カテゴリ:俳諧資料室
延宝4年 丙辰 1676 素堂、35才 芭蕉33歳
素堂 三月、桃青(芭蕉)・信章(素堂)『江戸両吟集』 其の一 1 此梅に牛も初音と啼つべし 桃青 2 ましてや蛙人間の作 信章 3 はる雨のかるうしやれたる世の中に ヽ 4 酢味噌まじりの野邊の下萌 青 5 すり鉢にわか紫のする衣 ヽ 6 むかし働の男ありけり 章 7 胝のひらけかゝりし空の月 ヽ 8 爪立てゆく足曵の山 青 9 五寸ほど手のとゞかざる哥の道 章 10 ひとかひあまり住よしの松 青 11 淡路島仕形ばなしのよそに見て 章 12 友呼ぶ千どり笑ひ聲なる 青 13 青鷺の又白鷺の權之丞 章 14 森のした風木葉六ぱう 青 15 眞葛原踏れて這て迯にけり 章 16 虫啼までにむごうなびかん 青 17 戀の秋爰にたとへの有ぞとよ 章 18 吉祥天女もこれ程の月 青 19 あつらへの瓔珞かゝる山かづら 章 20 松の嵐の響く耳たぶ 青 21 大黒の袋は花にほころびて 章 22 霞にもろき天竺の衣 ヽ 23 今朝の雪貧女一文が糊を解く 青 24 風進退を削る竹へら 章 25 臍の緒を吉原通ひ切れ果て 青 26 かみなりの太鼓うらめしの中 章 27 地にあらば石臼なとゝちかひてし 青 28 末の松山莖漬の水 章 29 千賀の浦しほがま居て場の隅 青 30 雪隠さびて見えわたる哉 章 31 たまさかにことゝふ物は下駄の音 青 32 なを山ふかく入し水風呂 章 33 よしやよしこぬか袋の濁る世に 青 34 千里をかける馬士はあれども 章 馬士=マゴ 35 西の月見ぬ六道の札の辻 青 36 えんまの町く引わたす霧 章 えんま=焔麻 37 煩悩の本網中づな末の露 青 38 人足あれば山姥もあり 章 39 谷の戸をたゝき起して触流し 青 40 諸鳥の小頭うぐひすのこゑ 章 41 花をふんですゝめは千の歩行の衆 青 歩行=カチ 42 上野下屋の竹のはるかぜ 章 (浅草) 43 鍔目貫朝の霜に朽はてゝ 青 44 鎧は毛ぎれ虫は音をいれ 章 45 ことあらばやせたれどあの華薄 青 46 もゝとせの飢餓も人數の月 章 47 大無盡世尊を親に取立て 青 48 公儀の掟はのがれ給はず 章 49 土も木も三間ばりに野づら石 青 (石も)(ばかり) 50 此山ひとつ隠居料にと 〃 51 富士の嶽いたゞく雪を剃こぼし 章 (峰) 52 人穴ふかきはや桶の底 青 53 蝙蝠や三角の紙の散まよふ 章 54 山椒つぶや胡椒なるらん 青 55 小枕やころくふし引たふしは 章 56 臺所より下女のよびこゑ 青 57 通路の二階はすこし遠けれど 章 58 かしこは揚屋高砂の松 青 59 とりなりを長柄の橋もつくる也 章 (らむ) 60 能因法師若衆のとき 青 (御若衆) 61 照つけて色の黒きや侘つらん 章 (けらん) 62 わたもちのみいら眼前の月 青 わた=腸 63 飢饉年よはり果ぬる秋のくれ 章 64 多くは傷寒荻の上風 青 65 一葉づゝ柳の髪や禿ぬらん 章 (宛) 66 これも虚空にはひくげじく 青 (這し蚰) 67 判官の身はうき雲のさだめなき 章 68 時雨ふり置むかし浄瑠璃 青 69 おもくれたらうさいかたばち山端に 章 70 松ふく風や風呂屋ものなる 青 71 君爰にもみの二布の下紅葉 章 (紅) 72 契りそ秋は産妻なりけり 青 73 月すごく草履のはなを中絶て 章 74 河内の國へかよふ飛石 青 75 四畳半くづ屋の里の浦近く 章 76 浪に芦がきつかまつつたり 青 (蘆墻仕) 77 時は花入江の雁の中歸り 章 78 やはら一流松に藤まき 〃 79 いでさらば魔法に春をとめて見よ 青 80 七リン響く入相のかね 章 81 