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2020年08月24日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉の谷村流寓と高山糜塒(ビジ) 

 

『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による・一部加筆

 

市内宝鏡寺の参道には

「目にかゝる時には殊さらに五月富士」(正しくは、目にかゝる時やことさら五月富士)+

また円通院には

「旅人と我名よばれんはつ時雨」   (正しくは、旅人とわが名呼ばれん初しぐれ)

という二基の芭蕉句碑がある。いずれも文化年間(180617)に建立されたものであり、当時の市域に暮らした人びとの俳聖芭蕉への熱い思い、そして俳諧熱のほどがうかがえる(詳しくは後述)。

 芭蕉および俳諧にたいするこうした思いは、現在の都留市民にも受け継がれており、昭和五十八年(1983)年には都留市俳句湯量主催の「芭蕉来峡三百年祭」を記章する句碑が棄山公園に、また富士女性センター前には「芭蕉流寓之跡」を示す碑が、それぞれ建てられた。さらに平成四年(1992)年度の全国健康福祉祭(ねんりんピック)が山梨県で開かれた時、日頃から俳句創作活動の盛んな当市においては「ふれあい俳句大会」が催されている。このように都留市が「芭蕉の里」らしい街づくりを進め、市民が熱心に俳句創作活動に取り組む、その背景のひとつに「芭蕉の郡内流寓説」がある。

 芭蕉のいわゆる「郡内流寓」は、天和三年(1683)と貞享二年(1855)の二回が想定されている。天和三年の「流寓」とは、前年末の江戸大火(世にいう八百屋お七の振袖火事)で焼け出された芭蕉が、弟子である秋元家の重臣高山伝右衛門こと糜塒や高山五兵衛と推測される白豚を頼り、都留に滞在したというもの、貞享二年の場合は、「野ざらし紀行」の旅の帰途に立ち寄ったというものである。

郡内での潜在端には、谷村と初狩(大月市)説があり、さらに潜在期間についても、三~四か月に及ぶ長期「流寓」説と、谷村を拠点に甲州国中地域や信州(長野県)へと足を伸ばす「甲州紀行」だったとするさまざまな見方がある。また芭蕉は、「野ざらし紀行」において蕉風俳諧を確立したとされることから、紀行の直前の「郡内流寓」は「芭蕉が芭蕉らしい句を作るスタート、助走になっている」という評価も見られる(松本武秀「芭蕉俳諧の異聞と郡内流寓」、「蕉風の源流 芭蕉のさと都留」所収)。

 以上のように芭蕉の「郡内流寓」にかんする資料は少なく、さまざまな角度からの推測はなされているが、確実なことはほとんどわからないというのが実情である。とはいえ芭蕉の時代の当市域は、高山糜塒や白豚のような蕉門の弟子が存在していたことは確かで、彼らが都留郡に蕉風の最初の灯をともしたことは間違いない。これから追々縷縷述べてゆくように、近世中~後期の都留の人びとは、その灯を大事に育み、大輪の俳諧文化を闘花させてゆくのである。(中略)

 

芭蕉庵類焼と谷村への流寓

 

 天和二年(1682)十二月二十八日、江戸駒込の大円寺から出火した火事は、本郷、下谷、神田、日本橋、浅草、本所、深川まで類焼し、江戸の七分どおりを灰燼と化した。俗にいう「八百屋お七」で名を残した大火である。

 火はついに江東に及んで、深川の芭蕉庵も急火にかこまれ、芭蕉は潮に浸って危うく難をまぬがれたという。

 この時の状況を宝井其角は「枯尾華」の「芭蕉翁終焉記」の中で次のように述べている。

 

天和三年(正しくは二年)の冬、瀕川の草庵急火にかこまれ、潮にひたりをかづきて、煙のうちに生きのびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して、其次の年、夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければと、昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて、焼原の旧草に庵をむすび、しばしば心とどまる(ながめ)にもとて一かぶの芭蕉を植ゑたり。」

【割注】苫=菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い, 雨露をしのぐのに用いる。

この時、焼け出された芭蕉を谷村の自宅に引き取り、五ヶ月の間世話をしたのが、当時谷村城主秋元喬朝(喬知)の国家老高山傅右衛門繁文(俳名、糜塒)であった。

 芭蕉が甲州郡内に流寓したことは「枯尾花」をはじめ諸書に伝えられているが、甲州へどうした関係から行ったか、また、いかに生活したかについては、これを確かに語るものがなく、要するにいずれも「説」というべきものに過ぎなかった。

