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2020年06月08日
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徴用工 中国人の強制連行

 

戦争体制の破綻

 

『太平洋戦争史』5 歴史学研究会編

太平洋戦争 Ⅱ   一部加筆

 

中国人の強制連行

強制連行された中国人のばあいはさらに(朝鮮人より)悲惨であった。1942年11月、東条内閣は閣議で重筋労働部面での労働力不足を補うため、鉱業・荷役業・土木建築業、その他の工場現場に中国人を移入して労働させることを決定した。

これによって中国人の「試験移入」として43年4月より11月までに炭鉱に557名、港湾荷役に863名、計1420名が連行された。さらに東条内閣は44年2月、次官会議で本格的に中国人を移入する方針をたてた。この結果、44年3月から翌年5月までに38,931名が日本に連行された(外務省「華人労務者就労事情調査報告書」『世界1960年5月号「中国人強制連行の記録」による)。これらの中国人は、日本政府の決定にもとづき、現地の日本大使館、軍、汪兆銘[国民政府]が一体となり、労務統制機関(華北労工協会・日華労務協会など)の管理によって狩り集められたものであった。

「行政供出」、「訓練生供出」、「特別供出」、「自由募集」という形式をとってはいるものの、その実態は日本軍の「労工狩り」作戦によって戦闘員でもないのに捕虜とされ、有無をいわさず連行された一般住民がほとんどであった。「自由募集」の場合も、その労働条件をまったく偽ったものだった。そして現地の中国人収容所(日本側は「労工訓練所」と称した)では、非衛生、食糧不足、寒気のため衰弱者や病人が統出し、何の治療もうけぬまま多数の死亡者がでた。そして連行されて乗船された28,935名のうち、わずかの期間に船中で564名が死亡し、日本への上陸後、事業場への到着までに248名が死亡した。これは家畜以下ともいえる待遇によるものであった。さらに残りの中国人も極端な衰弱で労働不能の状況にあったが、すぐに鉱山・建築現場・港湾荷役に配置され、重労働に従事させられた。各事業場の管理には警察が大きな役割をもった。警察は管理の方針として、「親切にすればするほど助長するを以て親切心或いは愛撫の必要なし」、「宿舎は座して頭上二、三寸空ければ良し」、「入浴の設置は被征服者が征服者をもてなすという支那の観念があるから必要なし」、「外出は一切認めざること」といった(釜石警察署の場合)非人間的な態度で対処した。宿舎は高圧線が張られ、食事は一食にマントウ一個という有様だった。荷重な重筋肉労働に耐えきれず、外務省の集計でも事業所到着後三カ月以内に、2282名が死亡し、3ヵ月以後3717名の死者がでた。このうちには、何の手当もうけず病死した者も多かったが、警察官や労務係の暴行で殺害されたばあいも少なくなかった。

 この様につねに生存の危機に瀕し、軍事監獄的な労働条件のなかにあった朝鮮人・中国人労働者は、困難な条件のもとで個別的な逃亡やさらには集団的蜂起までをも含めて、ぎりぎりの抵抗をおこなった。

39年から45年3月までの連行朝鮮人のうち22万余名が逃亡したといわれているし(朴慶植書)、中国人の逃亡も絶えず、軍需生産にあたえた影響も多かった。

 

45年6月、秋田県花岡の鹿島組出張所の連行中国人が蜂起した。外務省の記録では、44年7月以来花岡には986名の中国人が配置された。彼らは、虐待と苦役と飢餓とのために、45年6月までに137人が死亡した。この死亡者は、餓死・栄養失調死、ほかに日本人監視による殴打・拷問によって殺害された者が多かった。6月30日、残った数百人の中国人は、生命の恐怖にかられて栄養失調の身体を駆って、集団逃亡をおこなった。その際日本人監督4人と監視員四人と中国人スパイ一人を殺した。しかし、逃亡は失敗し、全員が逮捕され、花岡町の映画館前の広場に縛られたまま坐らされて3日間にわたって徹底的に殴打され、多数がその場で殴り殺された。花岡における死者は418名に達している(中国人強副連行事件資料編纂委員会「草の墓標」)。

 逃亡や抵抗には、失敗すれば日本側の残虐な報復行為が待ち受けていたが、この動きはなくならず、日本の敗戦勅後の鉱山を中心とする朝鮮人・中国人の集団的な蜂起をもたらすのである。

