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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年06月18日
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<徐福について>秦国徐福集団の渡来と業績(紀元前219)

 

炎帝神農氏一男、黄帝有熊氏四男、忠顕氏より第八十八代の徐福は、秦国の始皇帝に仕え、勲功多く書記長官に昇進致したが、無見顧所と、始皇帝を内心批判していた。始皇帝は古代中国を統一し、秦国三年の春、東国を御巡幸の時、朝峰山の峰に登り、東海の大海に遊び、蓬来山島を遠望、蓬拝して皇城に帰られた。

時に、これ吉幸なりと、徐福は始皇帝に偽り申し上げた。

「東海の蓬来山島は、全世界の大元祖国にして、大元祖々神の止まり座します御国にして、この蓬来山島には、長生不死の良薬あり、この良薬を用い給えば、千万歳の寿命を保つ良薬と伝うこの良薬を求め来るには、大舟八十五船造り、老若男女五百余人に金銀・五穀・塩・味噌を沢山船に積み、十年または、十五年かかっても、きっと求めて帰ります」

ところが、始皇帝は、これ吉幸なりと、その長生不死の良薬を、どうしても求めるよう、信任厚い徐福に直ちに命令した。

こうしたことから、徐福と眷属は、伝説の蓬来島の蓬来山、つまり日本列島へ渡来することになった。

徐福の家系は、代々学問の家として世襲し、徐福より七代前の祖先の子路は、孔子の門人筆頭者として有名であった。

眷属は百工、つまり各種の技能者を選び、一族を合わせ、老幼男女五五八名(今日に残る名簿により)秦国二十八年六月、船団は東海の蓬来島の蓬来山を目標に、中国大陸の山東半島より出発した。

時に日本国は、孝霊天皇七十二年とあり、筑紫島(九州)から紀伊の熊野山まで来たが、伝統の蓬来山は見当らず、しばらく熊野に滞在した。そのうちに、東海に富士山を見付け、住留家浜(駿河)にて上陸。西富士の水久保駅、川口駅路を通り、北麓の家基都駅へ到着した時は、孝霊天皇七十四年(bc217)十月五日とあり、一同は富士北麓の各地へ分散し土着した。

<註>

家基都(かきつ)は『延喜式』に、加吉と当て字で書いている。

徐福は家基都( 富士吉田市)の中室へ土着し、神武天皇によって定められた三十六神戸の人びとの口碑、口談、伝一言、各々の覚え記録書を集め、日本国の創始時代、つまり、今日にいう縄文中期から神武天皇の時代に至る、およそ二千年間の歴史を集大成した。日本国史を纏め、文字の文化をもたらし、さらに眷属による産業への寄与などその功績は顕著であり、人皇八代孝元天皇七癸巳年(西暦紀元前208)二月八日、中室にて徐福は死亡し、天照大御神を祭る太神宮のかたわらに、手厚く埋葬された。後、徐福大神と祭られ、現存する。

<註>

紀伊国の 新宮市 にも徐福の伝承と墓があるが、当所が本宮であり、徐僧の二男、福万が五十人を引き連れ、熊野へ分霊を持参し移住したので、地名を新宮という。<『探求幻の富士山古文献』>

 

日本に於ける徐福伝説(『徐福弥生の虹桟』羅其湘氏・飯野孝宥氏共著)

<富士吉田>

山梨県富士吉田市 には、徐福の遺跡として福源寺と徐福祠がある。羽田氏によれば、秦の始皇帝が蓬莱の国日本へ徐福を遣わして不老不死の妙薬を探させたが、徐福はその途中で不死山(富士山)にて他界してしまった。そして、三羽のつるとなって舞い上がり、そのうち一羽が死んで福源寺の地に落ちてきた。それを葬ったのが鶴塚であると伝えられている。福源寺の山門の右側の鶴塚碑は江戸時代以前の建立で、その碑文には、「峡州(甲斐国)に鶴郡(都留郡)有り。其の地、南は富岳の趾(フモト)に接す。相伝う、孝霊帝(人皇七代)の時、秦の徐福結伴して薬を東海の神山に求む。ここに到るにおよび、以為らく、福壌の地なりと。ついにとどまりて去らず。のちに鶴三隻ありて居る。恒に遊びて郡中にとどまる。時人以て徐福らの化するところとなす。」とある。なお、市の東部の小明見地区にある明見湖周辺の小丘に建つ甲子神杜の境内に徐福の祠がある。

 <河口湖>

山梨県河口湖町 には浅問神杜の末杜である徐福社があり、機神(紡績の神)として信仰されている。町誌には、「----聞くところによると、倭国の蓬莱山(富士山)には不老長生の薬草が生えている。直ちに家臣徐福に命じて目本に渡らせることになった。徐福は命に従って海を渡り、紀州那智が浦に上陸、熊野三山を巡って富士山中に踏み入ったが、欝蒼と繁る原生林の山腹には小路一つなく、いくら探しても薬草は見当らず、始皇帝は暴君であっただけに、とても手ぶらでは帰国できないことを悟ると、引き連れてきた童子三〇〇~五〇〇人を奴僕として河口湖の北岸河口の里近くに荘園をひらき、みのりを朝廷に捧げ、供の翁(おきな)の娘をめとって帰化し、土民に養蚕・紡績・農法などの術を教えたから、ついに湖畔で果ててしまった。」とある。

 <山中湖長池>

山梨県山中湖村長池地区の伝承によれば、長池はその昔、長命村ともいい、秦の徐福が不老長生の薬草を求めてこの地に来たり、子孫が住み着いたという。また、徐福は始皇帝の三年六月二十目に中国を出発し、海上を漂うこと百日余り、紀伊国へ上陸し、造船、捕鯨その他当時の最新技術を教え広めたのち、不二蓬來山こそ目的の地であることを知り、海路をとって駿河湾島原に上陸した。高天原呵祖谷に到着したともいっている。これとは別に『甲斐国志』には、「現在、その子孫は秦氏と称し、河口、吉田の師職(神主の位階)一の人に秦または波多、羽田姓を名乗る家が数家ある。」と記載され、徐福の子孫であると伝えている。






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最終更新日  2020年06月18日 20時27分03秒
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