カテゴリ:松尾芭蕉資料室
芭蕉庵再建 甲斐に佗しい日々を迭っていた芭蕉は、天和三年の夏五月に江戸に帰った。江戸にいた門人等の懇請に依ったものであろう。大火後の江戸の跡始末も一片付した頃である。芭蕉は江戸に帰りはしたが、芭蕉庵は焼失していたし、門人の家などで厄介になっていたかも知れぬ。芭蕉の境遇に門人達はけ大いに同情したであろう。そこで有志の物が協力して芭蕉庵を再興することになった。その勧進帳の趣旨書は山口素堂(信章)が筆を執った。 成美の『随斎諧話』に 上野館林松倉九皐が家に、芭蕉庵再建勧化簿の序、素堂老人の真蹟を蔵す。所々虫ばめるまゝをこゝにうつす。 九皐は松倉嵐蘭が姪係なりとぞとして次の文を載せている。 「芭蕉庵庵烈れて蕉俺を求ム。(力)を二三子にたのまんや、めぐみを数十生に侍らんや。廣くもとむるはかへつて其おもひやすからんと也。甲をこのます、乙を恥ル事なかれ。各志の有所に任スとしかいふ。これを清貧とせんや、はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、たゞ貧也と、貧のまたひん、許子之貧、それすら一瓢一軒のもとめ有。雨をさゝへ風をふせぐ備えなくば、鳥にだも及ばす。誰かしのびざるの心なからむ。是草堂建立のより出る所也。 天和三年秋九月竊汲願主之旨 濺筆於敗荷之下 山 素 堂 「素堂文集」の文とは多少の異同がある。 かやうにして芭蕉庵再建の奉加帳が廻されたので、知己門葉々分に応じて志を寄せた。その仔細が『随斎諧話』に載っている。やゝ煩わしいことではあるが、転載して当時を偲ぶよすがとする。 五匁 柳興 三匁 四郎次 捨五匁 楓興 四匁 長叮 四匁 伊勢 勝延 四匁 茂右衛門 三匁 傳四郎 四匁 以貞 赤土 壹匁 小兵衛 五分 七之助 二匁 永原 愚心 五分 弥三郎 五匁 ゆき 五匁 五兵衛 二匁 九兵衛 四匁 六兵衛 三匁 八兵衛 五分 伊兵衛 二匁 不嵐 一匁 秋少 二匁 不外 一匁 泉興 一匁 不卜 一匁 升直 五匁 洗口 五分 中楽 五分 川村半右衛門 一銀一両 鳥居文隣 五匁 挙白 五分 川村田市郎兵衛 三匁 羽生 調鶴 五分 暮雨 次叙不等 二朱 嵐雪 一銀一両 嵐調 一銭め 雪叢 三匁 源之進 一銭め 重延 よし簀一把 嵐虎 一銭め 正安 五分 疑門 一銭め 幽竹 五分 武良 二匁 嵐柯 一匁 親信 (不明) 嵐竹 五匁 (不明) 破扇一柄 嵐蘭 大瓠一壺 北鯤之 かやうな喜捨によって、芭蕉庵は元の位置に再建された。再建の落 成は冬に入ってからのことであたろう。『枯尾華』に、 「それより、三月下人ル無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしばし、人々うれしくて、焼原の舊艸にに庵をむすび、しばしも心とゞまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。 雨中吟 芭蕉野分してに盥を雨を聞夜哉 (盥=たらい) と佗られしに堪閑の友しげくかよひて、をのづから芭蕉翁とよぶことになむ成ぬ。 と云っている。再建の芭蕉庵にも芭蕉を植えたことは当然と思はれるが、「芭蕉野分して」の句は焼失前の作であること既に述べた通りであり、芭蕉翁と呼んだのも焼失前であった。 『続深川』によれば、 ……ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて あられきくやこの身はもとのふる柏 といふ芭蕉の句がある。再建入庵後程なき頃の吟であろう句意は解すみまでも無かろう。 芭蕉は約半歳ほど甲斐の山家に起臥していたのだが、その間の句が余り聞えていない。芭蕉庵焼失といふ非常事件に遭遇し「猶火宅の変を悟り、無所住の心を発して」とまで云はれているのだから、悟発の句といふやうな優れた作があるべきだと思はれるのだが、それらしいものが傳っていない。前に奉げた麋塒、一唱と三吟歌仙の立向 夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉 は甲斐に行く途中吟と云はれている。夏の馬に乗って徐行してみる自分を畫中の趣と感じたので、旅路を楽しむゆとりの見える作ではあるが「夏馬の遅行」はふつゝかな言葉である。この句は風国の『泊船集』に「枯野哉」と誤っている。叉松慧の『水の友』に「画賛」として、 ……かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境より出て、何をむさぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ、三界流浪のもゝ尻、おちてあやまちすることなかれ。…… 馬ほくほく我をゑに見る夏野哉 となっている。これは後年に至りて芭蕉が自ら改作したものであるろう。 土方の『赤双紙』に ……はじめは 夏馬ほくほく我を絵に見る心かな といっている。兎に角改作したもので、 馬ほくほく我は絵に見る夏野哉 は蕉風の句である。 勢ひあり氷えては瀧津魚 芭蕉 この句は麦水の『新虚栗』に出ている。何丸の『句解参考』には 「甲斐郡内といふ瀧にて」と前書があり 勢ひありや氷杜化しては瀧の魚 勢ひある山部も春の瀧つ魚 を挙げて、初案であろうといっている。瀧が涸れて氷柱になり瀧壺も氷に閉ざされていたが、春暖の候になりて氷も消え、瀧登りする魚も勢ひづいたといふのであろう。語勢の緊張した、豪宕な句ではあるが、どことなく談林の調子の脱けきらない、寂撓りの整はない句である。 『虚栗集』 芭蕉が甲斐の山家から江戸に帰ったのは、天和三年五月であったが、程もなく其角撰著の『虚栗』が板行された。 芭蕪の政の終りに「天和三癸亥仲夏日」とあるから、五月の筆である。六七月頃に板行したのであろう。其角二十三歳の時である。その早熟驚くべきである。云々
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最終更新日
2020年06月19日 19時22分41秒
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