藥鍋三井の古寺汲あけて 青 82 落させられし宮のうち疵 章 83 階の九ツ目より八ツ目より 青 階=キザハシ 84 湯立の釜に置合せあり 章 85 既に神にじりあがらせ給ひけり 青 86 白髭殿は御年よられて 章 87 つくぐと向にたてる鏡山 青 88 わけ入ル部屋は小野の細みち 章 89 忍ぶ夜は狐の穴にまよふらん 青 90 あぶらに揚しねづなきの聲 章 91 唐人も夕の月にうかれ出て 青 92 古文眞實氣のつまる秋 章 93 酒の露たはけ起って白雲飛ブ 青 94 天狗どふしや人のたふれや 章 たふれ=倒 95 ねのよわき杉の大木大問屋 青 96 跡をひかへて糸荷より来る 章 97 秤にて日本の知恵や懸ぬらん 青 98 霰の玉をつらぬかれけり 章 99 花にわりご麓の里は十團子 青 100 日坂こゆれば峰のさわらび 章
其の二 1 梅の風俳諧諸国にさかむなり 信章 2 こちとうづれも此時の春 桃青 3 さやりんす霞のきぬの袖はえて ヽ 4 けんやくしらぬ心のどけき 章 5 してこゝに中頃公方おはします ヽ 6 かたぢの雲のはげてさひしき 青 7 海見えて筆の雫に月すこし ヽ 8 趣向うかべる船の朝霧 章 9 いかに漁翁こゝろえたるか秋の風 青 10 實に土用也あまの羽衣 章 實=ゲ 11 うつ蝉もよし野の山に琴ひきて 青 12 青有らしふくひとよぎりふく 章 13 松杉の木間の庵京ばなれ 青 14 糞擔桶きよし村雨の宿 章 糞擔桶=コエタゴ 15 夕陽に牛ひき帰る遠の雲 青 16 老子のすがた山の端がくれ 章 17 寓言のむかしの落葉かき捨て 青 18 桐壺はゝ木々しめぢ初茸 章 19 鍋の露夕の煙すみやかに 青 20 釘五六升こけらもる月 章 21 古里のふるがねの聲花散て 青 22 志賀山の松ふゐとふく風 ヽ 23 さゞなみや二蔵か袖にさえかへり 章 24 あかゞり洗ふあし原のすゑ 青 25 ある説に泡のかたまる石一ツ 章 26 玉子ぼ前やうちくがく覧 青 27 傳聞く唐のやうかんかすていら 章 28 上碧落より下は杉折 青 29 付うどのたとひ千尋の底までも 章 30 親類分はのがれがたしや 青 31 世間に大名あれば町人あり 章 32 柳は緑かけは取がち 青 33 古帳の横點を引朝霞 章 34 火鉢をはりし氷ながるゝ 青 35 かねのあみかゝれとてしも浪の月 章 36 河童のいけどり秋をかなしむ 〃 37 うそばなし聞ばそなたは萩の聲 青 38 地ごくのゆふべさうもあらうか 章 39 飛螢水はかへつてもえあがり 青 40 熊手鳶口瀬田の長はし 章 41 釣瓶取龍宮までも捜ぬらん 青 42 龜はたちまち下女にあらはれ 章 43 老鶴の隠居さまへの御使に 青 44 白むくそへて栗五十石 章 45 田舎寺跡とぶらひてたび給へ 青 46 ぬるい若衆も夢の秋風 章 47 床は海朝鮮人のねやの月 青 48 虎の毛ごろも別行露 〃 49 くろがねの築地の崩花をふんで 章 50 草もえあがる秦の虫くそ 青 51 朝霞徐福が贋のうり藥 章 52 まづ壺ひとつ乾坤の外 青 53 瀬戸の土金輪際より掘ぬきて 章 54 辨財天に鯰さゝぐる 青 55 かまぼこの鹽ならぬ海このところ 章 56 その夜は不二に足打の山 青 57 かんな屑たいまつはつとふりあげて 章 58 見よく成佛はきだめの虫 青 59 鶏の御齋を申今朝の月 章 御齋=オトギ 60 龍田の紅葉豆腐四五丁 青 61 むら時雨衆道ぐるひの二道に 章 62 人死の戀風さはぐなり 青 63 大火事を袖行水にふせぎかね 章 64 やうくこゆる土手の松山 〃 65 日本橋ちんば馬にて踏ならし 青 66 方々見せうぞ佐野の源助 章 67 かいつかみはねうち拂ふ雪の暮 