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2020年06月20日
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カテゴリ:武川衆資料室
白州町花水 清泰寺(せいたいじ)曲淵勝左衛門(まがりぶちしょうざえもん)

 清泰寺を開いたのは、甲斐源氏の祖新羅三郎義光が大治元年に開いたと「社寺記」に記してある。
 さらに同記によると開山は、当時の山梨郡積翠寺村輿因寺三世雲鷹玄俊和尚文明六年四月先宗天台退転に付き禅曹洞宗に改めた。
 また、文禄年中当村に住居する武田家の家臣、曲淵勝左衛門、同縫殿左衛門、同助之丞三代ともに当寺に葬られ、その墓がある。曲淵の末裔は当時江戸牛込御門内に住居していた。
 徳川家に仕えた曲淵氏は道中奉行や江戸奉行を歴任している。初代の勝左衛門の逸話は多く、剛勇ぶりが偲ばれる。(別記)
現在の花水は、合併までは長坂町に所属し、合併により白州町となった集落で、由緒書では「甲斐国巨摩郡逸見筋片颪村霊長山清泰寺」
とある。
 この寺には「曲淵」地名に関する伝説がある。
 開山当事、この村落内に「座禅石」があり、釜無川に面した場所に曲淵と云淵に大蛇住み此里の人に害を与えていて、付近には人が住めなかった。こうした話しを聞いた雲鷹和尚は曲淵を尋ね淵に向かって「毒蛇降伏禅定」に座禅を行った。雲鷹和尚の読経は続きそれは夜半に及んだ。すると淵から大蛇が飛び出した。そのさまは凄まじく嵐の様相を呈して、大蛇は裂けた口からは炎を吹き上げて怒りを露わにした。雲鷹和尚は大蛇に向かって
「声色不干眼耳」・「天地本自同根」・「時節因縁現成」・「須転身鎮仏門」
 と、一偶を下し杖を以て一棒に打却すると大蛇は、たちまち大蛇は天に向かって消えていった。
 雲鷹和尚「不退禅定三昧」に座して同五日夜半に至った。すると淵の一帯が白昼のようになり、香花を捧げ持って二十才くらいの美目麗しい女性が二人来た。和尚は、「大慈大悲の教化に依って五すい三熟の苦を免れる願いは血脉(けちみゃく)を授け、われ形体を、解脱し給ふ」と。
 雲鷹和尚が二人の女性に諭すように、
 「あなた方は元の姿にて来るべし
 と話した。この女性たちは、先ごろの大蛇の化身であった。女性はたちまち大蛇が揃ってきて、心改めたお礼を述べた。
 「三皈戒」を唱へ「清脱泰脱」と両蛇へ血脉を授け礼として直に天上にのぼり、空中にて「天上遂仏果」と呼び蛇の握捧である雲板という法器を落し、梢雲中にてこの寺「金千倍朱千倍漆千倍三千倍」「朝日さす夕日輝くその樹の基へ吾誓い此寺の守護の神とならん」と、大蛇は去って行った。
 この雲鷹和尚は「座禅石」と「雲板蛇」は寺宝として代々大切にしていた。
 また、毒蛇降伏の時用いた。「青地金?(らん)」の袈裟打蛇の柱杖水晶の珠数は、今(江戸末期)に至っても寺代々の宝物なりとしている。(これが現存するかは定かではない)
 気になるには、「清脱泰脱」の言葉で、「(清)--脱--(泰)-脱」の()内を寺号としたともとれるし、清泰の由来を大蛇の話に託したともとれる。

 この曲淵氏の発祥については異説もある。それは中巨摩郡昭和町押越に関する話である。
 押越村は枝村の名で、「甲斐国志」には
 此辺ハ慶長年間、承応年間の頃までは釜無川の河涯にて、(略)域内に大なる淵ありて地名となす。曲淵荘左衛門は彼の淵に住む蛇の子なりと記す。妄談なりとてとるには足らず。

 (略) 一条ノ過去帳に「明応四年七月習妙欽禅尼曲淵母逆修とあり、曲淵圧左衛門は逸見筋片颪村に於テ慶長中(徳川)采地を賜り、彼所ニモ地名(曲淵)ありて本領なりという。
  本村本妙寺に古碑あり。享保中曲淵下野守本州勤番支配なりし時、ここに詣でて先祖の祀りをなすという。
  一書には、本妙寺は曲淵庄左衛門吉虎が建立したもので、母をここに葬るという。
  また清泰寺と曲淵氏について
 曹洞宗正覚寺末黒印五百四扮四坪・本尊薬師
・ 寺記云黒源太清光ノ子逸見四郎清泰開基、(略)地顕曲淵荘左衛門吉景(略)文禄三年十一月二十二日没ス、同縫左衛門吉清、元和五年九月朔日没ス、同助圭丞吉重、寛文十七年七月八日没ス、同助之丞、寛文八年十二月十四日没ス、各牌子アリ。云々

松平定信・曲淵景露  蜑の焼藻の記(森山孝盛) 

寛政三年五月、(定信が)御目付になりて、其年のことになりけり。曲淵景露朝臣(出羽守・初勝次郎、于レ時御目付)御作事奉行になりて、西丸吹上御門の升形の塀を修造するに、其比は定信朝臣の計ひにて、御城郭といへ共、故なき堀圍なんどは廃し捨られ、又は御模様替とて、昔より板塀なりしを、此度は損益を考へて、練塀に作りかへて、長き所も直に短くして、無レ害は改め作られて、専に費用を省かるゝことになりにしに彼吹上御門の升形の時(俗に高石垣とて、外桜田御門よりは高くそびへて見ゆる肝要な塀なり)練塀にすべき由沙汰あるにより、定信朝臣に逢てかゝる事承り候ひぬ。彼所は御郭外より見付第一の所と云、彼所は御城外より塀は元来矢狭間筒狭間を切候こと勿論に候得共、御治世の御在城左迄には不レ及ゆへか、御外郭の塀何処にも狭間の事に見当たり候はね共、既に筋違浅草両御門の升形には、于レ今隠し狭間を切て候なり。云々





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最終更新日  2020年06月20日 17時32分23秒
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