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2020年06月13日
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カテゴリ:俳諧人物事績資料

『初秋の頃』 俳諧作者 鬼貫 おにつら

 

俳諧作者。万治四(1661)~元文三(1728)七十八歳。本名、上嶋宗邇(ムネチカ のちに秀栄)。重頼門。摂津国伊丹の酒造業上嶋家の三男として生れる。遠祖は藤原秀郷(俵藤太)に出、奥州藤原氏につながるという誇りが彼の一生の行動の基盤にあった。八歳ごろから俳諧に親しんだといい、寛文一二年(1673)、一二歳の時に京の維舟(重頼)に点を受け、翌年、伊丹を訪れた維舟に入門。さらに翌延宝二年(1674)春、維舟の再度の伊丹来遊に同行した宗旦がこの地に定住して開いた私塾也雲軒(ヤウンケン)に入ったが、同時に季吟や宗因の指導も受ける。同四年三月中旬の奥書がある推舟編『武蔵野』所収の四句が初入集であろう。同六年、宗旦らとの五吟五百韻『当流籠抜』、同八年、鬼貫単独の『誹道恵能録』と宗旦編『盆旦』、翌天和元年(1681)、木兵・青人との三吟三百韻『西瓜三ツ』、同三年、宗旦・林犬との三吟三百韻『三人輪』、貞亨元年(1684)、『かやうに候ものハ青人猿風鬼貫にて候』と、続々と伊丹俳書が刊行されたが、その異体の俳風は伊丹風と称された。同二年、大阪に出て学問に励み、医をも学んだという。武士であった先祖の名を顕そうとしたものらしく、俳諧活動は乏しくなる。翌三年六月に小出伊勢守家へ出仕の話があり江戸へ赴いたが、小出家内部の反対から成就しなかった。その後、同四年五月に筑後国三池藩に仕えた(元禄二年(1689)まで)のをはじめとして、大和国郡山藩(同四~八年)、越前国大野藩(宝永五年(1708)~?)と、伊丹資本を背景に藩政改革を手がける経済官僚として歴任し、

元禄一二年には伊丹領主近衛家の家来分に取り立てられた。貞享二年以後、出仕運動のための江戸滞在と郡山藩改革のために郡山に詰めた期間を除いては、主として大阪と近郊の福島に住み、郡山藩致仕後帰郷したが、元禄一六年二月、京都に移住、正徳四年(1714)九月から翌年六月まで江戸に赴き、享保三年(1718)一二月、再び大坂に居を移し(享保九年に大火にあって一時帰郷)、同地で没した。彼の「誠の俳諧」論には倫理的色彩が濃く、禅宗の教えのほかに蕉門俳論の影響も受け、「そよりともせいで秋立つことかいの」など口語俳諧を特徴とした。享保三年三月、有賀長伯から『古今集』俳諧歌の伝授を受ける。晩年、自ら生涯の発句集『仏兄七くるま』を数度にわたって編み直し、また自伝『藤原宗邇伝』に武人としての自分を録そうとした。墓は、大阪鳳林寺他にある。

 

『鬼貫句選』

諸俳書を渉猟して鬼貫句を集成したものとあるが、実際は「禁足旅記」も含め収載句文のほとんどを鬼貫の自選集『ななくるま 七車』から採り、他書で補足校訂したもの。『仏兄七(サトエナナ)くるま』と比べると、前書に省略や簡略化の傾向が認められる。

 

跋で蕪村は、其角・嵐雪・素堂・去来に鬼貫を加えて五子と呼び、

「五子の風韻を知らざる者には共に俳諧を語るべからず」

と述べて、鬼貫の再評価を訴えている。


 引用資料 昭和七年『俳人読本 下巻』 荻原井泉水 春秋社
 

【註】 鬼貫は摂津伊丹の人、芭蕉の一系とは異つたる一流をなして「まこと」の俳諧を唱へた。此文は其随筆「獨言」下巻の一節で、四季の風物を説いたうちの秋の部。

 

 秋立つ朝は、山のすがた雲のたゝずまひ、

木草にわたる風のけしきも、きのふには似ず。

心よりおもひなせるにはあらで、

をのづから情のうごく所なるべし。

 七夕の日は、誰もとく起て露とり初るより、

あるは言の葉をならべ、

あるは古き歌を吟じて更に心を起し、

あるはまた糸竹をならし、

洒にたはぶれ、舟に遊びて、

あすにならん事をむしむ。

 

