カテゴリ:松尾芭蕉資料室
芭蕉の谷村入峡とその作品 『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による・一部加筆
芭蕉が谷村へ入峡したのは、芭蕉庵類焼により谷村の糜塒邸に世話になったときと、甲子吟行の帰り、貞享二年(一六八五)の四月甲斐に入ってわざわざ郡内に寄り道しているときである。多分療考から文通があって勧誘されたものであろう。 この時の逗留は、帰り道尾張の鳴海を四月十日に立ち、名古屋から木曾路、甲州路を経て江戸への帰庵は卯月(四月)の末であった。その間は二十日ばかりで、谷村の高山邸に泊ったとしても二、三日位であったと思われる。この時の資料として、芭蕉から空木宛の書簡がある。
追而申入候。此中はふじに長々逗留、其上何角御世話に成候へば、別而御内方様御世話に候。いそがしき中に、うかうかいたし居侯而きのどくに侯。長雨にふりこめられ候事、とかうに及びがたく候 行駒の麦になぐさむやどりかな いずれもよろしく御まうし可被給侯。くはしきは重而々以上 十三日 桃青 空水様
この空水については誰であるかわからないが「ふじに長々逗留」とあり、富士に間近なところと推察できる。たぶん山中、吉田、或いは谷村の俳人ではないだろうか。 甲州における芭蕉の句は、文献では『夏馬の運行』再案の「馬ぼくぼくと、「行駒の」・「山賎の」の三句が正確な吟詠とされているが、それ以外に糜塒と関係して確実と信じられる句もあるので、研究家の発表をもとに整理してみたいと思う。 馬ぼくぼくわれを絵に見る夏野かな 「泊船集」許六書入れ、「赤冊子草稿」、『三冊子』、「蕉翁句集」、『続年矢集』、「水の友」などにこの句形で見える。芭蕉庵類焼による甲斐谷村に流寓中の天和三年の作で、『一葉集』付合え部に載せる糜塒、一晶との三吟歌仙の発句に、 夏馬の遅行われを絵に見る心かな とあるのが初案であろう。『二葉集』発句之部には別に『甲斐の郡内といふ所に欲る途中の苦吟』と前書する。 夏馬ぼくぼくわれを絵に見る心かな の句形を収めている。糜塒旧蔵の芭蕉真蹟短冊中に 馬ぼくぼくわれを絵に見ん夏野かな とあるところを見ると、下五「心かな」から「夏野かな」への改稿は、おそらく甲斐流寓中に谷村でなされたものと思われる。「絵に見ん」から定校の「絵に見る」への推敲が何時なされたのかは明らかでない。 なお『泊船集』には、下五『枯野かな』の句形で収めて、傍に「この句夏野かなともある人申されし」と註をつけてある。また『水の友』に「此句、泊船集に冬野哉とあやまれる故ここにしるす」と訂誤しながら、枯野を冬野にして誤りを再び重ねている。
『水の音』には画讃として詞書が載っている。 画 讃 かさ着て馬に乗りたる坊主は、いづれの境より出て、何をむさぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ三界流浪のもゝ尻、おちてあやまちすることなかれ 馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉 【註】「このぬしの」は、所蔵者であるか、画の筆者かいずれにしても不明である。 「三界流浪」とは、世の中をさまよい歩く者のことで三界坊とも云う。 「もも尻」は、桃の実のごろごろして尻のすわらぬように、乗馬に拙ない者。 芭蕉のこの句碑は、大月市猿橋町藤咲久保にあるが、建設年は明治末とされており、「馬保久々々我を絵に見留夏野哉」とある。 勢ヒあり氷消ては滝津魚 谷村郊外田原の滝、これを根滝、また白滝と言う。谷村流寓中の嘱目吟である。