青 68 鷺はかへつて鳶となりけり 章 69 浪に聲芦にものいふ世の中に 青 70 何とて松はすねて見ゆらん 章 71 薄柿ととも茶ともわからぬ峰の雪 青 72 浅間の土を燒歸しゝて 章 73 物語伊勢白粉とよまれたら 青 白粉=オシロイ 74 平家の秋に〓あれ行 章 〓=ニキビ 75 剃刀も内持所も水の月 青 76 のうれんかけしとこやみの霧 章 77 衣屋も既に彌勒の花待て 青 78 かねの御嶽を両替の春 〃 79 岩橋のりんとかけたる一かすみ 章 80 天につらぬく虹のつゝばり 青 81 その四隅多門は手木を横たへて 章 82 日傭の札に悪魔おさむる 青 83 獨過都鄙安全になすべしと 章 84 慈悲はかみよりさがる米の直 青 直=ネ 85 人として思はざらんや親の五器 章 86 願によつて雪の竹箸 青 87 いきの松ひねり艾葉ののる迄も 章 艾葉=モグサ 88 気根の色を小謠に見す 青 89 朝より庭訓今川童子教 章 90 さてこなたには二條喜右衛門 青 91 宿の月城を弓手に肘曲り 章 92 後陣はいまだ横町の露 青 93 上々新蕎麦面もふらず切て出 章 94 大根の情たちかくれけり 青 95 終夜此本草を読誦する 章 終夜=ヨモスガラ 96 南無いき藥師如来迎の時 青 97 紫の蛸は雪路にはひ出て 章 98 とがり矢二筋まなばしの先 青 99 軍は花追手勝手をもみ合 章 100 其勢何百きさらぎの巻 青 (『日本俳書体系』「芭蕉一代集」による)
『江戸両吟集』 桃青時代、山口信章(後素堂)と両吟にて菅神奉納の二百韵を試み、延宝四年春三月『江戸両吟集』の標題にて開板せるものである。後、延享四年(1747)一浮齋盛水「芭蕉素堂両聲たる梅花の韻は亡父一葉一永が古文庫より出たり」とて此一巻を「梅の牛」の題名としたものが世に行なわれる。『江戸両吟集』は今その所在を知らず、文政四年(1821)三月柳亭種彦が古板本より筆写せるもの、並に『奉納貳百韵』と題せる別写本を本文とし「梅の牛」及び「一葉集」と對校した。(「芭蕉一代集」『日本俳書大系』所収。
『江戸両吟集』の解説 『素堂の俳諧一』「談林の時代」清水茂夫氏著 54 山椒つぶや胡椒なるらん 桃青 55 小枕やころころぶしは引きたふしは 信章 56 台所より下女の呼び声 桃青 57 通ひ路の二階は少し遠けれど 信章 58 かしこは揚屋高砂の松 桃青 (江戸両吟集 此の梅にの巻) 55、の信章の附句の「小枕」は女の髦の根に入れる木で、小さく円い形をしたものである。「ころころぶし」は前句の山椒を受け、俗に「ころり山椒味噌」という浮世草子などに見える慣用句によっている。一句は女の髪の小枕をあげ、髪も乱れて小枕ころころころぶ様に女のころくころび臥す様を懸け、続いて引たふしはと男の女を引き倒す様を表わしている。女の臥す様、男の引き倒す様は前句の山椒粒や胡椒粒が散乱した状態にも比すべきであろうと前句に応じている。 56・ 57・58の句も場面は異なっているが、全く庶民的な愛欲の様相を露 骨に表現しているのであって、人間自然の愛欲を肯定し、それへの賛歌が端的 に歌われていると言えよう。云々。 〔素堂余話〕 …素堂と芭蕉の関係は、芭蕉が没する元禄七年まで約二十年間続き、二人三脚の活躍は、当世の俳諧をリ-ドした。芭蕉に視点を合わせれば芭蕉が中心になるが、素堂を中心にしても自然である。芭蕉が提唱したと云われる「不易流行」説は、素堂が芭蕉に先がけていち早く提唱していることは、『続虚栗』(貞享四年)の序文中に明確である。
