2298499 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年06月16日
XML
カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉談四編 次郎兵衛物語 芭蕉の幼少期から晩年まで詳細事績が明らかに

 

何故この書を文学者は偽書扱いにしてきたのか

他の伝記書より細かに記載されている。

 

芭蕉談四編 次郎兵衛物語

    

東肥八代 乞隠文暁編

 

〔註 文暁〕俳諧大辞典

 

 俳諧作者。享保2(1735)~文化13(1816

『歴代年譜事略』、八二歳。藁井(ワライ)氏。

法名、了幻院法侶。

別号、紫海・法月・大律・渡白人・乞隠・西天庵・露竹庵・雪吹庵・行月坊・東流館。

 

肥後国八代の正教寺第一〇世の住持。

俳諧は、先住支明(俳号、雪蘭居)の教導を受けて獅子門の俳諧を嗜み、のち春渚(シュンショ)峻奏請にも親しんだ。

寛政四年(1792)暮に小林一茶をその寺に留めており、闇更・士朗・蝶夢・重厚・玉屑(ギョクセツ)・奇淵らとも風交、寛政期(17891801)の俳壇で活躍した。

編著『俳諧芭蕉談』『芭蕉翁反古文』(『花屋日記』『次郎兵衛物語』(稿本)ほか。

「大内初夫氏著」

 

 【註】 一部加筆 山梨歴史文学館

 次郎兵衛物語

去年九月京の去来の方に、亡師(芭蕉)御一生の事。書記し置かれ候はゝ、御見せ候様にご申遺し候得は、この次郎兵衛殿を差下され候。

 

次郎兵衛殿は、師翁(芭蕉)の乳兄弟にて、彼壽貞尼の子也。

記憶よき人にて、師翁御生涯付き従い、

御終焉まで御介抱申、

三二年の服忌親同様に勤めたる実義ならひなき忠志なり。

実父母にも孝行なりし人にて、

藤堂家の孝行の一人にも撰はれたる人なりとぞ。

當三月より十月までとどめ夜々の物語有りの儘、一

言半句間違わぬようにと、書き留め置きたる也。

それ故文義に潤色せず口寫し通り、

俗談の儘に書たる也。

他の見るには、可笑しきけれど、

翁の事実には、少の私を交えず、

文儀の拙きは見ん人後勘し給へかしかし、

故に次郎兵役物語と記し置もの也。

 

○魯町 問 ++++ 

 

師翁は伊賀山岡の人と聞き侍る。

素性いかなる御人にて、

御先組いかかる氏より出給ひ、

武門の時はいかかる動きをなされたる人にて候や。

 

◎治郎兵衛 答 -----

 

私は下々の者にて候得は、

師翁の御先祖に事は委しくは存不申。

私は芭蕉翁様の譜代の者にて、

松尾の御家には御代々御勤め申したる者と

親代々より申し伝え候。

 

私の親も次郎兵衛と申して、

伊賀国名張と申所の者に候。

また芭蕉翁様の親様は

松尾與左衛門様と申したる御人にて、

伊賀の上野にて始めは赤松と申す御屋敷有り候。

後に玄蕃町と申す所に御移りなされ候。

御先岨は平家の武士にて御座候由、

数十代伊賀の国に住居なされて、

名ある武家に御座候由に候。

また母親さまは四国伊予国御人と申せども、

折ふしは九州の豊後の国、

脇と申す所より御状も参り、

既に我が親次郎兵衛は

御使に参りたる事も御座候と、

母が申したるを承り候。

母親の御家のご先祖も

新田氏のよう承り候。

芭蕉翁様物語も御座候。

 

親、與左衛門様に五子、六人おはし候。

御惣領を始めは儀左衛門様と申し候、

後は殿様より半左衛門とご御付被成候由。

娘子三人は御早世なされ、

姉子様は今に御本家藤堂和泉守様の御家中に

御出なされ御存命と承り候。

 

○魯町 問 ++++ 

 

翁、御出生は何年比で申事に候や。

 