この句の載 明治末期頃の田原の滝 籍は芭蕉時代より後の安永六年(一七七七)堀麦水編の「新遼東」に、春嶮と題して「此句今までの撰にもれたるよし但州より告り」と附記して始めて掲載されている。但馬の国へは芭蕉は行っていないので『甲州』の誤記ではないだろうか。 文化六年(一八○九)刊行した「暁台句集」に『山賤の』「雲霧の」の旬と共に三句出してある。 川口にて 勢ひあり氷柱消えて滝津魚 また、天明三年(一七八三)の秋、暁台が甲州藤田村の可都里を訪ねた紀行『峡中之記』には、 「山口(川口の誤りと思われる)にて、勢ひあり氷柱消えて竜津魚」として出ている。 文政十年(一八二七)刊行した毛呂何丸著の「芭蕉翁句解参考」には、天和中の作で前句の初案ならんと註し、また「勢ひなり」の句を出して句形いづれが是か分らぬと言っている。 甲州郡内といふ滝にて 勢ひある山都も春の滝ツ魚 きほひありや氷柱化しては滝ツ魚 勢ひなり氷きえては滝ツ魚 文化六年(一八○九)に、旧田野倉村(谷村の隣村で現在都留市)の枕蛙窟運水の刊行した、『水面鏡九十四人集』の巻首に、芭蕉像と瀑布を描き中七を「垂氷きえて」と異なっているが、その上に題句してある。運水の序に「はせをの翁、そのかみ此の地に杖を曳きて、しら滝の絶勝をのこされし」と記している。 「勢ひあり」の芭蕉の真蹟の所在については、竹堂一峨稿の『諺解大全』(寛政年代刊)に「此句、甲斐郡内谷村に白滝といふ滝あり、又田原の滝ともいふべし。此滝にての句なるよしいひ伝ふ。真蹟谷村森島氏の許にあり」とある。 *『甲斐国志』 『甲斐国志』の草稿である『両谷村』の田原滝の「名所説明末記」に 「はせをの詠あり、いきほひあり氷桂消ては滝津魚 はせを。深川はせを庵焼失の後谷村に来り、高山傅右衛門の家に暫くやすみしことあり。真蹟利八が家に存せり」とある。 また、『甲斐国志草稿』には、 「桂川の流にして湯布巌上にかかれり、高さ六丈許、田原滝と云、又は白滝と云ふ」とある。 「甲斐国志」は、文化二年十月編さんに着手して文化十一年(一八一四)に完成した。郡内地方の編纂は森島其進が担当したもので、芭蕉の真蹟を蔵した利八は其進の父である。 其進は父利八没後、谷村に朋来園と名付けた学舎を開いた。現在森島東三家文書として朋来園蔵書画目録が残されているが、その蔵書は和漢書籍、書画の数実に三千五百余点に及んでいる。その中に芭蕉翁の白滝の発句と消息文、芭蕉帖(写)があったことが誌されている。 *『鳳朗句集』 嘉永三年(一八五〇)刊行の『鳳朗句集』には「甲州谷村の西に白滝といへる有、蕉翁此地に遊びて、いきほひあり氷柱消ては滝津魚、其真蹟某が家に秘蔵す」とあり、実際にその真筆を鑑賞したことを述べている。 田原の滝を展望できる田原神社の境内に、古くから篆額に「芭翁田原湯布之詠」とあって「勢ひあり」の句を細字で刻んだ句碑があったが、惜しくも道路工事により紛失してしまった。 現在の句碑は、昭和二十六年に当時の文化関係者により建てられたもので、十月十四日に除幕式を挙行し、雲母主宰飯田蛇笏氏の記念講演と句会を盛大に開催した。碑の書は蛇笏主宰のものである。 甲斐の山中に立よりて 行く駒の麦に慰むやどりかな 今日の宿を思いながら馬でゆく途中のありさま、或いは宿に着いてくつろぎ乗った馬を見ているさまと解く両説がある。 貞享元年(一六八四)八月中旬、二回目の故郷伊賀上野へ行脚のため、隅田河畔の草庵を出発ずるに、折から吹く風の声もなんとなくうそ寒げであった。『野ざらしを心に鳳のしむ身かな』この句の「野ざらし」をとって、この行脚を「野ざらし紀行」また貞享元年が「甲子年」に当るので『甲子吟行』と言われている。 甲斐で詠んだ句として年代も確奥なものであるが、場所については甲斐「さんちゆう」説と、加古坂を越してきた地名の『山中』説との論義がある。 甲斐山中 山賤のおとがい閉るむぐらかな
