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2020年06月08日
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話題を追って サハリン抑留現韓国出身者の悲劇(1)

 

 参考資料  『月刊歴史教育』1982・1

       戦後の歴史をめぐって

       三田英彬氏著 一部加筆

 

(前文略)

★ 一九三九(昭和一四)年に「国民徴用令」による大量動員が実施されて以来、実質的な強制連行によって樺太へ渡った人が、四万三〇〇〇人のうちの、少なく見積もって九五パ-セント以上と判断される。むろんそれ以前からの渡島者も少数は存在しだろうが、それは一九二五(大正十四)年来実施されてきた「朝鮮人労働者移入制限」のせいで、きわめて少数に過ぎなかったのだ。

 払自身、先ごろ出したドキュメンタリー『棄てられた三千人―樺太朝鮮人の長く苦しい帰還の道』(三一書房)の中で、「戦前からの自由渡航者は五パ-セント以内くらいであろう」と記してきたが、これはひかえめな数字であり、一~三パ-セントと、資料をつき合わせて見れば推定されそうにも思うものの、確定できないでいる。一九四〇年以来、主として炭鉱労働力として、どっとふえるのである。

 問題点は、最初に一口でいってしまえば、当時の帝国主義日本が、国の都合で連れ出しておきながら、敗戦後原状回復(故郷へ帰すこと)をせず、見棄てたことにあり、責任は日本政府はもとより、戦後「引揚協定」を結んだ米ソにもある。ことに閉ざしているソ連側は日本側と同様に問題だ。また、もはや改めて記すまでもなく、強制連行された人たちのほとんどは、三八度線以南の南部七道すなわち現韓国の出身者だということであった。

 

          日本国の都合で強制的に連行された

 

 いわゆる、『強制連行』は一九三九年に始まっている。もっとも、朝鮮半島内部での移動、北部の植民的重工業建設に連れ出した広い意昧での強制連行はその前からあった。また、日本人による土地の収奪は、主として南部の穀倉地帯がねらわれ、小作農さえできず、食えなくなった農民たちを、低賃金の労働力として吸い上げたのも、日本の独占資本が、第一次世界大戦(一九一四~一八)で漁夫の利を占めて以来であった。

 一九三九年来の『強制連行』は、当時のもっとも重要なエネルギー資源であった石炭業界を先頭に、労働力不足に悩む軍需産業界の強い要請で始まっている。前年に公布された「国家総動員法」が、その強いうしろ楯となった。

日本人の青年が、戦場へ戦場へと召集されていくとき、その穴を埋めるものと期待された一面もあった。

 朝鮮半島では、当初は表向き「徴用」とはせず、企業による集団的「募集」という見せかけであった。しかし実態は、警察権力が加わり、行政府も支援した人狩りであった。面(日本の村にあたる)に、人数の割当てがきたりするのだ。

 一九四二年二月からは、東条内閣によって、「半島人労務各活用に関する方策」が閣議決定され、「官斡旋」と称した強制連行政策が、公然と実施されている。

 一九四一年から、軍関係の徴用は行なわれていたが、四二年一〇月からは、募集した朝鮮人に対し、継続して労働してもらう『再徴用』もあった。このころはもちろん太平洋戦争下のときであり、日本人男子の場合はその多くが召集されて戦地へおもむき、死線をさまよっていた時代である。

 一九四三年四月には「移入朝鮮人労務者の契約期間延長の件」という通達が出され、最初の約束を無視した労働の延長がはかられていく、この年九月には、朝鮮人に対し、一般徴用語令も適用されるようになった。

たとえば現在、六年もの長きにわたって延長進行している略称「樺太裁判」(あとでより詳しく触れる)の原告のひとりは、四三年(昭和十八年)に、慶尚北道から連行されている。その前は農業を営み、妻と四人の子供を抱えた一家の大黒柱であったが、二年という約束で故郷を出たまま、未だに帰郷できないでいる。妻や子供たちは、三十八年というもの再会を待ち侘びているのである。 

 

また一九七一年に、慶尚北道の大邱市で韓栄相氏と「樺太抑留僑胞帰還促進委員会」を結成し、会長として帰還促進運動を始めた勘栄相氏と、私は七六年に束京霞ケ関の弁護士会館で会ったが、そのときにこう話してくれたことがある。

「私が父と別れたのは、一九四三年、私が八歳のときだったですね。私の家は慶尚北道尚州郡尚州邑佳庄里というところにあって、父は日本人の田畑の小作人だったのです。そこへ、巡警が来て徴用令状を見せ、その場で連れ出したのです。まだはっきり覚えてますよ。

