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2020年06月18日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉の甲斐行きについて 研究者の論議 

 

一、岩田九郎氏『芭蕉の俳句俳文』

 仏頂和尚の弟子六祖五平を頼る。翌年夏まで逗留。 

二、小宮豊隆氏『俳句講座』

 同内容 

三、山本健吉氏『芭蕉』                   

 同内容 五月まで滞在。 

四、荻野清氏『俳諧大辞典』      

 塒麋に伴われて谷村逗留。 

五、飯野哲二氏『芭蕉辞典』             

 同内容 仏頂和尚の紹介で五平の許に身を寄せる。    

六、穎原退蔵氏『芭蕉読本』

 『随斎諧話』を引き、夏目成美の学識を重視する。   

七、目黒野鳥氏『芭蕉翁編年誌』  

 三、四月の交り、六祖五平を頼る。 

八、高木蒼梧氏『俳諧人名辞典』  

 甲州谷村の城代家老高山繁文(麋塒)を頼る。 

九、『校本芭蕉全集』

 罹災後のある時期、甲斐谷村の高山麋塒(秋元家家老)を頼り、翌年五月頃まで逗留する。   

十、高木蒼梧氏

『俳句講座』      

 杉風の家系には姉は居ない。万福寺は初狩村では無く勝沼町等々力村である。 

十一、勝峯晋風氏

『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒の研究』 

十二、萩原井泉水氏『芭蕉風景』  

 芭蕉庵焼失後、彼は一時、二本榎の上行寺(其角の菩提寺)に〔杉風研究家〕厄介になり、間も無く杉風の紹介でその姉の所の逗留する。『  芭蕉略伝』による。そこに六祖五平というものが居て、その家を宿としたと言う説もある。としている。      

十三、麻生磯次氏

 『芭蕉‐その作品と生涯』 芭蕉は堀江町の其角の家に身を寄せたり、その菩提寺である本榎上行寺に厄介になった。(中略)芭蕉は谷村の麋塒の次男五兵衛の所に宿し杉風の姉にも世話になった。

十四、井本農一氏

 『芭蕉評伝』 谷村秋元国家老の高山麋塒を頼ったことと思われる。 

十五、安部正美氏

『芭蕉伝記考説』 谷村流寓説は何の根拠も無く、六祖五平は全くの架空もの。   

十六、杉浦正一郎氏

 『芭蕉研究』 六祖五平は高山麋塒の次男と思われる。麻生氏と同説。 

十七、菊山当年男氏

 〔芭蕉研究家〕 庵類焼後、直ちに甲斐に逃れた芭蕉は『虚栗』の跋文を書いているから甲斐からは五月頃江戸へ帰ったらしい。    

 

前述、赤掘文吉氏『都留高校研究紀要』の論述のまとめとして、 

 

 「芭蕉は麋塒を頼って谷村に来た。その根拠『真澄の鏡』所集、麋塒の子息が書いた〔芭蕉真蹟軸箱の裏書〕他による、とされ六祖五平を頼ったとされる『随斎諧話』・『奥細道管菰抄』の説は高山家の五平衛や高山伝右衛門繁文の次男五平衛が麋塒と混同され芭蕉歿後八十年或いは百二十五年の後に六祖五平として登場したと思われる」。赤堀氏は諸説や谷村・秋元家の研究を通して右記のように結論を出されて居る。そして学会には認められなかった説として次の郷土史家(不詳)の研究文を揚げられている。 

 「先年郷土史家の手により、都留市谷村の桂林寺で五平家の系譜を記した過去帳が発見され、小林友右衛門という人が〔六祖五平〕であることを確認し桂林寺の保存されていた古文書を調べていくうちに、麋塒から友右衛門に宛て芭蕉の世話を依頼した手紙の切れ端が発見され、それに五平衛の文字が出ていて、小林家が初狩の旧家であり、五平衛桑と呼ばれる桑の木までも現存しているところから、五平衛の家が初狩に現存したと報道があったが学会からは認められなかった。」

 不思議の話ではある。文学や歴史の研究者はこうした民間の研究者の自説と離れた説は無視する事は常である。自説や自己の見識以外については無視する事で自説を守ろうとする習性があるようで、地域で踏査して研究して居る人達への暖かい配慮に欠けておられる。この説をどうして最もっと真正面から採り上げなかったのか、何の根拠もない推論より遙かに真実に誓い説を見逃して居てはいつまで経っても真実は解からない。     又『研究紀要』では最近(昭和四十三年頃)の話として「南都留郡中野村山中字〔堂の前〕のH家の祖先に五平衛という人が居り、旧家であり豪農であって、芭蕉が来て泊まったという事が山中湖付近の口伝として今もなお伝わっていて、菩提寺である寿徳寺の過去帳に微しても誤りなかろうと言う新説が出たがこれも断定するには未だ早急である」としてこの説も日の目を見ないで終わってしまっている。誠に寂しい限りである。    さて芭蕉の甲斐流寓の話に戻るが、小林貞夫氏・赤堀文吉氏の研究は他の文学者のそれよりも遙かに読む人の心に訴える熱い物がある。それは踏査と人生の有る部分を賭けた労作であるからで、こうした先生方でさえも事実が掴みきれない出来事が時間の経過と共に確定論となって行く。それも歴史なのだろうか。著名な先生方も思い違いや読み誤りもあると思われる。事実を示す新・真資料が出て自説と違っていたらそれを訂正する勇気と寛容な姿勢が必要であり、又、地道な地域歴史研究者の声を聞き受け入れる度量こそが大切であろう。 結局のところ芭蕉の甲斐谷村流寓年時の歴史事実を示す資料は確たるものはないのである。

 さらに、

十八、本山桂河氏

 一時甲斐の国に退遁し仏頂和尚の弟子六祖五平方や初雁村の万福寺に仮寓して越年した。云々

十九、吉本燦浪氏芭蕉は甲州に赴きて杉風の姉、又は仏頂の弟子六祖五平などを頼りていたりしが。

二十、沼沢竜雄氏

 天和二年の暮、江戸の大火にて芭蕉庵焼失の時、杉風の勧めにて、正月から五月頃ま

 で、初雁村の杉風の家に滞在、その間に東山梨郡等々力村万福寺にも仮寓、云々






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最終更新日  2020年06月18日 21時25分14秒
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