふえてくるのに、自分達(日本人)だけ外に出て、川の様子を見ていたのではないですか。早く開けてやれば裏が山だから逃れたのに。ところが朝鮮人を出せば逃げると思って出さなかったんですよ。あくる日、水がひいてから、人を探しに行っても居る者はなかった。目の前で殺されても、それを見ているだけのものでも言葉ひとつかけることもできなかった……。」 なんという残酷なことか。これらの遺体は寺の過去帳にものらず、結局、闇から闇に葬りさられたのだった。 中国人の炭鉱労働者戦時中の空知における朝鮮人、中国人の強制労働の実態より供野周夫氏著 一部加筆 一九二〇年~一丸三〇年代の日本帝国主義は「世界を征服しようと思えば先ず中国を征服しなければならない。中国を征服しようと思えばまず満蒙を征服しなければならない。満蒙の利益をもとにして全中国の利益を執り、インド、南洋、中小アジア、ヨーロッパを征服する資としよう。」(『歴史教育の扱い方』大村書店)のもとに、いわゆる「満州事変」以来十五年にわたる日本帝国主義の中国侵略戦争中、三光政策による残虐行為がくり返され、中国人氏民千数百万人を殺傷し、さらに中国人三万八千九百三十五人を日本に強判連行し、六千八百三十人を死にいたらしめている。『北炭七十年史』は、その間の事情を「朝鮮人労務者の移入にも限界があったので、華人の使用心やむなしとすることに……当社には合計千二百二十三名が移入された。」とのべている。つまり朝鮮人をさらいつくすだけさらいつくし、なおかつ足りなかったので中国人を攫ってきたのである。 中国人に対する扱いは、人間なみには扱かわれなかった。若干の資料にもとづき当時のようすをみると、「被服は真冬でも薄い肌着一枚に編目の荒い作業服一枚、給食は麦粉入りの野菜粉食をこねたマントウを与え、栄養のとれないところへ量が少なかったので、ほとんどが骸骨のようにやせていた。作業現場の往復は監視付きで、空腹のあまり遺跡に転がっている馬鈴薯や大豆を生のままで口に入れ、甚だしきは草をかじって食べ、坑内の粘土をたべた。」(三菱炭鉱労組発行『炭鉱に生きる』岩波書店) 同様のことは美唄ばかりではなく、芦別でもそうであった。「一粒のよごれた豆でも探しあてて食べれた事実を、私たちは涙なしでは語れない。」と前おきし当時の状況を「戦況はますます不利になりつつあった終戦の年だった。私たちが合宿所で食事をして、食べ残りを窓から投げ捨てると、大勢の華人はわれ先にと争って走って来て、それを拾って食べた。炊事揚の流し場で、水と炭殻の中に沈んでいる米や豆腐を手ですくい上げ、その場で食べている姿も毎目見うけられた。----華人の中には、栄養失調、凍傷などで作業が出来ず、途中で寮に帰る者が、三月~五月にかけて毎日一人や二人は出た。食料・煙草、その他の給与は、稼動成績で差があったと聞いていた。殊に休業すれば半減されたことは言うまでもないことだった。酷寒も二月、三月には、鉱業所には在庫なし、として称して、班長以外には地下足袋を着用させず、藁で作った「ツマゴ」を素足にはかせた。もちろん、足に巻く布さえ与えず、手には、これも藁で作ったものをはめさせていた。(大島常次郎『三井芦別物語』)とのべている。 晩飯も米麦のようなものを与えたのではなく、大根の切り干しを塩で煮たものを茶わんに一杯だけしか与えなかった(三井芦別美唄炭鉱の例)。このような扱いは犬や猫よりも劣っている。しぼるだけしぼり、働けるだけ働かせるというのが独占資本の政策であった。 中国人の強制労働の実態 戦時中の空知における朝鮮人、中国人の強制労働の実態より供野周夫氏著 一部加筆「作業は請負および日役の二本建てで、原則として十時間二交替制をとった。出稼率は八十五・四%で、動作は鈍重であったが誠実に就労し、能率は日本人労務者に比べて七十%程度であった。」(『北炭七十年史』)満足なものを食べさせもしないで、日本人労務者の七割もの能率を上げさせるのであるから、ちょっとでも休もうものなら必ず棍棒の嵐がとんだ。三菱美唄炭鉱で中国人を使役したN氏は「炭車を三人で押させ、それが勤かないとたくさんの中国人が手伝いにくる。すると、そんなもの三人で押せないのかとぶんなぐり、持ち場を離れたと言っては他の中国人をぶん殴った。」と述懐している。『北炭七十年史』は、「華人労務者は長期の戦争に疲弊していたので、入山当時すでに栄養失調に陥り、一般に疾病に対して抵抗力を消耗した者が多かった。------一カ月の休養期間を設けた。」としているが、休養期間といっても体力を回復させるための休養ではなく軍事訓練・作業訓練が主であったことを忘れてはならないし、また採炭や掘り進みなどの重労働はさせなかったと解すべきであろう。さもなければ後にみるような水量の死亡者か出るはずはないであろう。