私は、オロオロするばかりでしたが、私は『アボジ(父-といっしょに行く)と、泣き叫んで、きかなかったものです。父が三五歳、母が二七歳、弟が三歳のときであった。栄相が外へ出てみたら、近所の家からも男たちが連れ出されていたという。

「巡警がひとりいれば、一つの面(村)は十分守れるといわれたくらい、当時の日本人の巡警はおそろしかったんです。私たちはひどくビクビクしたものです」

とも語ってくれた。

 割当てには関わりなく、とにかく員数をと、大日本労務報国会下関支部が、木刀を手に、一〇人ほどで明け方襲ってはつかまえて、トラックの荷台に追い上げてしまうやり方で、遂行したケースも多かった。

 当時、この下関支部の動員部長だったという吉田清治氏が、私に懺悔をこめて語ってくれたが、草深い村里まで入りこみ、一軒一軒のぞいては、男がいると知れれば、家族の哀願も無視し、反抗すれば木刀でなぐりつけて、連れ出したということである。こうして連行された朝鮮人の数は、日本本土・本土経由南方、樺太、千嶋列島をふくめて、七二万五○○○人とも二〇〇万に達するともいわれている。

 

「米ソ引揚協定」からはずされる

 

樺太では、この人たちは主として炭鉱および軍の飛行場などで働かされた。その労働の実態も、筆舌に尽しがたいほど苛酷なものであった。ボロ雑巾みたいになるまで酷使され、また母国語の使用を禁じられたりもした。

 逃亡は炭鉱、その近くの町、大泊港、函館港と三重四重に監視され、逃亡をはかったのが見つかると、半死半生のヤキを入れられた。

 一九四五年、終戦と同時に、彼らは一応解放されたこととなるが、しばらくは、自分たちがいの一番に帰郷させてもらえるものと、信じていた。

 朝鮮人たちは、四五年の末ごろから、樺太庁所在地の豊原をはじめ、各地で自治組織としての「朝鮮人居留民会」を結成していき、翌四六年五、六月ごろまでに、これを拠点にした人口調査か終える。

それによると樺太在留の朝鮮人の数は約四万三〇〇〇人であった。

 のちに、日本人妻とともに日本へ帰遺し、東京で「樺太抑留帰還韓国人会」を結成し、公民として奔走の日々を過ごすことになる朴魯学氏が、当時「朝鮮人居留民会」に関わっており、この数字は朴魯学氏の口からもたらされたものである。

 その前に、戦時中の一九四四年、制海権をすでに失っていた日本は、樺太の炭鉱のいくつかを閉鎖し、朝鮮人労働者を再徴用の上、九州や北海道の炭鉱へふり向けたケースがあった。その数は一万~一万二〇〇〇人と推定され、さらにソ建軍占領直前に、北海道へ緊急疎開した日本人老幼婦女子の中に、朝鮮人の老幼婦女子約一五〇〇人もまじっていたと推定される。

これらを合計すれば、四四年まではおよそ五万八三〇〇人~六万三〇〇人ほどが、樺太に在住したとみることができた。

 また、終戦後に把握された四万三〇〇〇人は、そのほとんどが強制連行された朝鮮半島南部(現韓国)出身者であり、樺太での居住歴も短かったことから、当時はそのすべてといってもよさそうな数が、故郷=現韓国への帰還を希望していたことであった。

 ソ連側では、占領直後に実施した身分調査により、日本人は従来からのまま日本国籍としたが、朝鮮人に対しては、終戦時現在までの国籍は日本とし、以後は無国籍者として扱った。

 一九四六年一二月には、「ソ連地区引揚米ソ協定」が成立し、第一次の雲仙丸が西海岸の真岡から函館へ向かう。

以来、四九年七月までに、三一万一四五二人の日本人が、函館に上陸したが、この中には千島在住者もふくまれているせいからか、厚生省援護局の統計によれば、二九万二五九〇人となる。

 炭鉱町では、ある日突然、日本人数十世帯が消えてしまう。「あすの×時までに」という急な刻限が指定されて、真岡港に集結すべく、あたふたと去って行く。

 そんな光景を、朝鮮人たちは何回も胸さわぎを覚えながら見送った。いつかは自分たちの順番がくるだろうと、思っていたのだ。だが、いつまで待っても、彼らの番はまわってこなかった

 