あたり一面に雑草の葎が伸びはびこっている山の中で、下あごを閉じて無愛想な木樵に逢ったさまを詠んだものであろう。 宝井其角編により貞享四年(一六八七)刊行した『続虚栗』にある。また暁台が天明三年(一七八三)に甲州藤田村の可都里を訪れた紀行文『峡中之記』には、「よし田、山中、砂走などといへる所は、裾の野走りに家づくりせし村里也。芭蕉翁武江天和の変にあひてしばらく留錫ありしも此さかひや」として、この句「山中にて、山賎の頤(おとがい)とぢる葎かな」の他に「勢ひあり」「雲霧の」の三句があったと記す。 甲子吟行の際の甲斐における句だが、この句も句意にあっている前書の「さんちゆう」説と、晋風氏等の「中野村の山中」説がある。『甲斐叢記』に大森快庵、保三が附記した翁の句に加古坂(甲斐山中)とある。 また、『甲斐国志』古跡部の山中村のところに「山中トノミアレバ他所ニテハ地名トハ知ラズシテ唯サル山中ノ作卜思ヘドモ芭蕉谷村滞留ヨリ駿河ノ方へ出ルトテ此村ヲ過シ時ノ作ナランモ知ルべカラズ」とある。 大月市初狩町に句碑があり、明治二十九年(一八九六)に初狩村の古池連中が諸国の俳人に呼びかけ、当時高名の春秋庵三森幹雄宗匠の筆を得て建設したものである。側に『蕉翁』と刻んだ碑石のかけらがあり、碑背に安永四年(一七七五)東都松露庵の宇が見えるところから、芭蕉没後八十二年目に、その徳を慕う松露庵三世木耳坊烏明(享和元年六月十九日没。年七十六)によって建てられたものと思われる。 雲霧の暫時百景をつくしけり 宝暦六年(一七五六)刊行された『芭蕉句選拾遺』に「甲州よし田ノ山家に所持ノ人ありしを、今東武下谷菊志秘蔵なるよし、行脚祗法より伝写して出ス」と頭書かあって「士峰讃」の前文とこの句がある。 『甲斐国志草稿』にも 「芭蕉翁此地ニ遊テ富士ヲ見て雲霧の暫時百致を尽しけり と詠セシモ此地ナリトテ傍ニ碑アリ 左モアルベシ』とある。 芭蕉が甲州へ流寓して江戸へ帰ったのは五月であるが、この旬の季は秋になっており、天和三年作と断定することは躊躇されると云う説と、また「甲子吟行」の旅の時に「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」の作があった頃のものとも想像される。という説もある。 句を作った場所についても、河口湖から見たとは限らず、吉田から仰望した吟ではないかと勝峰晋風氏は書かれている。
士峰讃 崑斎崙は遠く聞、蓬莱・方丈は仙の地也。まのあたり士峯地を抜て蒼天をささえ、日月の為に雷門をひらくかと、むかふところ皆表にして美景千変ス。詩人も句を尽くさず、才士、文人も言をたち、画工も筆を捨てわしる。若藐姑射の山の神人有て、其詩を能せんや、其絵をよくせん 雲霧の暫時百景をつくしけり (芭蕉句選拾遺) 【註】 一、西蔵と新疆との境を東西に達らなる大山系を鬼畜山系といい、崑侖山はその中央部にある。 二、中国の仮想上の山。東海中にあって仙人が住み、不老不死の地と考えられていた霊山。方丈も同じ。 三、雲が破れて日月が渡るのを、富士が雲門を開くように言った表現。 四、「荘子」逍優遊に「藐狭姑射之山、有神入居焉」とある。北海中にあって神仙の住むと考えられていた山。 (『校本芭蕉全集』抜すい) 「雲霧の」句碑は、河口湖畔の産屋ケ崎にある。中央に『芭蕉翁』と大書し、その左右に振り分けて句が刻まれ、側面に「川口連中」とある。建設年代は化攻期と云われている。なお、同じ句を刻んだ句碑が清水市鉄舟寺にもある。