表6 中国人強制連行と死亡者数 計 6,663名 1,717名 この表は日本中国友好協会北海道支部連合会作成、私補中国人 強制連行と死亡の実態 前にも明らかにしたように、中国人に対しては人間並みには扱わなかった。栄養失調や不衛生からくる発疹チフスその他の発病者が続出して死者も居増加の一途をたどった。「不慣れな作業に食事の不足、防寒衣料の配給不足のため凍傷患者か続出し、不衛生からは発疹チフスその他の発病者か続出し……」(『三井芦別炭鉱物語』)「彼らはボロのような衣類をまとい、食糧も極めて悪くて乞食同然の有様であった。昼酌はマソトウ二つであった。血色が悪く、隊を組んでいる姿は、見るもあわれな姿であった。栄養失調から死ぬものも続出し、上砂川火葬場であずかった霊は四十六霊となっているが実際にはもっと死亡者が多かったのではないかと推定される。」(『上砂川町史』)とある。 三菱美唄炭鉱で、ある組の帳場をしていたA氏は「あの当時は随分ひどいことをした。仕事がのろいといってぶんなぐり、リンチで殺したとなったら問題になるのでグッタリとなっているのを飯場においてきた。翌日死んでいても病死になった。」と述懐していたが、これらの諸要因が組み合わされて死亡率四十五%(三井芦別炭鉱川口組)三十五・八%(三井芦別炭鉱)など常識では考えられない数字が並んでいる。 中国人の「俘虜」については、生きている時の虐待、差別だけに終わらず死後においても貫かれた。美唄の三井炭鉱では病死した中国人を火葬場でなく人里離れた山中で火葬にしている。この残酷な扱いは、中国人を人間として扱わなかった一例である。空知全体での中国人の投入は六千六百六十三名、内死亡者は千七百十七名であり、死亡率は二十五%強にものぼっている。この事実に対して酷使した資本の代表はどのような感覚を持っていたか。以下三井美唄炭鉱五代所長西村謙次郎の『想い出の記』なるものを引用しよう。「美唄炭鉱は外人俘虜収容の本部となり、総指揮官として古賀大佐が着任し……彼は古武士的な老人で、俘虜を遇するに所謂日本武士道的温情にて彼らに接した。私の方針も大佐の方針にならって決して残酷な取扱いせぬよう指示し実行した。……」 空いた口がふさがらない、というのはこのようなことを指すのだろう。この回想なるものを、『美唄市史』では無批判にのせ『歌志内市史』では北炭独占の代表者の回想をのせている。歴史を書くものの史観以前の問題をこれらの古史は提起していて興味深い。 3 連帯感の強い中国人労働者 以上みてきたように、中国人労働者に対する扱かいは牛馬にも劣るものであった。中国人労働者の中には八踏軍の影響もかなりあり、帝国主義者と日本人足とを区別して考えていた。中国人民の解放を勝ちとる以前の八踏軍のその感度は非常に教訓的である。 すなわち戦後労働組合づくりの準備をはじめた時、中国人労働者が資金カンパをもって激励にかけつけてきた。「大和寮(中同人寮)書記長の張連栄(八踏軍少尉)は、労働組合の結成に賛意を表し、準備資金にと三百円のカンパを贈った。また準備会には大和室の中国人がコックを連れて激励に来た。……『本国に帰ったら君達のように労働者の解放のためにたたかう』ことを誓い、固い握平かかわされた。」(『炭鉱に生きる』)のである。|帝国主義者の中国侵略戦争に命をかけて戦った日本人民数々、帝国主義者による非人道的な虐待の数々……。この張連栄の行為もプロレタリア国際主流の気高さを示している。 おわりに 空知の炭鉱地帯を中心に、帝国主義、軍国主義というものはどんなに非人間的な残虐性を示すものであるか、また空知の石炭産業を発展させたのはどのような階級の人たちであったかを考えてきた。空知の石炭産業の全発展の行程は、日本人の労働者ばかりではなく、中国人の労働者、わけても朝鮮人の労働者の「哀号、哀号」という血涙の上に成り立っているといっても過言ではない。 この小稿では紙数の関係上、目本の労働者に対する労働強化・搾取の実態についてはふれなかったが「他民族を抑圧するものは自らも自由でない。」というエンゲルスの数えは常に貫徹されていた。 私たちは帝国士族支配下の事実から学び、再び帝国主義・軍国主義復活を許してはならない。そのためにも、もっともっと日本帝国主義の戦争責任、自民族ばかりでなく他氏族に対する内侍の事実を発掘する必要があろう。昨年、一昨年と二年にわたり北教組教研の人権と民族分科会で訴えたが、歴教協会員や他同体の進歩的教師により調査活動が展開し、昨年は一昨年に比較して室蘭と小清水支部から報告宵か提出された。美唄においても、目弁連の強判連行真相調査団が現地調査に来たことも契機の一つとなって、五月には歴教協会員と社会科教師五名がタコ部屋の流失現場を調査し、共同研究の芽生えが出ている。さらに各地域の共同研究に発展することを切に望んで筆をおく。 (北海遊歴教協・小学校)