カテゴリ:松尾芭蕉資料室
芭蕉 青年時代
参考資料 芭蕉の生涯展(芭蕉の忌二百七十年記念冊子記事) 「松尾芭蕉」(芭蕉翁記念会編) 自著「誤伝 山口素堂の全貌」「芭蕉と素堂」
最近の歴史書や芭蕉などを著したものの中には、「である」とか「疑いの余地がない」など断言する資料が多い風潮がある。「と伝わる」「と云う資料がある」とか「ではないか」が本来で、歴史上の人物や出来事は断定する根拠は希薄で史料が見えない場合が多い。
芭蕉は承応二年(一六五三)頃、つまり十才になった頃に、藤堂新七郎家の嗣子、藤堂主計良忠に小子姓として仕えたという。 出仕の時期については異説もある。 上野には城代の采女(うねめ)家に次いで、侍大将として藤堂玄蕃、新七郎の両家があり、ともに代々五千石の大身である。 その一つの新七郎家の嗣子良忠は、寛永十九年(一六四二)の生れだから、芭蕉より二つ年長になる(素堂と同じ)。 だから芭蕉が約十才の頃出仕したとすれば、遊び相手のようなものだったかもしれない。この主従の関係は良忠が二十五才で没するまで、約十余年つづくことになるが、この二人の少年の問には、単なる主従の問柄をこえた親密さがお互いに感じられたものらしい。
竹人の『芭蕉翁全伝」には「愛龍頗る他に異なり」とある。 良忠はいつの頃からか、蝉吟と号して、貞門の俳諧を京の北村季吟に学ぶことになる。 古典注釈家・和学者として多角的な活動をした季吟は、明暦二年(一六五六)以後俳諧宗匠として、諸方の貴紳豪家に出入していた。そして当時の俳諧、それは和歌の伝統的マンネリズムや、既に儀礼的文学になっていた連歌とちがって、用語も自由だし、何よりも、軽いユーモラスな気分のもので、地方の青年公子良忠の文学趣味を満足させるに十分なものであった。 藤堂家は文学に全く無縁であったわけではない。数少ない俳諧初期の資料として珍重すべき、藤堂高虎と家臣八十島道除との「両吟俳諧百韻」が、現在も遺されており、新七郎家の初代良勝、高虎等の連歌の懐紙も遺っている。 さらに蝉吟と時代を同じくして、本家三代目の弟で、伊勢久居五万三千石の初代領主となった藤堂高通は、任口と号して同じく季吟の教えをうけていた。 良忠の蝉吟が季吟を帥と選んで俳諸を嗜んだのも、ごく白然なことであったのである。
芭蕉が、ついに生涯をともにする俳諧と結ばれたのも、おそらくこの蝉吟の文学趣味に影響されたものであろう。 すでに寛文四年(一六六四)四月に刊行された『佐夜中山集』には「松尾宗房」として、 姥桜さくや老後の思ひ出 月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿 の二句を入集している。 文献に見える彼の句の最初のものであり、ともに謡曲の文章によりかかって仕立てた句で、言葉の技巧的なおかしみをねらったもの、当時の風体をそなえて巧みである。 翌五年十一月十三日には、蝉吟の発句に季吟の脇句を得て興行した「貞徳十三回忌追善」の俳諧に一座している。 一座の連衆は正好・一笑・一以等上野の俳人である。当時上野の武土・町家の且那衆に俳諧が行われ、『続山之井』には、上野の俳人が三十六人も入集している程で、一種の俳壇が形成されていた。
翌、寛文六年は芭蕉の生涯の一転機となる重大な年である。 その年の四月二十五日、主君蝉吟が僅か二十五才で亡くなったからである。 特別に自分に目をかけてくれた主人の死、それは二十三才の多感な青年にとって大きなショックであったに違いない。 殉死を願い出て許されなかったという説(?)があるのも、近世初期の殉死流行期を隔ること遠くなく、有名な「列死禁令」が出たのが僅か三年前の寛文三年であったことを思えば、あながちに伝記作者の理想化の結果ともいきれないが、定かな史料は伝わらない。
六月中旬、命ぜられて蝉吟の位牌を高野山報恩院に収め(次郎兵衛物語)、その後致仕を願い出たが許されず、無断で伊賀を出奔したというのが通説である。 出奔の動機についてはいろいろな推測が行われている。通例として、伊賀を出て上洛し修学したと伝えられるが、これまた確実な資料を欠き、推測の域を山ない。 芭蕉伝記の中で、史料からは、寛文十二年までの間は全く空白である。 そして、六年後に、世上にあらわれて来た芭蕉は、既にしっかりした考えを持ち、驚異的な成長を遂げていた。 芭蕉が無断で出奔したように書かれている書も多くあるが。芭蕉と伊賀は江戸に出てからも親密な関係にあり、特に帰郷した折などの交際などから推察すれば、江戸の藤堂家との関係も考慮されるべきである。 