『国文学』「芭蕉の軌跡」。市井の俳諧師時代、信章との風交、〔絶妙の二人三脚〕広田二郎氏著(昭和54年10月号P30~36) (前略)連句に於て、桃青(芭蕉)と信章(素堂・来雪)が最も個性を発揮し、力量を出し尽くすことが出来たのは、両人の組み合わせよる興行の場においてであった。それは絶妙の二人三脚と称すべきものであった。
『国文学』「芭蕉の軌跡」桃青三百韻、立机前後の自信作 阿倍正美氏著(昭和54年10月号P44~50) (略)しかし貞享・元禄と時代が住むにつれて、信徳と桃青の距離は大きくなるばかりであった。『去来抄』先師評の記述によると、「大歳をおもへば歳の敵哉」の発句の初五を、信徳が「恋桜と置べし。花は騒人のおもふ事切也」といったのに対して、芭蕉は「そこらは信徳がしる処にあらず」と言い放っている。また、信章とのつき合いは晩年まで親密であったが、俳諧に関しては所詮ディレッタントの彼が、芭蕉の変風に追随し得たのも精々が貞享期までで、あとは結局芭蕉の独性の世界になって行った。晩年の芭蕉も、この二人の上に思いをはせる時、うたた今昔の感に堪えなかったのではあるまいか。
『江戸両吟集』「梅の風」二の表の七句目 (『芭蕉の研究』小宮豊隆氏著 昭和二十一年刊) 玉子の前やうちくだく覧 桃青 傳聞唐のやうかんかすていら 信章 この素堂の附句は、純粋に談林的なもので、談林を離れれば、いくら好意をもってよく見ようとしても、到底よく見やうのない句である。その点では前に触れた芭蕉の句とは大分趣を異にする。此所にはかすていらの實感から来た何ものも存在しない。云々
『江戸三吟集』「いかのぼり」の巻、初裏の十二句目と十三句目とは、 夕間暮小風呂に流す水の月 信徳 木綿ざらさの紅葉かたしく 桃青 花に風荒木珍太をあたゝめて 信章 芭蕉は此所で、月に對して紅葉を點出し、夕間暮に應じてかたしくと附ける。さうしてその紅葉を形容する為に、瓜哇更沙の模様と色彩を採用してゐるのである。 素堂の附句は、初裏の十三句目は、花の座になってゐる。従って此所に是が非でも花を詠み込まなければならない。然も前句までの三句はずうつと秋が続いて来ているから、リアルな花に此所に持ち出して前句と矛盾の感を起させない為には-或意味で非凡な力量を要する。素堂はそれを「花に風」といふやうな、具體とも抽象ともつかない、甚だ朦朧とした言葉で、朦朧と解決して、更に「荒木珍太」なるものを し来つて木綿ざらさに對照させ、更にそれを「あたゝめ」るといふ事によつて、紅葉をかたしくに呼應させた。これは談林の附句としては、申分のない附合である。荒木はアラキで瓜哇の産物で酒で、珍太は赤葡萄酒である。云々 (頁-240~242)
『芭蕉全伝』山崎藤吉氏著。昭和十七年刊。 (略)芭蕉が新俳を興し得たのは、山口素堂の助力に負う所が多い。芭蕉は延宝四年に信章(素堂)と『江戸両吟』をしてから以来、素堂の助力を受けて居ることが極めて多い、新律の代表句の「枯れ枝」の吟の脇句も亦素堂が承って居た。 素堂自身は斯う言うて居た。芭蕉庵俗名甚七郎、都の季吟の門に入り、久しく東武に潜り給ひ、俳諧の深き心を学び、正風の俳諧起るの祖なり、予(素堂)叟(芭蕉)と共に友とし猶與力すといへども、九つは是を助けられ、一つは之を補ふのみ。 とて、少し計り助力したと言って居るが、素堂の此の謙遜の詞の中に、猶多く芭蕉を援けて、新俳を興すに努力したことが窺はれる。 寛文の頃、貞徳門の中で、他に擢んでて清新の句作ををした人に松井維舟がある。 素堂は維舟と交際が有ったといふことである。其為であろう、素堂も亦早くから新俳を起こすことを心がけて居たものである。(中略) 芭蕉が世に認められようになった内面の助力は、素堂の親交ぶりの厚さに頼ったものといっても過言ではない、夫れで芭蕉は素堂を「先生」と呼んだ。芭蕉が新俳を興した裏面には、斯くまで素堂の助力に頼っているのに、卓郎は、芭蕉が正風を興すことを勧めたのは季吟であると言って居た。