 外務省調査による中国人連行者は、38,935人、うち死亡者6,830人となっている。この中国と朝鮮の人民にくわえられた虐待は、同時に日本国内の人民抑圧の強化のための手段でもあった。

 

思想・文化の統制 世論指導の方針  

 

『太平洋戦争史』5 歴史学研究会編

太平洋戦争 Ⅱ   一部加筆

 

国民の戦争支持熱に低下のきざしがみえはじめた1942年11月、情報局は、開戦直後制定した「大東亜戦争に伴う情報宣伝方策大綱」にもとづく世論指導の根本方針をひき続き堅持しながらも、現段階に即応する世論指導方針を改めて確定した。その理由は、[緒戦の赫々たる戦果に依り国民の一部には早くも戦争の前途に対する安易感を生じ士気弛緩の色見え、国防生産力は低下し国民貯蓄また鈍化する兆しを示」したからであった。とくに力点の部分は、官庁首脳部と取締り当局の参考として「腹中に蔵すべきもの]と取扱い上の注意を付けている。そして現段階に即応する世論指導の方針として、

「必勝の信念に動揺を来さしめざる限度に於いて戦争に対する国民の安易感を是正し挙国国難に赴くの気恨を一別振起せしむ」ることであるとした(旧陸海軍文書マイクロフイルム)。

 右に述べた情報局の世論指導方針のもとで、国民は、1942年6月から翌43年2月にかけて、ミッドウェー海戦での敗北、ガダルカナル島からの撤退、ニューギニア諸島での全滅という南方戦線における重大な戦局の転換の真相を知らされることなく、陸海軍報述部とこれに指導されたマス・コミの流す勝利の情報だけをあたえられていた。

 

ガダルカナル島から日本軍を撤退させた43年2月、陸軍省は「撃ちてし止まむ」という決戦標語のポスターを「銃後の国民」に配布して「挙国一致」して国雄にあたる決意を喚起した。同年、大日本婦人会は、「決戦です!!すぐお袖をきって下さい」というビラを街頭でくばり、3,000万婦人の武装をよびかけ、近衛師団に一日入営をおこなった。六月には、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議で決定され、学生による本土防衛に備えて軍事訓練と勤労動員を法制化するとともに、12月から第一回の学徒兵が入営し、ついで戦場にかりだされていった。

 

 決戦体制下の出版統制

 

  戦局の悪化とともに、政府は、思想・文化の統制をいっそう徹底し、戦争にたいする国民の批判や疑問を些かも許さない態度でのぞんだ。

 43年2月、国家総動員法にもとづき出版事業令が勅令として公布された。これにより出版事業主にたいし、事業の譲渡・譲受、会社の合併、事業の廃止または休止を命ずる権限は首相および内相にあたえられた。同時に出版事業の総合的統制運営をはかり、出版事業に関する国策の立案および遂行に協力することを目的とする団体の設立を命令することができるようになった。同令にもとづいて、内閣は、日本出版文化協会を解散させ、3月、統制団体として特殊法人日本出版会を設立した。

さらに情報局・内務省は、日本出版会にたいし企業整愉についての通牒を発し、43年12月から翌年春にかけて、出版社の統合整理を強力に推し進めた。政府の戦争遂行政策に積極的に協力しなかった中央

公論社と改造社にたいして、「戦時下図民の思想指導上許しがたい事実がある」という理由で、「自発的廃業」を指示し、解散させた。こうして、国家権力による出版界の企業整理は、このころ完成した(法政大学太原社会問題研究所編『太平洋戦争下の労働運動。』)

 43年3月以来、英語による雑誌名の使用が禁止され、長いあいだ国民に親しまれていた大全娯楽雑話「キング」は『富士』に、『オール読物』は『文芸読物』というように改題させられた。

敗戦の色が濃厚となった1945年6月、日本出版会は出版非常措置要綱を発表し、従来の実績による用紙の割当を停止し、国防軍事・軍事生産・食糧増産・啓発宣伝など、戦時生活に必要な出版物のなかでとくに重要と判断されたもののみに用紙の特別割当をおこなうことになった。この制度により、開戦時

の41年に普通出版物の発行点数は29,204(うち単行本17,936)であったのが、45年には878(単行本875)に激減した。こうして出版界はほとんど麻痺状態におちいっていたのである。このような状態の中で、「出版報国団」に集まった出版関係者は、当時「紙の弾丸」といわれた紙を獲得るために、関係当局の軍人や官僚に取入ることに狂奔した(萱原宏『私の大衆文壇史』)。