桐の葉は、

やすくおちてあはれを告るさま、

いづれの木よりもはやし。

月のためには、日比覆へる窓、軒ばも晴やかに見ゆ。

 

朝顔は、はかなき世のことはりをしらしめ、

なさけしらぬ人すら、佛にむかふ心を起せば、

しぼめる夕をこそ此花の心とやいはむ。

 

萩のさかりは、野をわけ人てかひくるゝをもしらす。

人の庭に有ては露ふく風に花をおもひ、

かたぶく月に悌をむしむ。

叉花もやがてならんと見る此の風情こそ、

いひしらずおかしけれ。

愛する人のまれなるぞうらみには侍る。

 

荻は、むかしより風にしたしみて、そよぐの名あり。

 

 薄は、色々の花もてる草の中に、

ひとり立てかたちつくろはず、かしこからず、

心なき人には風情を隠し、

心あらん人には風情を願はす。

只その人の程々に見ゆるなるべし。

みの笠取もとめて行けん人の、

晴間まついのちの程もしらじといひけん、

道のこゝろざしはかくおもひ人なんこそ有がたけれ。

 

女郎花は、あさはかにながむる時はさのみもあらじ。

よりそひてしばし心をうつしみれば、立のきがたし。

たとへばすげなき女の情ふかきがごとし。

又雨の後は、物やむもふととはれ顔にうつぷき、

あるは風に狂ひて、

くねりなんどしたるけしきは恨るに似たり。

 

中元の旧は、蓮葉に飯をもり、

鮭といふ魚(いを)に鮭さし入て生る身をことぶき、

親もたらぬ家には鼠尾(みそはぎ)草に水打そゝぎ、

こしかたの有増をおもひ出して、

千々のあやまちを悔、

或は萬づの恵みをしたひて袖さへぬるゝ折節、

佛唱ふる他所の夕もおもひやらる。

 

次の夕は、火をもて靈送るはかたし。

山には大文字、妙法舟やうの物、

火をさしよする程は、

しばしこゝろもうき立侍れど、

かたちあらはして、

やがて跡なく消るも叉はかなき。

 

 躍は、かたちより心を狂はせ、

心よりかたちにまよふ。

 

わらんべの品よきには、

闇たどる親の夜もすがら付まとひ、

あるは荒をのこのさまざまに出立たる、

けうとくもおかし。

顔つゝみたれば誰ともしらす。

見る人にたちよりて、

我ぞと人に語りなせそとさゝやきなんどしたるは、

しらせ顔にて叉おかし。

あるは身もをしさげがたき女の、

帯、帷子など取出して、

すがたを人におどらせ見るもやさし。

 

虫は、雨しめやかなる日、

簸のほとりにおろゝゝ鳴き出たる、

晝さへ物あはれなり。

月の夜は月にほこり、闇の夜はやみにむもれす。

あるは野ごしの風に、

をのれをのれが吹送る聲、

いつ死ぬべしとも聞えなど、

秋かぎる命の程ぞはかなき。

つくねんとして、夜も更け、

こゝろも沈みて、

何にこぼるゝとはしらぬなみだぞおつる。

(獨 言)

 

秋立つ 鬼貫

そよりともせいで秋たつことかいの

ひらひらと木の葉うごきて秋ぞたつ

心略起て秋たつ風の昔

此露を待て寝たぞや起たぞや

稲づまや淀の輿三右が水車

そちへふかばこちらへ吹ば秋の風

 

 【註 蓮飯】

蓮飯とて蓮の葉を以て蒸せる籾米を包み、

観音草を以て縛る。

また剌鯖とて鯖を背より割開きて塩物にし、

其一枚の中に一枚を重ねて一剌とする。

此二つを親族の間に贈答する。

現在の父母の壽命を祝ふので、生身魂といふ。

 

【註 送り火】

 次の夕は、十六日で、廻り火を焚く。

京都にては東山如意嶽に大文字の形、

松か時に妙法の文字、

又、西加茂には舟の形したる火を焚く。

 

【註】

「鬼貫句選」の跋に、蕪村曰く

鬼貢は大家にして、世に傳る句まれ也、

不夜庵太祗、としころ此事を嘆きて、

もしほ草こゝかしこにかき集めて、数百句を得たり、と。






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最終更新日  2020年06月13日 08時05分45秒
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