2295109 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020年08月23日
XML
カテゴリ:歴史さんぽ
編年体日本古典文学 ~天智九年(670)
『国文学』昭和52年 2月臨時増刊号
編年体日本古典文学~天智9年
  学灯社
   稲岡耕二氏著 
【略歴】東京の滝野川に生まれる。
旧姓和田。第一高等学校卒業、東京大学国文学科から大学院へ進学。
1956年、稲岡良子と結婚、稲岡姓となる。高校教師を経て、
1963年、武庫川女子大学専任講師、
1965年4月1日助教授。
1966年、助教授。
1967年、東大教養学部助教授、
1975年、教授。
1985年、文学博士、論文の題は「萬葉表記論」。 
1990年、定年退官。上智大学教授、
2000年退職。
★ 『万葉集』が専門。主に『万葉表記論』などの著作において、いわゆる「柿本人麻呂歌集」に見られる特殊な用字法を、国語表記史上の問題として論じた学説などによって知られる。
一部加筆 山口素堂資料室
★ この期の特記事項
* 最古の文章。
* 十七条憲法制定される。
* 「三経義疏」成る。
* 遣隋使派遺される。
* 天皇記・国記等書かれる。
* 犬化の改新行われる。
* 近江朝漢文学の隆盛。
 文字に記録される遥か以前から、口から耳へという伝承によって、宜(の)り、語り、歌われていた言葉は、呪詞や氏族の歴史や歌謡として、人々の生活のなかに生き生きとその生命を保ちつづけた。
それは、いわゆる文学以前の文学と考えられるもので、素朴な繰返しや類型性に富み、後の記載文学に見るような復雑華匿な綾のある言葉ではなかったが、共同体の人々の生活を規制し、あるいはその活動を促進することに役立っていた。
 しかし、右のような記録以前の形をわが国の史料のなかから遡及的に求めることは、きわめて難しい。せいぜい記紀風土記の神話や説話を通し、あるいは記録に残された枕詞や諺などを通して、想像するにとどまる。
記紀や風土記には多くの伝承の物語、歌謡の類が含まれているが、それが今見る形に成書化されたのは奈良時代のことで、部分的に古形を残しているとは言え、大きく変改を受けたことが想像される。
 「出雲風土記」意宇の国引きの詞章は、出雲の人々によって伝承された国作り物語りの一つであり、その形式・構造・律調は、それが語られた文学であることを如実に示している。ただ、内容から言って一般民衆の伝えたものというより、国造層に奉仕する語部によって制作され伝えられたものと考えられ、かつ、詞章の完成された部分と旧辞的な世界との質的な相違は、語部の歴史の多面性や出雲の歴史の復雑さを示している。
 歌謡にしても同様に復雑な問題を含んでいる。来目歌(久米歌)は、その名の示す通り久米氏によって伝承されたものであるが、元来久米氏の族長の、大和朝廷への忠誠を示す歌謡であったものが、のちに楽府で奏せられ、さらに雅楽寮の歌曲として歌われるようになると、その生態や意義にも少なからぬ変化が生じたと見られる。歌詞にしても、文字による記録か、歌謡の原形態を保存するとは断定しえない。久米歌は宮廷歌謡であるが、そのほか民謡(土謡)・芸謡など、記紀歌謡のなかに、いわゆる個人の抒情歌とは異なった、集団生活の現実的要請にこたえる歌が多く見出される。
抒情以前の抒情とも民族的抒情とも呼ばれるこれらの歌謳が、のちの創作抒情歌の母胎となった。
 わが国の記録にのこされた最古の文章として、五世紀なかばと推定される船山古墳出土の太刀銘があげられ、つづいて允恭朝のものとされる隅田八幡の人物画像銘があげられる。これらは渡来人の記したもので、漢文体の文章であることが、初期の文字使用の実態を推測させる。