 これまでの谷村流寓説の研究とその疑問点については、樋口功氏が『芭蕉研究』の中で次のように誌されている。

「甲州で誰を頼ったかに就いては、『随斎諧話』(夏目成美)や湖中の『芭蕉伝』等には、佛頂和尚の下僕で、目に一丁字は無かったが、得悟が甚だ優れて、六祖と渾名(あだな)されていた五兵衛という者を、同門の縁りで甲州の山棲に訪ねたのであるとある。是等は他に徴すべき材料が無いので、確かとも謂い兼ねるが、亦疑うべき理由も無いようである。初狩村に杉風の姉がいたので、其所を便ったのであろうともいう。是もありそうな事であるが確かかどうか。    

又此の旅行の途中の吟とて

馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉

が伝わっている。是を立句として、脇は滝の句で糜塒(高山氏)一晶との三吟歌仙がある。又

胡草垣穂に木瓜も無家かな

の糜塒の発句に

笠面白や卯の実ら雨

の一晶の脇で、芭蕉との三吟歌仙もあるが、後者の句意から察すると、糜塒が一晶及び芭蕉を我が家に宿しての挨拶の句らしい。そこで糜塒は当時甲州の住人であったとすると、事実がよく疎通するのであるが、又疑問もある。『真澄鏡』に、糜塒の子某の語として

「亡父幻世(糜塒晩年の号)懇(芭蕉と)にて、甲州郡内谷村へも度々参られ、三十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す」

とある語気から察すると、当時糜塒が此の谷村に居たものとしか想はれぬが、又同書に芭蕉の真蹟を掲げて「上野国館林高山氏蔵」と記した処から見ると、少なくとも子某の代には館林に家のあった事だけは判る。すると其の父の糜塒を甲州住と一寸考えられなくなる。けれども右の文は、芭蕉が甲州へ行く序でも館林の高山氏宅に立寄った意味とはどうしても取れぬようであるが如何であるか。或は当時糜塒が甲州に居住していたのではないかと想うが、固より確かでない。」

と考究されている。

 文中の谷村での吟と言われる歌仙については後記するとして、この『真澄鏡』は、安政六年(1859)に守轍白亥が出版したもので、その中に糜塒の男が軸箱の裏に書いた文言の写しと、芭蕉や杉風が糜塒に送った書簡その他のものが誌されている。

 軸箱の裏書というのは、次の文言である。

「傅右衛門子息の認しもの也、今用なきに似たれど、いさゝか証とすべき事のあれば此処に出す。

 

俳諧の宗匠芭蕉桃青翁は、伊賀の国上野の士なり―(中略)―亡父幻世話にて、甲州郡内谷村へも度々参られご二十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す。但し鯉屋手代伊兵衛は桃青翁の甥なり、幻世世話して小普請手代になし、松村吉左衛門と名乗、本郷春木町に住す、其終る処をしらず。高山傅右衛門繁文俳名糜塒、後に幻世と改む。」

 著者白亥の記したものであり、軸箱裏書のほか、所収の尺牘(セキトク 文字を書きつけた短い木の札)に『上野国館林高山氏蔵する処の真蹟なり』と附記してある。編者白亥が親切心で記したものである。

 高山糜塒のことについては、昭和初期頃の一外、鳳二共編の『新選俳諧年表』に「高山氏、名繁文、秝傅右衛門、幻世と号す、芭蕉門人、甲州人、上州館林住」とあるのみで、糜塒の身分、職業等もわからず、また、館林の住人か、谷村の住人であったのか芭蕉研究家を大いに惑わしたのである。

 高木蒼悟氏は、伊藤松宇氏(古俳書の回収家として松宇文庫がある)が在世中(昭和十八年没)松宇氏所蔵の大嵐(明治三年没)の稿本「芭蕉年譜稿本」に糜塒のことがあり、したがって芭蕉の甲州流寓のことが明らかになることの示唆をうけて研究を始め、昭和二十三年頃から雑誌「小太刀」に発表し、芭蕉と糜塒の関係を明らかにしている。

