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武川衆、柳沢氏『甲斐国志』
Ø 柳沢壱岐守信勝 (柳沢村) 「下ノ郷起請文」に花押あり。系譜には見えない。
Ø 柳沢弥十郎信興 青木義虎の二男(信定の弟)柳沢弥十郎信興と称する。早世なり。
Ø 柳沢靱負(ゆきえ)信秀 信興の男靱負信秀(前に記す「下ノ郷起請文」に所載、兵衛信秀と同人なのかは分からない。
Ø 柳沢靱負(ゆきえ)信兼 信秀の子靱負信兼
Ø 柳沢兵部丞信俊 信兼の男を信俊とする。「傳解」にいわゆる青木信正の三男源七郎信俊なり。 永禄十一年(一五六八)花沢の役(焼津、武田氏と今川氏の戦い)に横手監衛物信国、討死して嗣なき故に跡式を実弟青木源七郎に下さる。 天正六年?(一五七八)膳の城攻め(【筆註】)の条に柳沢靱負軍法を脊き抜け駆けした罪によって切腹を仰せ付けられる。しかれども武田一家たる由をもって、名字に於いては断絶すべからずと、一類の横手源七郎に跡式を下され、柳沢兵部丞信俊と云うとあり。 系譜には信俊天正壬午(一五八二)の後幕府に奉仕、慶長十九年(一六一四)十一月晦逝去する。法名〔良心高蔵院〕年六十七。 【筆註】「膳城素肌攻め」『甲斐国志』では天正六年とある。 天正八年(一五八〇)、御館の乱のなかで武田勝頼は上杉景勝を支持、上杉景虎派の厩橋城を制圧、赤城山南麓の大胡城・山上城・伊勢崎城を攻略。攻略後、武田勝頼軍は膳城付近を通過した。武田軍を見た一部城兵が武田軍に攻撃を仕掛けてしまった。この結果、武田勝頼軍の反撃を受けて膳城は落城した。
Ø 柳沢孫左衛門信文(安吉) 男孫左衛門信文(異本に作る安吉)が継ぐ。母は石原四郎右衛門の女なり。慶長十八年(一六一三)拝謁し、元和中(一六一六~)徳川忠長卿に仕え、寛永十七年御旗本に召出される。
Ø 柳沢刑部左衛門安忠 刑部左衛門安忠は信文の弟なり。
Ø 出羽守(美濃守)柳沢吉保 安忠の男柳沢出羽守吉保、後に本州を領せり事は国主部に詳にする。 壬午起請文(天正十年・一五八二)に、土屋衆、柳沢市右衛門見える。一系に安忠の兄に十右衛門信時が見える。兄弟三人が上京して、信文が家督して部屋住の知行を信時に賜う。 元和中忠長卿に仕え、寛文十六年御旗本に召出されると云う。 「慶長城番旧記」弐百石柳沢荘左衛門とあり、異本に作左衛門と見えるが孫左衛門信文と異同は分からない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月11日 11時59分09秒
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