◎治郎兵衛 答 -----

 

御出生の年号などは得斗承り申さす候。

僕(ヤツガレ)が母申居候は、

御出生の時、僕(わたし)と申し候。

 考え候えば、正保年中の比にても候か。

 

私当年五十四歳に成、翁御存生なれば、御同年に候。

 

芭蕉御出生なされ、幼名を與作様と申し候。

余り御出生の時より、御病身にて候ゆえ、

御二歳にて金作様とお改めさせられ候。

これ末への御子様にて御座候。

與左衛様、たびたび御不孝が続き、

御一類中にも御不仕合打続き、

御係り人三人これ有り。

金作様は御病身なり、

御物入り段々打ち続き、

御暮らし方御難渋、

その上母御様は産後の御大病にて、

一年余り御病床に御つきになされ、

終りに御隠れなされ候由、

御病中より御乳これなく、

それ故私も共々に、

親、次郎兵衛も一所に御屋敷に御呼取被成候。

これと申すも不思議な由来にて、

右申す通りに親半左衛門様にも、御乳無後座、

私、親と共に御乳を上候。

それ故かまた父母の乳を金作様に上げ申は

一方ならぬ因縁ごとと、母が申し候。

惣体、私の祖父は治郎作と申して、

関ヶ原御陣、大阪御陣にも召連られ候者の由。

か様な訳が御座候故、

親、次郎兵衛も御屋敷を離れ兼ね、

右三人共に御呼とりなされ候て、

そのまま名張の家屋敷は勿論、

諸道具其外田畑ともに売り払い

、三十七八両の金子もって、

御屋敷に持参仕り、

御屋敷の受払かた、一銭も残らず払仕り、

廻り遣し申し候由、

與左衛門様末々まで、御子孫あらんかぎり、

御見捨て被下間敷と、仰せられ候由。

それから親、次郎兵衛は朝とく山に行き、

母は乳を挙げ候片手に、御台所の御勝手むき、

締めくくり仕り候ゆえ、

少しは御勝手向き仕直しに相成り候。

 

私は金作(芭蕉)様に御遊び伽に居申し候。

金作様御六つの時、

御館の若殿様も御六ッにならせられ候故、

金作様若殿様の御伽に召し出され給う。

それより毎日々々御殿に御上がりなされ候。

御家中よりも同じよう成り御子方、

御四人御遊伽に御上り被成候。

私は金作様の御供にて、

御勝手御玄関口まで上り被成候。

今以てお覚え居申し候。

若殿様御八つに御成りなされ、

御手習い始まり、

金作様その外の御四人も御側にて、

ご同様に御手習い仰せつけられ候に、

格別金作様は御器用に才知優れさせられ、

ご手跡別して抜群みえさせられ候故、

最初揚字の時より殿さまご覧にあられ、

大きに驚かされけると其の時分承り候。

十五歳の時に元服仰せつけられ、

御名を半七郎とお付けなされ、

御扶持ち方三人扶持、

衣装代として銀七枚拝領、

親旦那は半左衛門と御改名なされ、

その年若殿さまにも主計様と称し奉り候。

 

その翌年より主計様にもご読書始まり候ゆえ、

半七郎様にも外四人の御衆もご読書にて、

日々御出精なされ候。

御記憶のよき事、これまた十人に勝れさせられ、

武芸文学とも昼夜怠りなく出精し給うに、

何一ツ人に劣り給うことなく、

御前の聞こえ、世の評判何事も勝れさせければ、

殿さま常々仰せに、

「半七郎」は用に立つ者なり。

主計はよき家来が出来たと、ご自慢にて、

ご本家にても時々仰せけるとぞ。

その間には連歌俳諧に心を寄せられ、

主計様ともどもに、京松原室町の東、

新玉津島拾徳軒に月に四五度点を取りに、

毎度私に御使い仰付られ、

一月も懈怠なくなされしもの故に、

高点は毎も御主従にて取給ふ。

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年06月16日 10時17分03秒
コメント(0) | コメントを書く
[松尾芭蕉資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X