芭蕉「松風の落葉か水の音涼し」の句は谷村での作か
秋元家は、谷村から川越、山形へと移封しているが、山形市薬師町の柏山寺(天台宗)に芭蕉の句碑がある。 松風の落葉か水の音すずし はせを これは高さ二尺三寸、巾六寸ほどの自然石で、それに安山石の台石がある。この碑の傍らに添碑があり 「松風の真蹟は、祖翁行脚の折から、武州川越秋元家の臣高山某方にて客中吟なりしを、奉安寺が乞に任せて染筆し給ふ所なりと。そを此所に移りても持て来りて久しく伝へしに、去ぬる 年上州に移転の砌、一ト町吉右衛門へ譲られしとなり、こたびはせを翁の葉風広く後世にも薫らんことを顧ひ、且つは謝恩のはしにもなりなんとおもふ余り、奴某ら所望せしに主のゆるしければ、則柏山精舎の松下に移す所とはなりぬ。 明治三年庚午四月 「南山選寿 俳弟敏速」
とある。この句は、安永五年(一七七六)蝶夢編類題別「芭蕉発句集」には見られるが、創作年代は不明である。 明和七年(一七七〇)麦水編「貞享正風句解」第四巻に『松風の落葉か水の音清し』とあり、 麦水はこれに「心耳山間の風に浸す、かの字深意」と附記している。また「芭蕉句選拾遺」にも載っている。 高木蒼悟氏は、もし此の句の制作が麦水の見るごとく貞享、元禄時代の作とすれば、秋元侯も高山氏も谷村時代であるから、川越秋元家の臣高山某方に客中の吟という事は信じられない事である。芭蕉は元禄七年十月に没している。秋元侯が谷村から川越へ移封になったのは、芭蕉没後十一年目の宝永元年であるから、芭蕉が川越に慶涛を訪ねたことは断じてない。 もしこれが(谷村客中)の作というなら、麦水も貞享時代の句と観ているので、首肯されぬでもない。それにしても麦水はこの句の出自を何によったのであろう。元禄或はそれ以前の載籍によったものか、句調によって貞享年代のものと観たものかであろう。」と誌している。 つまり、「武州川越秋元家」でなく、「甲州谷村」の誤りである。 奉安寺は秋元家の菩提寺で、谷村では秋元素朝が寛永十三年(一六三六)に建てたもので、秋元家が移封するたびに新領地である川越、山形、館林に移築され明治維新の際廃寺となった。芭蕉が染筆したのは磨育邸に逗留した時に、谷村の奉安寺の乞により染筆したのであり、それ以外は考えられない。 「上州へ移転の砌」とは、弘化二年(一八四五)に館林へ移封のときをさしている。『吉右衛門』は豆腐屋であったという。「譲られしとなり」は、松風の真蹟でなく、高山家の邸内に建てられた碑石であるらしい。その碑を送寿が吉右衛門に懇望して柏山寺へ移建したものである。この芭蕉の真蹟を泰安寺が秘蔵していたものを麋塒が屋敷内に建碑し、それを秋元家の移封の際、高山家がそれぞれの転地に運んだものではないだろうか。 谷村における高山邸は山裾にあり、秋元素朝時代に開削した谷村堰は、城下町を縦横に流れており、寝ていても水音は枕下を流れるごとく響いてくる。 句意は「峰の松風は折しも松葉落を思はせ、清流の音は清らかに響きて涼しげに聞ゆる」との意味で、この句を味うほど芭蕉が深川で焼け出されたかなしみを、山峡の麋塒邸において味った哀愁をしみじみと感じさせる。 松風を聞き、山峡の水音が響く谷村での作であると確信するものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年08月24日 07時16分16秒
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