云々 一説に三叟閑談といふのがある。三叟とは季吟・素堂・芭蕉の三人である。此山陰が相談して、芭蕉に新俳を興させたといふのである。其閑談を左に、梅翁(宗因)なんど、談林の棟梁として、枝に生疵絶えなんだの最中に侍りしを、季吟もなげかしがられ、桃青・素堂と閑談有り、今の俳諧うち和らぐるかたもやと、三叟神丹を練て、桃青其器にあたる人とおして勧められしにより、然らば斯くの趣にやと、枯枝に烏のとまりけり秋の暮、の一句を定められし。とある、かゝる説は信じられるものではない。素堂が援助したことを、向を變へて甘く作ったものとしか思われない。又梅人は、素堂と杉風と芭蕉の三人が、芭蕉庵で新風を建設したものだと言って居た。何れも皆よい加減の推測であろう。 『俳諧芭蕉談』に素堂の傳ふる所だとて、季吟の物語を掲げて居た。左に、或時桃青予に語るらく、萬葉集を周覧せしに、全篇諸兄卿の運給ひたるのとは見えず、多くは其人々の家の集を、後に寄せ集めたるものと見ゆとなり。此事予が見識の及ぶ所にあらず、桃青がいふ事を聞てより、大に利を得たり。 (中略)素堂と季吟は江戸で面会して居ないから、右の話を季吟の話だと素堂が傳へたことは、有り得ない事だと言って居る。素堂が江戸で季吟に会ったか会はないか判らないが、芭蕉が萬葉集の或部分に疑ひを掛けたといふ話は、誰もが真面目で相手にしない位偽説だと見られて居る。 『芭蕉の全貌』「第四章、芭蕉の江戸下り」萩原蘿月氏著。 (略)例へば五月雨や龍頭あぐる、梢よりあだに落ちけり、雨の日や世間の秋、阿蘭陀も花に来にけり、花むくげ裸童、枯枝に烏、雪の朝獨るなどといふ句は、慥かに前時代の言語遊戯の句に比して一進歩であると思ふ。中にも枯枝に烏の句は、古来茶話口傳の句として尊重された。此句は言水の『東日記』中の句で、後元禄二年の『廣野』に、中七字をとまりけりと改訂して出した。 茶話口傳とは吏登の『或問珍』(享保十七年刊)に、梅翁なんど、談林の棟梁として、枝に生疵絶えなんだの最中に侍りしを、季吟も嘆かしがられ、桃青・素堂と閑談ありて、今の俳諧和らぐる方もやと、三叟神丹を練て、桃青其器にあたる人とおして勧められしにより、然らば斯くの趣にもやと、枯枝に烏のとまりけり秋の暮、の一句を定められし。是を茶話の傳と申すなり。云々 なほ蓼太の『芭蕉翁句解』にも、この句は季吟・芭蕉・素堂一派、新派の茶話口傳の一章なり。云々 素丸の『説叢大全』には之を難じて、季吟・芭蕉・素堂新立の茶話口傳といふ事いぶかし。素堂と季吟との對面はなき事なり。黒露に聞きしが是も右の如く答へし。季吟俳諧を業とする時はいまだに洛に住す。関東へ召さるゝ節は、芭蕉に俳諧をゆづりて、其身は歌學を専として、俳諧を捨てたり。季吟と芭蕉は師弟の事なれば、口傳の茶話もありたるなるべし。素堂江戸深川に居て、何ぞ是にあづからんや。思ふに、翁江戸に来りて、素堂と隣家たり。なほ風雅に交わる。よって此句の相談もありて、正風體一派新派の誓盟あり。云々 とある。季吟と素堂の對面なき事は素丸の説のようであるが、芭蕉と素堂が相談して、此句によって正風體一派新派の誓盟があったなどといふ説は信じられない。云々 季吟と俳諧 ……『武蔵曲』 千春編 天和二年(1682) 序 『俳諧勧進牒』 路通編 元禄四年(1691) 其角参會のとき 目をしやれよ花はしほれたる庭なと 季吟
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最終更新日
2020年06月10日 16時04分08秒
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