 出版物の量にたいする制限のみならず、内容においても内務省警保局長名で「安寧秩序維持」に触れる当日を列挙した発売禁止通達書を公表するとともに、後述する横浜事件などにみられるような編集者にたいする弾圧によって、国策に副わない内容を厳しく取り締まった

 

新聞の軍国化
       

世論形成の重願な一翼を担っていた新聞にたいする国家権力による統制も、いっそう苛酷となった。

1943年1月1日の『朝日新聞』朝刊に載った中野正剛の「戦時宰相論」が、東条首相を批判するものであるという理由で、同紙は発売禁止処分を受けた。44年2月、『毎日新聞』の海軍担当記者であった新名丈夫は、同級一面をつかって、「竹槍では戦争に勝てぬ」と四段ぬきの大見出しで、「南方の決戦海面に飛行機を送れ」と書き、本土に米軍を上陸させ、国民に竹槍で迎え討たせようという東条首相を暗に批判したため、東条の激怒をまねき、新聞は差しおさえられ、東条の直接厳命で、新名は丸亀連隊に懲罰

召集させられた(大谷敬二郎『昭和憲兵史』)。

 同年3月、全国の糾問は夕刊を廃止し、11月には朝刊も2ページに縮小された。この年、情報局総裁は、「国策の綴に沿い輿論指導対外宣伝の効果を挙げしむるためには、その公共性を益々完全にし、国家統制国家意思の浸透を完璧にせねばならぬ」ため、新聞における資本と経営を完全に分離し、新聞をして名実と心に「天下の公器」とするため、新聞統制会を徹底的かつ根本的に強化して、国家権力が直接に新聞の性格、運営の決定権を完全に掌握するよう特殊法人日本新聞営団の設立を構想している(旧陸海軍関係文書マイクロ・フィルム)。この構想にもとづいて、45年3月、日本新聞会は解散し、日本新聞公社が設立された。同月、閣議において「新聞非常態勢暫定措置」が決定され、県紙に移入中央紙を合同し、紙面の全国的画一化がはかられた。’

 

国民娯楽の統制 
 

文化の統制は大衆娯楽にまでおよんだ。1942年3月「戦時下国民娯楽に対する措置」が出され、映画・演劇・演芸・音楽等にたいする取締り指示がおこなわれた。

 大衆娯楽の王座を占めていた映画にたいしては、すでに情報局・内務省のもとで、国策映画、敵愾高揚映画の製作が直接指導され、国民の反戦・厭戦思想を助長するような映画にたいしてきびしい検閲がおこなわれた。ことに青少年にたいして、時局の認識をたかめ、戦争を直視させ、戦時意識を明確にさせるための映画教育が重視された(『青少年指導』43年5月号)。44年1月、大日本映画協会が改組され、製

作・配給・興行の一貫的な統制機関として強化されて、45年6月、映画公社が設立された。

 演劇・演芸にたいしては、44年2月、閣議で「決戦非常措置要綱」が決定され、その第7項「高級享の停止」にもとづき、東京・大阪の歌舞伎座、京都の南座などの大劇揚が休場となった。3月には松竹少女歌劇団は解散し、松竹芸能本部女子挺身隊と変わった。また同月、宝塚歌劇団も休演となった。その最終日には、ファンが殺到し、警官隊が技刀して整理にあたるという事態が生じた。四月、第二次決戦非常措置令により、演劇興行時間は2時間半、映画は1時間40分(平日3回、日曜日4回)に制限され、密集地帯の激場・映画館は整理を命じられた。

 音楽にたいしては、43年1月、内務省・情報局は、ジャズなど米英楽曲約一千種の演奏を禁止した。

8月、情報局は交響楽団の演奏曲目にかならず邦人作品を加える事を指示した。翌44年4月、スチ-ルギター・バンジョ-・ウクレレ・ジャズ用打楽器などの米国型楽器編成の楽団と楽器の使用が禁止された。音楽は、日本の民族の血につながる曲を中心に教授し、音楽をとおして「惟神の道を顕現し、戦争目的の達成、日本精神の高揚に、奉公」するための音楽教育が強調された(『愛知教育』42年12月号)。

 42年7月、大政翼賛会主催の「みたみわれ」発表国民音楽会が日比谷公会堂で開かれ、音楽移動報告挺身隊が結成されて、この歌を中心に国民歌唱運動が展開された。

 






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最終更新日  2020年06月08日 17時57分38秒
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