ソ連側の民警署の役人にたずねると、

「あんたたちの引揚げは認められていない」

という返事がかえってくる。

「そんなバカな、日本政府が連れ出したのだから、日本政府にはオレたちを帰す責任がある。引揚船をいつかは仕立ててくれるだろう」と、いきまく者もいた。

 米ソが結んだ「引揚協定」には、朝鮮人はふくまれていなかったのだ。

 日本人の引揚げは、GHQに対する日本政府の強い要請で実現されたものであり、当時占領下にあって、外交権はなかったにしても、朝鮮人の引揚げに積極的でなかった日本政府の責任は、指弾されてしかるべきものであった。

 ごく少数が、日本人に仮装することで引揚げることができたが、しかし、中には衝密告されて、引揚列車から引き降ろされたケースもあった。今は根室市に住む曹敬賛氏などは、それでソ連官憲に逮捕され、重労働二年の刑を受けて苦労している。

 こうして元来、先に故郷へ帰されてしかるべきだった人たちは、そのまま樺太に見棄てられた。

一九四八年九月、朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮という)成立後は、ソ連当局や北朝鮮から樺太にに派遣された政治部員が、抑留されている朝鮮人に対し、ソ連国籍や北朝鮮籍を取得するよう、執拗に勧誘するようになった。

 だが故郷へ帰れなくなることをおそれた人たちは、このころはどの国籍を取得することも拒否していた。

 四八年一○月にはソ連が北朝鮮政府を承認し、翌四九年一月にはアメリカが南朝鮮政府を承認し、たがいに自分らこそが全朝鮮唯一の政府であることを宣言していたが、五〇年六月、北朝鮮軍が三八度線を越えて南へ攻め込んだ。朝鮮戦争である。

 北朝鮮籍やソ連籍取得への勧誘はいよいよ激しく、ことに北籍へのそれがすさまじかった。また、無国籍者で頑張り通そうとすれば、職業選択、大学進学、居住地域外への旅行、移転の自由などで、大きな不自由、不利殖を蒙った。

 スターリニズムの没落後は変わってゆくが、それまでは無国籍者は子弟の教育にしても八年制の初等教育までしか受けられないとされ、他方、ソ連国籍取得者はモスクワの大学へ進学させることもできる、北朝鮮籍を選んだ者は、平壌の大学へ進むこともできるのであった。

また無国籍者は、隣町へ行くについてさえ、いちいち民警に出頭して、許可証をもらわねばならなかった。これは願い出ても一週間はかかるのがふつうで、戦前からの居住者で、親の死に目に会えなかったという例があった。

 他方、ソ連籍取得者は、同じ民族の多いタシュケントあたりへ、観光旅行もできたし、北朝鮮籍の者は北朝鮮へ文通もよし、移住も可能、せめて嫁さがしにと出かけることもできた。

 無国籍は何よりも、職業選択の面では下級の仕事をおしつけられることが多かった。彼らよりも能力は低いがしかし、北朝鮮籍だというだけで、仕事の上でも指導者面をされる。それで流血のトラブルの生じたこともあった。

マカロフ(旧知取)訴件などがそうだパルプ工場拡張工事で、北朝鮮籍コムニストが無国籍労働者に過酷なノルマを押しつけたことから起きている。

 こうして、ほとんど無権利状態に追いやられたことから、やむなく北朝鮮籍やソ連籍を取得していく人がふえた。

 だが、帰郷できない、親兄弟や妻子と再会できないことに絶望して、自殺する者も出た。それはかなりな数にのぼっている。

 

混成家族は帰すという血による差別

 

一九五六(昭和三年、「日ソ共同宣言」が調印された。

 こののち、日本人との混成家族(ほとんどは日本人妻の同伴家族)で、なお帰りたいて心で無国籍を貫きとおした人たちにかぎって、帰国が許可された。サハリン全土から四七四世帯約二二〇〇人ほどが帰国できた。

 これは明らかに、民族という血による差別であった。涙もろいはずのときの首相鳩山一郎は、政治的・道義的責任において、当然帰還の道を開いてしかるべき、事実上の韓国人に対し、考えを払わねばならぬことを知らなかった。恥ずべきことであった。

 こんな血による差別には、当然、トラブルも発生した。

 五七年八月には、ユージノ・サハリンスク(豊原)で帰還差別に抗議して、約一万人の現韓国出身者が、座り込みストに近いことをやっている。

 五八年一月に松の内があけて間もなく真岡を出港した引揚船白山丸には五〇〇〇人の韓国人たちに混じって、朴魯学や李義八がいた。彼らは、船内で、「第二次大戦韓国人犠牲者連合会」を結成し、これが上陸後には、「樺太抑留帰還韓国人会」と名称を変え、いまだにオホーツクの霧の彼方に閉ざされたままの同胞たちの救出運動を開始する。

