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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月12日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

甲陽軍艦

山本勘助記載事項

誤字脱字・誤訳・誤文あり適宜訂正してご利用下さい。

品第六 武田信玄公の時代と諸国の大将

 (前文略)

 以上ことは、四国らやってきた佐藤一甫という浪人が鉄砲師として、甲斐に来て、信玄公に旗本として仕え、その一甫が詳細に語っていた。また修理大夫(三善)の幼少の頃のことについては、山本勘介が四国に渡たり、詳細に聞いていてそれを語っていたのを聞いたことがある。(高坂弾正が)

 

品第七 小笠原源与斎の奇特な軍配

一、甲州に小笠原源与斎という軍配者がいた。彼は様々の奇特をあらわし、ある時は風呂に入って、出口が無いのに人に気付かれないように外に出たり、夜の会合に、座席の向かいに山林に火を幾度もたてて自慢していた。しかも人が注文する通りに火をたてるはどの凄腕だった。およそ軍配をしっかり学ぶと、その軍配の範囲も広がりさまざまな奇特が生まれた。

禄四年(1561)の川中島合戦で討死した山本勘介は、信玄公旗本の足軽大将の中で五指に入るすぐれた武将とうたわれたが、これも軍配鍛錬に達していた人である

この山本勘介入道道鬼の軍配は、宮・商・角・緻・羽(きゅう・しょう・かく・ち・う)の五つに分けて見る。雲気・煙気・その他に烏(カラス・えぎ)・鳶(トビ・さこ)・鳩(ハト・すた)の三軍鳥の来る方向や飛びかたによって、戦況をあらかじめ占う口伝がある。その他にも口伝があるが、勘介流は要約してあって一段と短い。ただし小笠原源与嘉のような奇特は、勘介のものには無い。

奇特は軍配の神変であると源与斎はいう。しかし威光や神変だけでは勝負は有利にならない。(後略)戦いの真の計略・策略からいえばそれほど役にたたない。敵味方対陣の瞬間においては、勘介も源与斎も同等だ。それならともかく神変いたす方が益しだと人は言うだろう。(後略)


 品第七 所載記事(奇特について)

 この件について馬場美濃守信房が語る。

甲陽軍艦には馬場美濃守信房の多彩記事が載っている。

 

神変は神変でけっこうあるけれど、それは人によってのこと、武士が弓矢のために軍配を習って神変を期待したのでは、あの奇特をする人などと言われ、禰宜・山伏などのように言われよう。その上、正法に奇特なし、と聞けば余計に神変など信用できなくなる。

おおよそ武士が武芸を習う場合は弓・鉄砲・馬・兵法のこの四つを何より重視すべきで、できるだけ精を出し、工夫し思案して鍛錬するしか道はないのだ。

鍛錬するうちに腕があがると必ず弟子をとるが、弟子をとるのは武道のたしなみとはいえない。弓射る人・鉄砲打・馬術・兵法つかいなどと名付けて、無難に過ごしている人にでも同輩は笑顔をむけず、、人は人を片意地にみなすものである。本筋からそれて仕事をしては、武士とはいわないので、どんなに武道磨いても弟子をとるなどということは無益なのだ。

さて馬を鑑識する人も、弓矢を心がける人も馬が好きだからといって、あまり馬に関わりすぎると、他人からは博労(バクロウ/馬の鑑識や売買をする人)のように思われてしまう。やがて、武士道の本来からそれて欲が出て、同僚を出し抜くことになりやすい。それはすべきではない。但し足軽などはさしつかえない。

ことに盗みともなれば、他人の物を取ることはもとより、

    ロで偽りをいうのは口の盗み、

    主君の使いなのに私用で遅れて、永い間主君を待たせて遅れた返事をもってくるのなどは足の盗みともいうべきものだ。

けれども侍が武略として使う時は、虚言をもっぱら駆使する。それを偽りというのは、戦略を知らない武士のいうことで、それは女性のような侍というべきで、そういう者は、武略の意味で使う嘘といってもいいのは道理だ。(後略)

 

   品第七 山本勘介の事を信房が語る

(略)信玄公二十三歳の時、駿州より山本勘介を百貫の知行と約束して甲州に招き、対面した。その場で二百貫に増した朱印を与えた。何故かと言うと、あれほどの醜男なのに有名なのは、武道を始め、何事にも鍛錬をつみ、諸事にわたってすぐれ、思慮深いであろうと御判断なされたからである。

その後四、五日たって、駿州の様子を信玄公がお尋ねになると、明快に答えたので、信頼して山本勘介を側近として任命した。

その当時、長坂長閑は左衛門丞といっていたが、信玄公が勘介を側近としたことに対し、今川家への外聞もあることだからと、御忠告申しあげた。

信玄公はこれに対して、策謀をもつ者を近付けているかどうかは、駿州の評判より何より、勘介に直接聞いて見れば分ることだ、といわれた。

 

<筆註>

甲陽軍艦は、このような長坂長閑に対する話が散りばめられている。

 

信玄公はこのとき御年23歳、大善大夫と名乗っていた時期だったけれども、度々こうした場面に出会ったが、老将より若い信玄公の方が理が通っているので、左衛門丞は恥ずかしさの余り退出された。

さて、三カ年の間に勘介には八百貫の知行となり、勘介も過分の待遇に恐縮して、譜代同然だと感謝した。その後勘介は、策略を廻らし、信玄公の信州数カ所での落城に尽力し、ついには村上義清殿を信濃の北信から追いし、悉く信州を手中に治めた。これは山本勘介の戦略によってである。

