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2020年06月19日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉の谷村流寓と高山糜塒(ビジ) 

『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による・一部加筆
 
市内宝鏡寺の参道には
「目にかゝる時には殊さらに五月富士」(目にかゝる時やことさら五月富士)また円通院には
「旅人と我名よばれんはつ時雨」(旅人とわが名呼ばれん初しぐれ)
という二基の芭蕉句碑がある。いずれも文化年間(180617)に建立されたものであり、当時の市域に暮らした人びとの俳聖芭蕉への熱い思い、そして俳諧熱のほどがうかがえる(詳しくは後述)。
 芭蕉および俳諧にたいするこうした思いは、現在の都留市民にも受け継がれており、昭和五十八年(1983)一九八三(昭和五八)年には都留市俳句連盟主催の「芭蕉来峡三百年祭」を記章する句碑が楽山公簿に、また富士女性センター前には「芭蕉流寓之跡」を示す碑が、それぞれ建てられた。さらに平成四年(1992)年度の全攘健康福祉祭(ねんりんピック)が山梨県で開かれた時、日頃から俳句創作活動の盛んな当市においては「ふれあい俳句大会」が催されている。このように都留市が「芭蕉の里」らしい街づくりを進め、市民が熱心に俳句創作活動に取り組む、その背景のひとつに「芭蕉の郡内流寓説」がある。
 芭蕉のいわゆる「郡内流寓」は、天和三年(1683)と貞享二年(1685)の二回が想定されている。天和三年の「流寓」とは、前年末の江戸大火(世にいう八百屋お七の振袖火事)で焼け出された芭蕉が、弟子である秋元家の重臣高山伝右衛門こと糜塒や高山五兵衛と推測される白豚(はくとん)を頼り、都留に滞在したというもの、貞享二年の場合は、「野ざらし紀行」の旅の帰途に立ち寄ったというものである。郡内での潜在端には、谷村税と初狩(大月市)説があり、さらに潜在期間についても、三~五か月に及ぶ長期「流寓」説と、谷村を拠点に甲州国地域や信州(長野県)へと足を伸ばす「甲州紀行」だったするさまざまな見方がある。また芭蕉は、「野ざらし紀行」において蕉風俳諧を確立したとされることから、紀行の直前の「郡内流寓」は「芭蕉が芭蕉らしい句を作るスタート、助走になっている」という評価もみられる(松本武秀「芭蕉俳諧の展開と郡内流寓」、「蕉風の漂流と芭蕉のさと都留」所収)。
 以上のように芭蕉の「郡内流寓」にかんする資料は少なく、さまざまな角度からの推測はなされているが、確実なことはほとんどわからないというのが実情である。―(中略)―
 





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最終更新日  2020年06月19日 19時28分21秒
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