武川衆略歴 武田から徳川へ ² 武田石和五郎信光の末男、六郎信長、忠頼の家蹟を継ぎ一条氏と号す。 ² 信経ノ男時信、一条源八とし甲斐の守護職に任ぜられる。男子十数輩あり、武川筋の村里に分村し各々其地名を氏号とし、子孫は「武川衆」と呼ばれる。 ² 時信は元亨元年(1321)正月廿七日卒する。府中一蓮寺の大旦那なり。(当寺の過去帳は元亨の頃より慶長に至り、武川衆を多く載せてある。 ² 『甲陽軍鑑』に天文十一年(1542)桑原城普請あり、板垣信形に武川衆を添へ御預なさると云々。後に典厩武田信繁に付けられる。 ² 『甲陽軍鑑伝解』に武河衆と云うは先ず十二騎なり、曽雌、米蔵、折井、小尾、跡部、知見寺、権田、入戸野、曲淵、此等合せて二十六騎あり。 ² 天正壬午(1582)の時新府に於いて、勝頼に謀略があって面々の小屋で待機すべしと。各其意を守っていたが其謀が相違した故に、武川衆には勝頼の供をした人はなしとあり。按に武川は古くは六河と云う。 ² 永禄八年(1565)信州下ノ郷諏訪神社(生嶋足島神社)所蔵の起請文に、六河衆とあり、「南宮修造勧進帳」(甘利)にも武川衆の名多く見えていた。 ² 天正十年(1582)七月徳川家康、御入国の時折井市左衛門、米倉主計助首領として御判物御感状を賜わり、武川の士に本領安堵した。 ² 「編年集成」に武川の士六十余人、家康に拝謁した。 ² 世に武川十二騎と云うは、慶長中甲府城番に、十二人が勤める。 ² 天正十八年(1590)家康の関東御入国に武州(武蔵)に替地を賜わる。 ² 慶長中本州の旧貫に復帰した人々は国千代殿(徳川忠長)に附属する。 ² 寛永九年(1632)国除に付一旦浪人、後に御旗本に召返される。 ² 「編年集成」に慶長六年(1601)閏十二月武川の士十四人、去る天正十八年(1590)以来武州鉢形に移り後、再び甲斐国の采邑を賜わる。 ² 武川衆、十四人 折井市左衛門次昌 柳沢兵部 伊藤三右衛門 曲淵縫殿左衛門 曽根孫作 曽雌民部 折井長次郎 折井九郎次郎 曽雌新造 有泉大蔵 山高宮内 馬場右衛門 青木与兵衛信安 青木清左衛門 ² 後年、甲府城番を津金衆と共に勤めた。 ² 元和二辰年(1616)九月十三日甲府城番より忠長卿へ附属せられる。 武川衆 青木与兵衛 山寺甚左衛門 山高孫兵衛 米倉左大夫 米倉嘉左衛門 入戸野又兵衛 曲淵縫殿左衛門 蔦木新八郎 |