自句をも含めて、上野の俳人たちの句を左右に分け、それに宗房自身の判詞を加えた三十番の句合せ『貝おほひ』一巻を、上野菅原社に奉納したのがそれである。ここに集められた句は、当時の流行「小歌」や「はやり言葉」を「種」として作らせたもの、それに加えた宗房の判詞もまたこれらを種とした気の利いた文章で、彼の処女作であり、彼口身の企画と編集になるものである。そしてその自序の末に、 「寛文拾二年正月廿五日 伊賀上野 松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」 と署名している、彼のこの書に対する自身と宗匠的立場がうかがわれる。 自序や跋文などは現在でもその書の格式を示すもので、それを書く自体すでに俳諧における芭蕉の地位を示している。芭蕉の朋友素堂の序跋文や詞書の多さもその地位と名声を押し図る上でも重要である。
現在、伊賀の生家の奥に残された釣月軒、あの狭い薄暗い部屋で、将来を見据えて、昂然と眉を上げて机に向っている青年芭蕉の姿が思われる。 この「貝おほひ」の企画、内容のもつ澗達奔放な気分は、西山宗因に代表される、当時の俳壇の最も前衛的な傾向、爾後数年問、「談林俳諧」へと俳文芸が進んで行った、その路線に明らかに指向されており、その前駆的な意義をもつ作品である。
二十九才の芭蕉がいかに俳壇の動き、時代の流れに対して敏感であったかを証明するものである。またこれは芭蕉の中に、この才気を目覚めさせ成長させ、このダンディズムを身につけさせたのは、この以前六年問の空白時代をおいてはないと考えられる。『貝おほひ」は芭蕉の東下後、延宝初年に、江戸の中野半兵衛から出版された。
芭蕉は『貝おほひ』一編を奉納して、この年の春(あるいは九月)に江戸に下ったと伝えられる。しかし東下の年次は諸説ありこの年ときめられない。 ただ確実なことは、遅くとも三年後延宝三年(一六七五)春以前に江戸に下っていたことと、その前年延宝二年三月十七日、師の季吟から、作法書「埋木』の伝受をうけている事実だけである。現在芭蕉記念館に蔵する写本『埋木』巻末に、季吟が自筆でで「宗房生」が「俳諧執心浅カラザルニ依リテ」この季吟家伝の秘書を写させ、奥書を加える旨を書きつけて、「延宝二年弥生中七季吟(花押)」と著名しているからである。
芭蕉の東下には、小沢卜尺または向井卜宅が同道したと伝えられる。 卜尺は江戸木舟町の名主で、季吟門の俳人。ト宅は藤堂任口の家臣でこれまた季吟門である。江戸について、草軽をぬいだのはト尺の所とも、杉山杉風の家とも伝えられる。杉風は屋号を鯉屋といい、小 田原町 に住んでいた幕府御用の魚問屋であり、姉が甲斐に居て天和二年に芭蕉が甲斐に逃れたときに逗留したとの話もあるが、今では確認できない。
芭蕉簡略年譜
・寛文 4年(1644)21才 ●松江重頼編『佐夜中山』に「松尾宗房」の名で二句入集。俳書への初入集。 ○元政「扶桑隠逸伝」を刊行する。 (かれは母を連れ身延山詣でに甲斐に来ている) ・寛文 5年(1645)22才 ●11月13日、蝉吟主催の「貞徳翁士二回忌追善百韻」に一座する。 連衆は、蝉吟・季吟・正好・一笑・一以・宗房、(ただし季吟は脇句を贈ったのみ。 ○大坂天満宮連歌所宗匠西山宗因、初めて俳諧に加点。 ・寛文 6年(1646)23才 ●4月25日、蝉吟没する(25才)。 内藤風虎編『夜の錦』に発句四句以上入集(『詞林金玉集』による)。 ○西鶴、鶴永の初号で『遠近集』に発句三句入集。 ・寛文 7年(1667)24才 ● 北村 湖春編『続山井』に発句二八句、付句三句入集。 ・寛文 9年(1559)26才 ●荻野安静編『如意宝珠』に発句六句入集。 寛文10年(1560)27才 ●岡村正辰編『大和順礼』に発句二句入集。 ・寛文11年(1561)28才 ●吉田友次編『籔番物』に発句一句入集。 ・寛文12年(1562)29才 ●宗房判の三十番発句合『貝おほひ』成る。 自序に「伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」と見える。 伊賀上野の菅原社に奉納、後に江戸の中野半兵衛方から板行された。 ● 松江重頼編『誹諸時勢粧』に発句一句入集。高瀬梅盛編『山下水』に発句一句入集。 ● この年、江戸に下るか。(?) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月16日 14時54分49秒
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