カテゴリ:俳諧人物事績資料
荷兮 かけい 俳諧師。慶安元(1648)~享保元(1716六)六九歳。
本名、山本周知。通称、武右衛門・太一。初号、加慶。別号、一柳軒他。 連歌師としては昌達の号がある。閲歴は未詳の部分が多いが、尾張国 名古屋堀詰町、のち桑名町に移り、医を業としていたと伝えられる。俳歴は、寛文一二年(1672)の『晴小袖』に「尾州山本氏一柳軒加慶」として発句七が入集翌延宝元年(1672)跋の『旅衣』には新人ながら集中第六位の六一句が入集、貞門俳家として頭角を現した。しかし、延宝中ごろからは、宗因困流俳語(談林俳諧)に積極的に参加、自派「江湖」グループを指導した。特に江戸談林の松意とは親しく、松意編『功用群鑑』『軒端の独活』の両書に「江湖軒加慶」として五句入集した。貞享元年(1684)、荷今三七歳の冬、『野ざらし紀行』の旅にあった芭蕉を迎えて「尾張五歌仙」を興行、芭蕉七部集第一集の『冬の日』を上梓した。次いで『はるの日』『あら野』と撰集刊行を企て、尾張蕉門の主導的地位を確立した。しかし、次第に芭蕉の俳の間に齟齬が生じるようになり、『廣野後集』には復古趣味が露呈、さらに『ひるねの種』『はしもり』には反蕉風的な俳風が顕著となった。元禄一二年(1699)刊の『青葛葉』はまったく低調で、晩年、昌達と号して連歌師に転身したが、不遇のうちに没した。句「こがらしに二日の月のふきちるか」(『あら野』)
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最終更新日
2020年06月13日 13時36分23秒
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