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2020年06月16日
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カテゴリ:武田信玄資料室

武田信玄波乱の生涯(「武田信玄」風林火山の大戦略)歴史群像シリーズ⑤)

<信玄、父信虎を追放して甲斐を統一・海の口城攻めの初陣で大手柄をたてる>
(「武田信玄」風林火山の大戦略)歴史群像シリーズ⑤)

・武田信玄は甲斐の守護大名、武田左京太夫信虎の長子として、大永元年(1521)十一月三日、甲府館の詰の城・積翠寺(要害山)城に生まれた。母は一族大井信達の女だった。幼名は太郎。信虎は合戦の勝利を願って別名、勝千代と名づけた。
・折から駿河今川氏の重臣、遠江土方の城主、福島正成が一万五千の大兵をもって甲斐に侵入、甲州軍と対峙中であったが、男子誕生に力ついた信虎をはじめ重臣の萩原常陸介をはじめ家臣一統は、中巨摩の上条河原に、福島軍を大いに破った。
・福島軍は羊将正成が戦死し、死傷四千をだして潰走した。
・この合戦の勝利によって、反乱の絶えなかった国中(笹子峠以西の甲斐)の一族も沈静し、信虎に抗するものはなくなった。信玄の勝千代はすくすく成長した。
・信玄の子供のころを語るのにヒバリの巣を上手に発見した話や、貝の数を、兵にたとえて家臣をおどろかした話などがある
が、十三歳になった信玄は、父信虎の命によって、最初の妻を娶らされた。自戦国の政略による早婚である。
・妻は関東管領上杉氏の有力な一族、川越城主の上杉朝興の女だった。信虎は上杉朝興と結んで、小田原の北条氏綱と対抗するためであった。だが、この妻の上杉氏は翌年"懐蛤死"した。
・天文五年(1536)、信玄は十六歳になり、元服した。将軍足利義晴の偏諱(へんき)をつけて晴信と名のり、従四位大膳大夫に任じられた。
・また、この年、左大臣三条公の姫を娶った。今川義元の仲介だったとい。この姫の姉は室町幕府の管領細川勝元に嫁し、娘は石山本願寺光性の裏方になっていた。
◎「甲陽軍艦」の引用
・信玄の初陣には諸説があるが、天文六年(1537)、佐久海の口城攻めが初陣だった。『甲陽軍鑑』はこれを天文五年のこととしているが、記載内容は事実とされるので、つぎに略記してみよう。
・信虎公は信濃佐久郡の海の口城を攻めたが城の内にも人数も多く、また平賀の源心法師も加勢にきていたし、大雪も降ってきたしするので、城はなかなか落ちそうもなかった。
・そこで甲州の衆はよりよい相談をした。城には三千という人数が篭っているのに、味方の兵は、八千にすぎない。それに今は十二月の十六日だ。ひとまず城を巻きほぐして甲州へ帰り、来春また攻めることにしたらいかがなものか。敵はこの雪だから、追ってはこまい。このように相談をきめて信虎に申し上げると信虎も納得して翌十二月二十七日に引き上げることになった。
・そこへ、晴信公がでてきて殿軍を所望した。
「なんと申すか」
信虎公は大いに笑っていった。
「武田家の不名誉なことを申すものだな。大雪だから敵は追撃してこないだろうと侍大将たちも申している。これでは殿軍の働きようはない。こうした殿軍はたとえ、わしがそのほうに申しつけたとしても、弟の次郎に申しつけられたい、というのが惣領として、また兄としての情というものだ」
・だが、晴信公が強って望んだので、信虎公はしかたなく、晴信公に殿軍を申しつけられた。
・信虎公は長男の晴信公を嫌い、次男の信繁公を愛していて武田家をこの次男に継がそうと思っていた。
・二十七日、信虎公は軍を返した。
・晴信公は三百人ばかりの手勢とともに後に残った。その夜は一人宛三人前の弁当をつくり、武装も解かせずに兵を休ませ、
馬も鞍をおろさず、十分に飼葉もかわせた。
・それから、ご自身で触れてまわった。
「明朝は暗いうちの七ツ(午前四時)に出発すぞ。寒いから出立ちに先だって酒を呑め、上戸も下戸もな。ただし酔ってはならんぞ」酒は手まわしよく酒屋から集めておいたものだった。
・二十八日、予定の時刻に出立し、城に近づいて晴信公はいった。
「城を攻撃するぞ。おそらく城中には留守居の兵しか残ってはいまい。正月の準備に村へ帰っただろう。さあ、みんな働いて
手柄をたててくれ」
兵たちか城のようすをさぐると、城方では七・八十人の留守居を残して、あとは村へ帰ってしまっている。
しめしめと彼らは思った。
このころは侍も兵も、主人に直接仕えるもののほかはみな農村で百姓をしていた。そして、ことが起ると、主人が動員を発し、その命令にしたがって城へ駈けつけた。
海の口城は警戒もしていなかったから、間単に突人することができ、たちまちのうちに、源心法帥をはじめ、城兵をことごとく討もとってしまった。たいへんな勝利である。
・だが、信虎公は空き城だから落とせたのはあたり前だといって、晴信公の手柄を認めようとはしなかった。

