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2020年06月18日
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カテゴリ:俳諧人物事績資料
江戸俳諧の時代的背景

 江戸時代も太平の世となれば、旗本や御家人ら並びに各藩士らは実務に携わる者以外は余剰人員となってくる。しかし幕府の法令で人員の削減も容易にできない。従って有能な者はす役職につくことができたが、撰二に洩れた者たちは、特別の事が無い限り冷や飯を食う事になる。大身の士はよいが小身の士は就職できないと死活問題になってくる。将軍家直属の旗本や御家人は江戸幕府開府以降、その構成が定められており、代々の将軍により多少の増減が有ったものの、後には旗本御家人株の売買の対象になるほどだった。太の世の中のなると、前出の如く武を以て常時出仕できる者、役職に就ける者は限られて武の鍛練は義務付けられているが、特別な時以外は出仕は叶わない訳で、小身に家の者は俸禄を貰っていても手当がないから生活は厳しい状況であった。また俸禄の額により格式が定められているから大変である。仕事のない武士は年に数回の義務出仕以外は殆ど仕事無い。こうした者達は「小普請組」という職分に入れられて、仕事にありつくためには伝(つて)を頼んで就職運動をする外は、内職に精を出す者、勉学に励む者、諸芸に走る者など生活を営むための生き様は雑多であった。分かり易く云えば、「収入は少なく出費は多い」武家の嗜みとしての余技や対面上の出費は厳しく内情は火の車であった。運良く奉職できた馬光の年齢を例にとれば、40才という当時では初老とされる年齢で、西の丸警護の小十人組という番士に採用された。この様な例は非常に多かったのである。
 ではその勤務状況はと云うと、今日のサラリ-マンの様に毎日出勤するのでなく、一日出勤すれば一日ないしは二日休みとなる。つまり職務らに特別有能な者以外は、比較的に自由な時間が多く持てたのである。多くの自由時間の処理は各自の考え方で色々あり、武士の嗜みとされる武芸や学芸・茶などに、遊芸など余技に励んだのである。この時代は無骨一辺倒では世を渡れなくなっていた。教養とは書や学問・和歌だけでなくて、遊び芸一般にまで及び、この為に一芸に秀でるために武士達は必死であった。一例を上げれば、幕府方の御茶坊主と云う職分の者は、今日のホスト的なものとするのはそれと異なり、故事来歴から称諸芸一般、行儀作法など全般に亙って身に付けなければ、その職を全うする事ができなかった。この様な背景をよく理解していないと当時の武士が何故勤務の間を縫って諸芸に励んだかが理解できない。中にはその芸に秀でたものが宮仕えから離れて、その芸の師匠になり職業とした者も居た。





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最終更新日  2020年06月18日 20時10分04秒
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