2313225 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年08月15日
XML
カテゴリ:与謝蕪村資料室

与謝蕪村 『俳文学大辞典』一部加筆

 

享保元(1716)~天明三(1783)六八歳。

谷口氏、のち与謝氏。墓所は京都市左京区一乗寺才形町の金福寺境内。

【閲歴]

生誕地は、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)が故郷であると自ら述べる。また、出自は村長もしくは郷民の家といい、母は丹後国与謝地方出身という伝承があるが確証はない。幼少期の詳細は不明ながら、早くから絵画への関心が高く、狩野派の絵師に手ほどきを受けたという。

二十歳前後に江戸へ下向、はじめ沾山に入門したと伝えるが、確実なことは、元文三年(1738)、二三歳の春、巴人の歳旦帖に宰町号で蕪村の句が見えることである。巴人は一〇年に及ぶ京滞在を切り上げて江戸に戻り、日本橋石町に夜半亭を構えて俳諧活動を再開、そのころ蕪村が入門・同居したといわれる。元文四年、号を宰鳥に改める。寛保二年(1742)六月、師巴人が没すると、以後一〇年間北関東に流寓し、土地の俳士たちと深い交わりを結ぶ。寛保四年、下野国字都官で歳旦帖を編み、初めて「蕪村」と称する。

当時蕪村の俳諧交流圏は江戸座の存義系に近接し、その関係は後年まで続く。また、陸奥国行脚を試みたり、折々江戸にあっては服部南都の議定に列したこともあるという。絵画は主に「四明」の号で、狩野派の影響を受けた町絵師風の画作を残している。宝暦元年(1751)八月、京都の巴人系俳人やそのゆかりの人を頼って上洛するが、当初は京中の寺社を訪ねては先人の名画を見て絵画修業に専心したようである。宝暦四年夏、丹後地方に赴き、宮津や与謝で画作に励み、後年の南画の雅趣と俳画の酒脱の基礎をつくる。またその地の俳人との俳交に楽しみを見出す。宝暦七年秋に帰京、まもなく結婚し、そのころ姓を与謝氏とする。画作では、山水画・歴史画の大作をものし、花鳥画に写実絢爛の画風を見せる。明和三年(三六六)夏、大祇・召波らと三業社を結成する三業社句会を再開、俳諧に熱を入れる。そして明和七年三月、歳で巴人の夜半亭を継承して俳諧宗匠の列に加わる。翌八年、歳旦帖『明和辛卯春』を刊行、京夜半門の披露目とする。

画事でも同年、池大雅との競作『十便十宜図』を仕上げて南画の双壁と目されるようになり、画俳の名手となる。ところがその年、長く俳諧の盟友であり支持者であった太祇と召汲が相次いで没する。安永期(1772~81)には月渓・月居など有望な新人が門人に加わり、夜半門は活況を呈していく。一方、各地から入洛した有力俳家との交際も活発になる。夜半亭の活動の成果は、明和九年の『其雪影』、安永二年の『あけ烏』、同五年の『続あけがらす』などとなって示される(いずれも几董編)。安永六年春から蕪村俳諧の絶頂を極める数々の大胆な試みがなされる。まず春興帖『夜半楽』は全体

として懐旧の想いに彩られた書で、特に集中の俳詩「春風馬堤曲」は郷愁の思いを入念な趣向で包み込んだ、内容・形式とも奇抜な傑作である。四月に始められた夏行詠作『新華摘』は、其角の『花摘』の先例に倣って亡母追善を意図したものといわれる。またこのころには俳画の独自性を確立、その技法を駆使して、『おくのほそ道』や『野ざらし紀行』など書画混然の俳画の傑作を描く。さらに安永七年ごろから「謝寅」の画号で日本的風趣を帯びた南画の傑作を陸続と生み出す。安永八年には凡董を中心とする俳諧修業の場に宗匠として参加、翌九年、几董と書簡の往復によって両吟歌仙『もゝすもゝ』を完成するなど、俳諧への熱意も衰えことがなかった。天明三年春、暁台主催の芭蕉百回忌取越句会に出座、秋に宇治行を果たす。しかし、初冬に召波一三回忌集『五車反古』に序文を書いたころから病床につき、一二月二五日未明、六八歳の生涯を終えた。

 

蕪村の作風 

 