 会長には東京・足立区の都営住宅に落ちついた朴魯学がなった。といっても、日雇い労働者等が多かった会員は、わずかに〇〇円、二〇〇円と会費を出し合っては、細々と、しかしねばり強く運動を続けていくのである。彼らは、日本人の冷たい、蒙昧な世論の壁に突き当たり、日本政府の、責任を自覚しない姿勢に嘆きをもらしながらも根気よく続けた。

 朴魯学は、国交が開かれないまま、互いに消息さえつかめないでいる韓国の留守宅と、サハリン抑留同胞のために、手紙の仲介を思い立った。サハリンの同胞へ、「故郷へ手紙を中継します」と呼びかけ、これが大きな反響を呼んで、サハリンから朴会長宅へ送られる手紙の数が増えはじめた。

 朴は一度開封して、ほんとうに送ってほしい韓国の宛先の住所をたしかめ、そこへ転送する。彼らは、一九六六年一月にいたって、それまでに無国籍、ソ連籍、北朝鮮籍を合わせて、約一三〇〇世帯、五八〇〇余人が、自分たちの会へ帰還申請を嘆願していることを確認し、帰還希望者名簿を作成した。

 これが、韓国内で「東亜日報」紙上に発表されると、その反響、問い合わせがすさまじかった。サハリンに抑留されたままの人たちの血縁者は、一説に五〇万といわれ、「帰してほしい」という世論はいっきに燃え上がった。

 こんな世論に押されて、韓国の安公使が、日本の外務省に帰還問題について力協力か正式に要請してきたことでらあった。

 翌六年一三月現在で、帰還希望者名簿は、さらに、六九二四名とふえた。これは確認されただけの数字である。

彼らには、文盲人がたいへん多かった。また東京に「樺太抑留帰還韓国人会」があって、手紙をとり継ぐということを知らない人も、当然いたはずで、帰還希望者の実数は、もっとはるかに多いはずと推測された。

さらにこの時点でサハリン在の朝鮮人は、北朝鮮籍が七五%、無国籍が一〇%と推定された。歳月が生活の重みをのせて、それだけの変貌をもたらしたのだ。

 韓国への帰還希望者の中には、ソ連籍取得者も北朝鮮籍取得者も、大勢混じっていた。故郷は韓国であり、親子兄弟が待っているからという次第なのである。

 一方、サハリンの大多数の単身者たちの間では、妻が日本人だというだけで、同胞たちの一部が帰国してからは、

アル中が増えた。「オレたちはとうとう棄てられたのか」という絶望感が広まり、うらみをのんで自殺する男がこの時期にも多くなった。

 「日ソ共同宣言」後の、日本人同伴家族として引揚げていく人たちに、足もとにすがりついて、泣いて頼んだ人たち、「樺太からじや、どうにも交渉の方法がないんだ。たのむから、東京へ行ったら、オレたちも帰国できるよう日本政府にたのんでくれ」と、かき口説いた人たちにも、絶望感はジワジワと広がっていった。

 

東京オリンピックの年、一九六四年のこと。一〇月一〇日の開会式では、

ソ連邦からの大代表団も入場し、アナウンサーは、「世界は一つ」などといい合う言葉をしきりに叫んでいる。

 これをサハリンにあって、ラジオのNHKニュースで聞いた現緯国出身者かちは、皮肉な思いを噛みしめていた。

「オレたちは、当然の権利として帰国できるはずなのに、帰れない。東京とサハリンの間はなんと遠いことか。二〇世紀にこんなことが許されていいものか」と思ってしまう。

 こうして多くがひときわ熱心にラジオを聴いていた同じ一〇月のこと、藤山外相が訪ソしたというニュースがとびこんできた。外相藤山愛一郎は、このとき、ソ連国籍を取得していたとしても、日本人との混成家族は日本への帰国を認めるという約束を、モスクワで交わしてくる。どこまでいっても、日本政府は血を問題にしているだけであった。

 こうして、サハリン抑留の現韓国出身者たちは、かつて日本国籍のもとにほとんどが帝国主義日本の都合で、強制連行されたにもかかわらずその原状回復つまりは故郷へ、自分の家に帰ることは、現在も果たされていない。

 

 

 






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最終更新日  2020年06月08日 17時53分20秒
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