 『芭蕉翁年譜稿本』には、江戸を焼け出された芭蕉が、甲州谷村に半年ほど流寓したのは、誰を頼ったかわからなかったのに、佛頂会下の六祖五平を頼ったという旧説を打破して、谷村藩家老高山傅右衛門繁文(糜塒)を頼ったこと、また、芭蕉参禅の師佛頂の伝記も誌るし、天和三年の条の冒頭に、当時の芭蕉と糜塒の関係を次のように記述している。

 

「世は元旦も元旦の心ならず、焚址の煙だにおさまらざる中なりけり、翁は浜島氏におはして、歳旦の吟だもおもひよせ玉はず、おりおり訪らう門子親友に対話し玉うばかりなり。爰に又秋元家の臣たる彼高山糜塒は、佛頂禅師会下のちなみといい、俳諧に師弟の因といい、ひとかたならぬ情ありて、翁焼庵の時もいちはやく此寓居を訪らい申し、其恙きをよろこびけり。さるに此頃帰国すべき事となりければ、翁に其よしを申て、焚後の乱雑なるを見玉はむより、しばらく甲斐の山中に遊び玉はんいかがおはすべき、事に物に不自由なるは山家のつねなれども、還閑寂の幽趣もありて、此粉々をわすれ玉はむ、さいはい帰国の日も近づけば、御供申候はんとすすめけるに、翁大に喜びて、主浜島氏にも其事をかたり、糜塒にしたがひ玉ふ。

 此事を杉風にも物語るに幸なるかな姉甲斐の国郡内初雁村に稼してあり、秋元の城下谷村にはほど遠からねば、をりくは其許へもおはして滞留したまへとぞ申ける。かくて約束の日にもなりければ、翁は糜塒に伴はれて甲斐の谷村へ趣き玉ふ。此高山糜塒は谷村の重臣にして、其居宅も広やかに、男女多く仕ひければ、ねんごろに翁をもてなし、官事の暇には禅を対話し、又俳を研究して倦む事なければ、翁もしたしく導き玉へり。糜塒が別荘を桃林軒と号せり。翁はつねに其別荘を寓居と定め、心ままに城外にも逍遥し玉ふ。ある時糜塒に伴はれて山川のほとりに漫遊し玉ふに句あり。

  いきほひあり氷消ては滝津魚     芭蕉

此魚は俗にヤマメといふ魚のわざを見玉ひての作なりとぞ。

 又初狩村もほど近ければ、彼杉風が姉の嫁したる許を訪らひ玉ふに、かねてより翁の徳は承りたる事にあれば、懇ろにもてなし申て、その里なる等力山萬福寺といふ寺にも伴ひけるに、主僧の需にしばしば筆をとり玉へり。其真蹟今なほ万福寺に多く蔵すといへり。」

 大虫はまた、六祖五平を高山五平としている。元和元年に芭蕉が佛頂に参禅した事を記述して、その終りに  

「秋元家の藩士に高山五平といふ人ありけり、佛頂禅師に参じて禅機よのつねならず、頗る恵能の風ありければ、師これを渾号して六祖五平とぞ呼れける。桃青も折々会下に面話して其交日々に厚く、五平も俳諧にこゝろざして桃青の門に入、表徳を慶埼と称す」

 註に「後年幻世と改む。又俗称の五平をも後に傅右衛門と改めたり。諸抄此五平を佛頂の僕にして、一文不知の者也とす。そは恵能の事に引当て設たる妄説なるべし」とある。

 大虫が何の資料によったかわからないが、多分に大虫の主観が入っていると思われ、今後の研究にまたねばならない問題が残されている。

 『勢いあり』の句、糜塒邸宅については後記するが、初狩村に杉風の姉が嫁し、芭蕉は杉風の紹介で其処へも往来したらしく伝えられるが、いまだ確証されていない。

 高木蒼悟氏も、かつて杉山杉風伝を雑誌『石楠』に発表しているが、初原村に姉が居たという記述は見出し得ないと誌している。

 芭蕉が初雁村の等力山高福寺に遊んで、そこに多くの墨蹟を残し、それを伝存するという説であるが、この寺は当時等々力村(現勝沼町等々力)にあり、初狩から二十キロメートルの距離でこの間にある笹子峠を越して行かなければならない。芭蕉の墨蹟は残されていないが、高福寺境内には、高福寺住職三車によって「行駒の麦に慰むやどりかな」の句碑が建てられ、翁の真蹟であるとも言われており、願主三車の時代には何か資料があったことも想像される。