蕪村の俳諧上の出自は江戸にあった。師の巴人は其角・嵐雪の弟子であり、特に其角系の江戸座との関係が深く、蕪村の俳諧も江戸座風であった。その傾向は北関東流寓時代、上京以後にまで及ぶ。したがって嘯山の指摘(『俳諧古選』)のごとく、その俳風は江戸風を色濃く持っていた。淡々や巴人がすでに江戸風を持ち込んでいた京俳壇は、そのような蕪村を受け入れる下地を十分に作り上げていた。宝暦一三年の芭蕉七〇回忌を契機に、享保(一七一六~三六)以来の古文辞派流行の影響下、芭蕉復興熱の高揚が全国的なものとなり、蕪村も芭蕉を尊崇することは人後におちなかった。

 

しかし都市系俳壇を根にもつ蕪村は、景気一辺倒で無趣向、安易に蕉風を唱える地方系蕉門には批判的であった。画俳両面の活動の中で文人的視野を身につけていき、それが蕪村のいわゆる離俗論の基礎を形成し、かつ俳諧に多面性をもたらすことになる。

また発句の大半が句会での題詠・探題句であったことは季題的俳趣を醸し出し、かつ想像性豊かな作を生み出す要因になる。

 

以上のような俳歴・俳壇的風土を踏まえて、蕪村の句の特徴を以下順不同に九つに分類してみる。

 

一、 人事性。人事句を得意とする江戸座の影響。

例句「酒を煮る家の女房ちよとほれた」

二、 物語性。人事句ではあるが、特に蕪村の手腕の冴えを示す小説的広がりを持つ句。

例句「御手討の夫妻なりしを更衣」

三、 童話性。

例句「猿どのゝ夜寒訪ゆく兎かな」

四、 軽口性。江戸座風の言語遊戯を含むもの。

例句「姓名は何子か号は案山子哉」

五、        滑稽性。蕪村の酒脱ぶりを表すもの。

例句「水桶にうなづきあふや瓜茄子」

六、        写実性。画家の観察眼を思わせるもの。

例句「白露や茨の刺にひとつづゝ」

七、        古典性。日本・中国の古典に取材しながら

強い俳諧性を見せるもの。

例旬「易水にねぶか流るゝ寒かな」

八、 浪漫性。特定の古典によらないものの、

幻想味あふれる句。

例句「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉」

九、 二重性。

一見叙景句のようで背後に本旨を隠した趣向の句。

例句「山吹や井手を流るゝ鉋屑」

 

【蕪村・影響】

 

蕪村の死後は弟子の几董が夜半亭を継承するが、寛政元年(一七八九)の急死以後中核を失いまとまりを欠くようになる。しかし、俳壇の蕪村への関心は、『蕪村翁文集』出版、『蕪村句集』重版、蕪村仮託書『俳諧三十六歌僊(せん)』出版などにより連綿と続いていく。

 

ただし、蕪村の真価は明治期の正岡子規らの再評価を待たねばならなかった。その後、俳人だけでなく島崎藤村や萩原朔太郎らの詩人たちも蕪村を称揚するようになる。また、頴原退蔵や河東碧梧桐らの努力で画・俳の作品が多く発掘され、現在の蕪村学の基礎が築かれた。

 

【蕪村・編著】

 

撰集『寛保四甲子歳旦歳暮吟』

『明和辛卯春』『此ほとり』『むかしを今』

『たまも集』『芭蕉翁附合集』『夜半楽』

『新華摘』『もゝすもゝ』『花鳥篇』

句集『蕪村句集』『蕪村遺稿』(未刊)

『蕪村自筆句帳』(稿本)

『落日庵句集』(稿本)

『夜半叟句集』(稿本)

文集『蕪村翁文集』

追善集、一周忌『から檜葉』(凡董編)

一三回忌・几董七回忌兼修『雪の光』(紫暁編)

一七回忌『常盤の香』(同)

参考 尾形功『蕪村自筆句帳』(昭49

清水孝之『与謝蕪村の鑑賞と批評』(昭58

『穎原退蔵著作集』 13(昭58

『蕪村全集』(平4~)

 

 蕪村遺稿

 

 俳諧句集。

『蕪村自筆句帳』から『蕪村句集』未収五八〇句を抄出したもの。『蕪村句集』の後編にあたる。享和元年(一八〇一)四月、大阪の塩屋忠兵衛が開版を出願したが、未刊に終わった。

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年08月15日 08時20分05秒
コメント(0) | コメントを書く
[与謝蕪村資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X