ずっと下って推古朝になると「池辺大宮治天下天皇、大御身労賜時……」というように、積極的な和文表記の特徴を示すものが見られるようになるし、以後、白維二年の法隆寺観音像造像銘や天武十年の山名村碑文にも同様なものがあるので、推古朝から天武・持統朝にかけて、和文を記す技術を漸く手に入れ
ることができたと考えてよいのだろう。反正朝から二世紀を経ている。
最近藤原宮址から発掘された木筒に宣命大書体の書式が見られるのも、右のことを裏付ける。
 文字の使用に見られる意識・技術の発達は推古朝における文化的自覚あるいは国宗意識と無縁ではなかったであろう。冠位および憲法の判定や遣隋使の派遣、「三経義疏」の述作など、のちの大化改新とつながる機運が見える。
天皇記・国記あるいは臣連伴造国造百八十部・公民などの本記が推古二十八年(六二〇)に記されたというのも、これと関連する。
 「万葉集」巻一の前半に収められた歌には、宮活の歌謡として伝えられたものが少なくないと思われる。巻頭の雄略御製は後加された可能性もあるが、舒明朝の望国歌や宇智野遊猟歌がそれぞれの儀礼に際して
歌われたものであろうし、以後天智末に至るまで、いわゆる初期万葉の長歌の大部分が、集団的儀礼を悍景に推測させる。
きわめて概括的に言えば、この時期の「万葉集」の歌には、前記載的な性格がまだ濃厚にうかがわれる。集団の意欲に満ち、儀礼の場に結びついた呪的な性格----融即的自然観や言霊の意識など----を保存する歌々の表現は、先に言った抒情以前の歌の性格に通ずるし、定型に整備されないその形や、民謡にも関連の深い発想や詞句にも、口誦の歌謹の伝統が指摘される。
もちろん、そうした中に徐々に個性化へのきざしを含むのであって、異国の文化に接触し個の自覚を深めていったこの期の過渡的な在り方がそこに見える。
 喪歌と挽歌の歴史の相違も、歌謡から抒情詩への飛躍の大きさを教える。前者はヤマトタケルの物語に見え、天皇の葬に歌われたもので、葬礼を管掌する土師氏の伝えたものと解されるが、後者は抒情歌として孝徳朝以後漸く現われたものであった。
漢風を帯びた最初の挽歌が、渡来系の野中川原史満によって作られたことは、斉明朝の建王の挽歌が、これまた渡来系の秦大蔵迫万里によって伝えられたこととともに、抒情歌としての挽歌の置史の浅さを物語る。
 挽歌がまず渡来系の人々によって歌われたことにも象徴されるように、抒詩歌の出現には、海彼の文学との関わりが重要な契機となった。舶載された文物の影響はもちろんだが、直接に渡来人たちとの接触によって得られたものもある。天智朝における漢文学の隆盛は、百済の敗亡にともなって多数の亡命者を迎え入れたことと、密接につながることでもあった。
「彫章麗筆唯に百篇のみに非ず」と「懐風藻」に記されたこの時期の詩のほとんどが乱離に失われて、大友皇子の五言二絶のみ残るのは空しいし、また皇子の述懐の詩から想像して、失われた作品の大部分が画一的な太平と帝徳讃美の詩であったのだろうと推測されるにしても、多数の人々が文宇に頼って漢詩を制作しうる段階に到達した事実は、その後の和歌史が、創作抒情歌へ向け大きく転回することを予告するものであった。
 すでにこの期の末に、大津の宮の高楼では、額田王の春秋競憐の歌が披露され、のちの王朝の人々の趣味歌にまでつながる閑雅さを示していたし、同じ王の[近江の天皇を思ひて作る歌]が、六朝風の佳人秋風裡の幽艶な情趣を偲ばせもしていた。これらは中国詩に範を求め、宴席で人々の好尚に投ずる即興の作であったものと思われるが、口誦末期における次代の胎動と言うベきものである。  (稲岡耕二)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年08月23日 07時15分54秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X