この句碑の建立当時のものと思われるが、高桑蘭更が序文を書き、義仲寺の無名庵七世井上重厚(文化元年正月十八日没、年六十七)の跋文で『駒塚集』が刊行されている。

 

    駒塚集 序

「そのかみはせを(芭蕉)の翁、甲斐が根に杖をめぐらし、たきつ魚の水とけそめしより、春も日にうつりつつ、行駒の麦にたはるる露の間のやどり、ことさら旅の哀ふかく、暫時百景の霧時雨は、古人とともに腸をそそぎ、山里の雪の仮の宿に、兎の皮の髭つくれと、童子をも慰め給ひけるよし、風流さまざまなる中に、等力山萬福精舎の五勝世に名くはしく馬蹄馬上玉のよりどころなきにしもあらず。さればかの高詠を碑にとどめ千載不朽の正風をあふぎ遠近の好士の句々をもとめて、駒墳集を遺ん事を告る、三車主人の趣意を含みて、老懶おもき眸をひらき十が一をここに塗沫するのみ。」

 この蘭更の序文は、甲斐を訪れて詠んだ芭蕉の句を、それぞれ四季に取り入れて綴ってあり、『滝ツ魚の水』「行駒の」「雲霧の」は次の三句を意味している。

  勢ひあり氷消えては滝ツ魚

  行駒の麦に慰むやどりかな

  雲霧の暫時百景をつくしけり

 また『兎の皮の髭つくれ』は、甲州での作ではないが、「山中子供とあそびて」と題して『雪の中に兎の皮の髭作れ』という句で、元禄二年の作とされている。

 『馬蹄馬上』は、萬福寺境内にある馬蹄石をさしている。聖徳太子にまつわる伝説があり、長さ二間ほどの石に四個の馬蹄の跡がある。聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山・駒ヶ岳に登った帰りに、この石にとどまり、その時の馬蹄の跡と伝えられている。

 高桑蘭更は、加賀金沢の商家に生れ、俳諧は伊勢派の希因に学んだ。芭蕉関係の書の翻刻、注釈等を編著し、芭蕉の昔にかえることを鼓吹して天明俳壇の復興に寄与した。

 晩年は医を業とし、京都に住み東山下の高台寺のかたわらに芭蕉堂を営んだ。門下からは梅室、蒼虹などを出し、特に甲州俳壇では辻嵐外、五味可都里が活躍して、以後多くの俳人が偉出している。天明六年(一七八六)甲斐の差出の磯の石牙の宅に滞在し『宇良不士』を刊行している。

 傅右衛門が六祖五平という説についても、何の確証は得られないが、芭蕉が参禅した佛頂禅師との面識はあったと思はれる。佛頂が常陸国鹿島の根本寺と鹿島神宮との寺領争いの訴訟を延宝二年(一六七四)から天和二年(一六八二)まで九年間、敗訴になっても却下されても、飽まず撓まず執念をもって努力を続けた。天和元年に秋元喬朝が寺社奉行に就任し、天和二年に訴訟が解決して佛頂禅師の勝訴となった。この訴訟に佛頂に参禅した芭蕉が、秋元家の家老職であった糜塒を介して、主君喬朝に進言したことも察せられる。或いは糜塒も芭蕉と共に臨川庵に掛錫中の仏佛禅師に参禅したのではないだろうか。

 傅右衛門の二男が六祖五平だという説も多くあるが、糜塒には嗣子繁扶のほかに一男一女があった。高山家系図には次のように誌されている。

      二男曾雌民部定容(童名養六、後乗馬、内蔵之助、半兵衛)

 貞享二年(一六八五)に甲州谷村に生れ、十五歳にて幕下小従人番頭曾雌権右衛門定男に養わ れて子となり、禄七百石を領し、御書院番に列した。

      女子(喜奈)

 元禄十年(一六九七)甲州谷村に生れ、秋元家臣田中八兵衛道積の妻となり、享保四年(一七一九)十一月朔日、二十四歳にて歿し、江戸芝土器町瑠璃光寺に葬る。

 二男は貞享二年生れで、芭蕉が谷村へ流寓したのは天和二年(一六八二)であり、まだ生れてはいなかった。

 秋元藩中に高山一門は六家あり、いずれも重臣であった。

 総社(群馬)時代から秋元家に仕えた初代高山五兵衛長繁は、高五百石を得て代々五兵衛と称した。長繁は繁文(庸埼)の祖父繁政の弟に当り、分家して秋元家に仕え谷村に培従した人で、天正十七年(一五八九)に生れ、正保三年(一六四六)に没しており、二代玉兵衛繁春は寛永六年(一六二九)に生れ、延宝四年(一六七六)に没し、芭蕉の谷村流寓以前に没している。