<家臣団と図り、父信虎を駿河に追放する>

・天文文十年(1541)五月、武田信虎、信玄の親子は、北佐久・南小県郡に出陣し、諏訪頼重、村上義清たちと協力して、小県の滋野一族を攻撃した。一族はバラバラになり、根(禰)津、矢沢は降伏し、海野の当上棟綱や真田辛隆たちは上州へ逃亡した。
・武田としては直接実益はなかったが、北方を押さえたことによって、南佐久の占領を確かなものとすることができた。
・信虎、信玄は五月の終りに甲府へ凱旋した。ところが、六月になってとんでもないことが起こった。信虎は息子の信玄によって駿河の今川義元のもとへ追放され、信玄が武田家第十七代当主になったのだ。
・これは信虎政権に見切りをつけた重臣の板垣信方・飯富兵部らが中心となってて信玄を擁し、信玄もまた、信虎に廃嫡されるのを心配して協力したものであり、さらにまた信玄の姉が嫁いでいる今川義元も協力し、信虎の身柄を引き受けたものだった。
・『塩山向嶽奄小年代記』は、こう記している。
「信虎平化悪逆無道也。同中人民牛馬畜類共二愁悩ス。然レバ駿州大守義元信虎之女ヲ姿ル。信虎之ニ依り辛丑(天文十年)
六月中旬駿河ニ行ク。晴信万民愁ヲ済(すくわ)ント欲シ、足軽ヲ河内境ニ出シ其ノ道ヲ断チテ位ニツキ国々ヲ保ツ。人民悉ク快楽(けらく)ノ咲(わらい)ヲ含ム」
・これによると、信虎は悪政をしいて、畜類まで恨んでいた。そんなときの六月中旬信虎は娘婿の今川義元のところへ行った。息子の晴信は人びとの愁いをなくそうとして、国境の河内に足軽をだして、信虎を甲州へ入れなかった。晴信が新しい国王になったので、人びとはすごく喜んだ、というのである。
・けだし当時のようすを、第三者として記したものであろう。
・しかし、信虎には何人かの側室弔も、家臣も、下女下男もつき、その費用は一切信玄がおくったので、実質灼には追放というのではなく強制的な隠居であった。
・命を奪ったわけでもなく、大名の隠居として牛活するだけの経済的な補償をしているから声を大にいうような親不孝ではな
い、と甲州人たちは昔からいっているが、現実の面から見るなら、たしかにそうにちがいなかった。
・だが、一般には、親を追放した信玄としてひどく悪評をかった。
・この無血クーデターの三日後の十七日、信玄は躑躅ヶ崎の甲府館に入り、二十八日には相続披露の祝儀をとり行なった。

 






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最終更新日  2020年06月16日 17時55分40秒
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