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2020年06月11日
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カテゴリ:武川衆資料室

武川衆 『甲斐国志』「巻之百十三」

 

武田石和五郎信光の末男、六郎信長と云う者、忠頼の家蹟を継いで一条氏と号す。其子八郎信経「東鑑」にも見えている。

信経ノ男時信、一条源八とし甲斐の守護職に任ぜられる。男子十数輩あり、武川筋の村里に分村し各々其地名を氏号とする。子孫は繁栄して世に「武川衆」と呼ばれる。  

時信は元亨元年(一三二一)正月廿七日卒する。法諱 仏阿弥陀仏、府中一蓮寺の大旦那なり(当寺の過去帳は元亨の頃より慶長に至り、武川衆を多く載せてあるけれども、剥落虫損或は氏ばかりあって其名全て書いてない者は記さない。

(甲陽)軍鑑に天文十一年(一五四二)桑原城普請あり、板垣信形に武川衆を添へ御預なさると云々。後に典厩武田信繁に付けられる。「甲陽軍鑑伝解」に武河衆と云うは、先ず十二騎なり、曽雌、米蔵、折井、小尾、跡部、知見寺、権田、入戸野、曲淵、此等合せて二十六騎あり。天正壬午(天正十年 一五八二)宣時新府に於いて、勝頼に謀略があって面々の小屋で待機すべしと。各其意を守っていたが其謀が相違した故に、武川衆には勝頼の供をした人はなしとあり。按に武川は古くは六河と云う。(村里部に詳しく記してある。)

永禄八年(一五六五)信州下ノ郷諏訪神社(生嶋足島神社)所蔵の起請文に、六河衆とあり、天正十一年(一五四二)「南宮修造勧進帳」(甘利)にも武川衆の名多く見えていたけれど其帳破損してわからない。

天正十年(一五八二)七月神祖(家康)御入国の時折井市左衛門、米倉主計助首領として御判物御感状を賜わり、武川の士に各本領安堵したことが諸録に記してある。

「編年集成」に武川の士六十余人、家康に拝謁したとあるので、必ず二十六騎にはかぎってはならない。

世に武川十二騎と云うは、慶長中城番に二人宛十日代り、十二人にして勤めると云う。数年の間に往々他姓の人入交りたれども、始め武川衆過半其列にありし故に斯く称したと思われる。元来は武川十二騎と謂うには無理がある。

天正十八年(一五九〇)家康の関東御入国に付き、武州にて替地を賜わり、又慶長中本州の旧貫に復帰した人々は国千代殿(忠長)に附属し、寛永九年(一六三二)国除に付一旦浪人して、後に追い追い御旗本に召返される。

又始より武州に留まり本州の旧貫に返らない人も多くいたと思われる。

「編年集成」に慶長六年(一六〇一)閏十二月武川の士十四人去る、天正十八年(一五九〇)以来武州鉢形にて堪忍分を賜ったが、再び甲斐国に於いて古の采邑を賜わり平岩主計の部下に属す。

 

弐百石       折井市左衛門次昌

百拾三石     柳沢兵部

百拾八石四斗   伊藤三石衛門

八拾石      曲淵縫殿左衛門

五拾六石四斗余  曽根孫作

八拾六石     曽雌民部

九拾弐石     折井長次郎

八拾石(異本、六)折井九郎次郎

百拾石      曽雌新造

五拾石      有泉大蔵

七拾五石     山高宮内

百石       馬場右衛門

八拾石      青木与兵衛信安

弐拾石      青木清左衛門

右都合千弐百五拾壱石

樋口郷にて大久保十兵衛長安、成瀬小吉正成、相渡之同村内余地百六石七斗八升、折井市左衛門に預けられ租税を可献なり。各々無役にて知行に寓居し軍役を勤めけるのみ。

後年平岩尾州に遷りし時其跡甲府城番を津金衆と共に勤めた。

 

又十二未年三月五日薩摩守殿逝去によって、五郎太殿(後の徳川義直)に家督に定められる時、小笠原和泉守吉次(常州笠間城主)組下甲州武川の士を連れて尾州に赴かんとするに、武川の士、君の駕に付きて御直参くださらん事を願うと云々。

 

 

元和二辰年(一六一六)九月十三日甲府城番より忠長卿へ附属せられる。

武川衆

青木与兵衛

山寺甚左衛門

山高孫兵衛

米倉左大夫

米倉嘉左衛門

入戸野又兵衛

曲淵縫殿左衛門

蔦木新八郎

武州鉢形に在住する武川の旧士も同じく附属すべしとある。各々歎訴することは免除された。山高三左衛門一人願望して忠長卿に奉仕するとある。

同十二未年二月晦日、南宮の神主屋敷寄附の文書に曽源助、山源二、跡助左、馬作介、名清助、曽庄介、各花押あり、凡て武川衆に限らず事実を考慮してみると、諸記に載せたる人名十の五に過ぎない。

此時代の諸士は名田手作前なりと云う。地を自ら耕して在住しているので薄禄にても家事調えたる事ゆえに子弟多ければ、銘々軍役を勤め、禄を求める風俗なり。これを以て土人多しといえる、且つ諸録所記と違って、今考へ分ち難き事も多い。各その下に記しておく。

 






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最終更新日  2020年06月11日 11時55分00秒
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