 糜塒と同時代は三代目五兵衛公重(のち重輝)で、繁文の弟に当り、五兵衛家の養子となり、繁春の娘と結婚しているが、万治二年(一六五九)に生れ、享保十六年に没している。芭蕉が谷村へ流寓した時は二十四歳であり、佛頂の弟子となった時代をはずれている。

 芭蕉、佛頂時代の五兵衛は此の三人であるが、六祖五平に該当する者は存在しない。

 大虫が、六祖五平を糜塒と同一人なりと言うのは、或はこの高山五兵衛家と錯誤したのではないだろうか。しかし五百石取りの高山五兵衛が佛頂禅師の下僕で一文不知の者であったとは思われない。

 芭蕉が谷村へ流寓した途中、藤崎村(現大月市債橘町藤崎)に宿泊した資料が残されている。文政八年(一八二五)四時館魚水の書いた文書で藤本家に伝っているものである。

 宝歴十一年(一七六一)に刊行された『諸国翁墳(おきなあづか)記』に

翁塚 甲州都留郡藤崎村藤本氏構之内ニ有

   草臥て宿かるころやふちのはな

とある。また綴込みの別紙に

 

此度祖翁塚法縁を以当地へ草創敷度候為粟津本願へ奉納之布施相納魚水長崎の越へ公家事にて被供候帰路立寄り院主閑斉老人へ談、祖翁宿家集と名附る。昔祖翁東武より谷村へ杖をひき玉ふ折柄当地に宿り玉ふ。もっとも発句は此地に懸らずと言へども藤の花のゆかりあればこゝに出せる也。翌日は井倉村谷内氏に宿られ、夫より秋元家の藩中何某之許に逗留ありしと申伝ふるなり。その流れを汲む人々今をさかりと絶せぬこそ尊むべし、尊むべし、依而宿せられたる処をゆかりとして、予が構への内に墳墓をいとなまんと父が志をつぎて、閑斉老人に談し取計ひしものなり。

文政七年三月十一日義仲寺へ詣、翌年酉五月参詣、戌之弥生仲旬東武青山青木小嶋が方へ此壱帖届、甫水出府之時御持参願給也

   対松館漣漪子門人 柳斉漣燕男

              四時館魚水記ス

 

魚水が二回にわたり義仲寺を 訪れ諸国喪墳記」に洩れていた芭蕉の藤本家へ宿泊による句碑建立の件をつけ加えるように願い出たものである。

 間斉は釈氏。吉備中山の人で諸国を遊歴して文政三年(一八二〇)粟津義仲寺(木曾義仲を葬ったと伝えられる寺で、大阪で没した芭蕉を葬った。)の無名庵に入って十世となり、在庵十七年天保八年(一八三七)頃没した。

 芭蕉が谷村へ流寓の途中藤崎村の藤本家に宿り、翌日は井倉村(谷村より四キロ離れた部落、現都留市)の谷内氏へ宿泊し、それから秋元侯の家臣(糜塒)の許に逗留したことが書かれている。

 現在も井倉には谷内姓が数軒あるが、宿泊したという家は不明である。たぶん当時庄屋なり名主をしていた旧家ではないだろうか。

 芭蕉が谷村の高山邸に滞在中の状況を知る資料は少ないが、糜塒の手厚い世話により五ケ月間を過したのである。その間秋元侯の領地である郡内の地を散策し、雄大な富士に接したことは当然のことであったと思われる。

かくて五月、芭蕉は其角の撰集『虚栗』に期待しつゝ江戸に帰って行った。その直後の住居は明らかでない。

 蕉風展開史上に特筆すべき『虚粟』の跋文は、天和三年五月の染筆で、当時の芭蕉自身の俳諧観や抱負が十二分に吐露されている。跋文の要請は、谷村在留中に其角から便りがあったもので、芭蕉の原案はすでにこの頃書かれていたものであろう。

 この「虚栗」には、糜塒の発句五句が入集している。






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最終更新日  2020年08月24日 07時14分24秒
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