 

信玄公18歳の六月、天文7年(1538)戊成の村上殿との合戦をはじめ、同九年目の天文15年(1540)には、信州から追放に成功し、信玄公二十六歳の年に戦勝で終った。

山本勘介が駿州から甲州へ来たのは天文12年芙卯の正月、信玄公28歳の時のことである。勘介は4年目に村上殿との合戦は終った。信玄公が武道の面で優れたのは、村上殿と九9年の間、毎年合戦されたからである。またその年の八月より、越後の長尾輝虎公17歳、信玄公26歳で衝突なされ、海野平ではじめて合戦となった。

ところで勘介の軍配にはこれといった奇特はないのであるが、信玄公が度々にわたって合戦で勝利を得られたことは、ひとえに勘介のみごとな戦略によるものだ。

このように、軍配は何事によらず、奇特なんかを期待するものではない。さらに侍は武芸をけいこして上達しても、弟子をとって満足などしてはならないのだ。

 

<筆誅>と、馬場美濃が申し上げた。

 

品第七終

 

品第九 信玄とその時代

信玄公御歌の会

 馬場美濃守信房

(略)一昨々年の酉の4月12に信玄公が御逝去なされた。

(略)戦術の事にかけては、軽々しく洩れ伝わってはならないと、勝頼公御自筆で直接命令を下される。信玄公が御他界のことは、来年四月まで隠密ある故、右の勝頼公の御書は誰にもお見せにならない。

それは馬場美濃殿が預かっておかれるのがよく、総じて両人が親交のある客人には、こちらは関係しない。信玄公の時代には通じていた越中の椎名康胤の所からの使者の親書の扱いなどは馬場美濃殿がとりなされた。

 

(略)内藤修理は言う。わが主君におかれては、京二親紫・東国に対して不名誉な立場におられるわけではない。それくらいのことは我らに限らず、御譜代の者ならば皆よく存じ上げているはずだ。他国といっても信州は手に入れてから、欝・芦田(謀略郡)をはじめ、霜・欝・和田(恥肘聖)の衆は、二、三代にわたっているからこの方々も勝頼公の細胞のうちは存じているはず。だからやたらと出頭するのは無用なことだ。

 

 そこで馬場美濃が申す。それは内藤修理殿も失礼というもの、まずは長閑の申されるのをよく聞きなされ。我らは小城ながら預かり命じられているが、何としても御前とは意の疎通が遠い感がある。云々

 

 

品第十一 鈍過ぎる大将

附、駿州今川家ならびに山本勘介

  駿河での山本勘介

以前、駿河の今川義元公の時代に、山本勘介が三河の国、牛窪より今川殿へ奉公を望んで参上したが、この山本勘介はひどい醜男で、目も一眼、指も足も不自由であった。けれど大剛の者だったから、 義元公が召しかかえてはと、勘介の寄宿先の広東という人が、家老の朝比奈兵衛尉を通じて申上げた。

勘介は大剛の者で、中でも城取り、陣取り(城構え、設計)といった軍法はよく鍛錬されている。京流(剣道)の達人である。軍配もよく知っている者ですが、と申し上げたけれども、義元公は召抱えられなかった。

駿河での勘介の評判は、

「あの山本勘介は第一、片輪者、それに城とり、陣取りの軍法も、自分で築城の経験もなく、自ら城をもったこともなく、兵を抱えたことがない身なのに、どうしてそのような知識があるのか、今川殿へ奉公したいからこそ虚言をいっているのだ」

と、噂した。勘介は九年間も駿河にいたけれど、そんな巷間の話を真に受けて、今川殿は召しかかえなかった。九年間のうちに剣術の面で、二、三度手柄があったけれども、新当流の兵法こそ本物で、勘介の流儀はどうも疑わしいと、皆人は噂した。加えて勘介は浪人の身であったから、草履とりも居らず、非難する人ばかりで、正しく評価する人などいない。このことはしかし、今川殿の御家が万事にわたって活力を失い、御家が末に傾き、武士の道の見きわめが浅く無案内であったから、山本勘介の身の上の批判まで悪い評判がおよんだのであろう。

(略)

  また山本勘介流の剣術について、新当流(卜伝流)でほないからと軽蔑するのは見当違いだ。新当流でも皆上手だというわけではなく、。京流でも皆下手だというわけでもない。勘介は自刃でも、木刀でも度々手柄をたてるほど上手であった。いかなる道でも上手なことこそ褒めるべきことだ。そうした理解の無い中で、山本勘介を批判なした。今川殿の家運が尽きてしまったのも、勘介への調査の怠慢からである。

山本勘介が、牛窪という田舎の身分の低い家の出身であったが、軍法をよく鍛錬しているという点では、信玄公は勘介の博識を聞かれ、感服して注目し、百貫の知行で召抱えられた。家来を一人もたない勘介に百貫の知行を下さるとは、 と、譜代の小身衆がむやみに騒いではと、板垣信形(紺酢蛸)に仰せつけ、馬・弓・鑓・小袖・小者を迎えの道の途中まで差し向けられた。それで山本勘介は甲府へよろしき姿で参上し、出仕の挨拶に参上した。その態度に感じて信玄公は即座に二百貫の知行へと増したことについての経緯だが、あれほどの小男だったにかかわらず有名だった勘介は、よくよくの手柄があったのだろう。約束の百貫でも多いくらいなのに、二百貫にしたについては、信玄公が勘介を家中の宝と考えられたからだ。

 

 






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最終更新日  2020年06月12日 09時37分46秒
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