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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年08月24日
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カテゴリ:富士山資料室
<日本武尊の故事・丸火の謂れ>

神原理学博士が、富士山麓の水理を調査中、富士古文書の研究者から、明見村の「焼橋」という所は、日本武尊の御東征の際、賊が橋をやいて対岸へ逃れた、遺跡だと聞かされたそうだ。尊の御遭難の場所は、明見と吉田の中間にある原野で、その証として、熔岩を丸火と唱へるのは、この地方独特の名称で、駿河の人は熔岩を単に焼け石と云い、精進・本栖方面の人も、丸火とは呼ばぬ。熔岩はとけて流れるもので、「まろび」がころがるものでないのに、この地方でばかり「丸火」と唱えるのは、(日本武尊が)草薙の剣で草を丸く切りはらい、向い火をつけて丸く焼き払はられたのが「丸火」の語源で、後に富士大噴火の際に、溶岩が火焔をあげて流れ走って、大きく丸く連なったのが、御遭離の折の御状態(オンアリサマ)と似ていたので、その故事を記念するために、その地を「剣丸火」と称えたのである。
他に「桧丸火」・「鷹丸火」・「土丸火」等がある、丸火の出來た延暦十九年(800)、貞観六年(864)は、尊の御東征より七百年ばかりの後の事だが、特にこの吉田地方の丸火に、剣の字を冠したのは、このような故事が語源をなしていのである。
<吉田の火祭りの由来>
前記明見の火祭りの外に、富士吉田でも毎年舊七月廿一日に、盛大なる火祭りを行う。下吉田から上吉田にかけて浅間神社の前まで忌のある家を除き各戸に一本づつ、昔は二間一尺の定めだそうだが、五六間の高さの大松明を数百本ならべて、炎々として天を焦がし、闇もあやなき壮麗なる祭礼で、「美濃のつくま祭」、伊豆の「伊東の尻りつまみ祭」とともに、日本の三奇祭と称されている。
これが毎年富士の山開きだそうであるが、単に噴火を恐れる鎮火祭なれば、富士山麓数十ヶ所の浅間神社で、全部が火祭り行事を行うべきわけだが、吉田の町とそれから噴火に縁の遠い堂の山との二ヶ所だけで、この壮絶なる火祭りを行うのは、果たして何を意味するのであろうか。
吉田の火祭りの謂れを尋ねると、
----富士嶽神社の本社の左手にある小社に、諏訪大明神「建御名方命」を祭られてある「昔、命、追(ト)われさせたまうて、この地に入らせられた時、土民に図って無数の煙火を撚さしめられた。追手はこれを見て、援軍多く列(ツラナ)ると思って立去ったので、命は無事なるを得た。それが七月廿一目の夜であったから、いまもなお、その夜に至れば吉田の各戸、軒毎に松明をともして神事を祝う—---
とい縁起である。「われこの地より他へは行かじ」と誓って信州に諏訪に鎮まりし建御名方命が、吉田まで遺はれて来たというのは怪しい話で、この伝説は目本武尊の御遭難の事蹟と、混同しているようである。
<日本武尊の御痕跡と御由緒>
○ 吉田の浅間神社のうしろ「諏訪の森の大塚山」といふ小丘に、目本武尊が御休息なされた腰掛岩がある。この附近には尊の痕跡が非常に多い。
○ 河口湖の鵜の島は尊が富士山を遥拝して、戦勝を祈願した遺蹟である。
○ 下吉田の下新田の不動様のお札は、日本武尊が弓をもつて、立つて居られる尊像である。
○ 明見村の天都山の篠垣塚は、尊が賊軍を平定した後、富士山を遥拝した遺蹟だという。焼け橋から一丁ばかり離れた所に、「陣の跡」という所が在り
○ 小明見下宿の不動様は尊を祭った社であり
○ 堂谷山上の白王様など
すべて尊の御事蹟に由緒のある事を、断片的にこの土地の人から聞いたのである。
この地方は昔、相模の國の一部であった事は、甲府地方と山をへだてた都留郡とは、人情風俗言語まで異なって居り、都留郡の人は甲府地方を甲州と呼び、甲府地方の人は郡留郡の事を郡内と呼んで、他国の扱いとして居るのでもわかるが、文献としては加茂季鷹(カモノスエタカ)の「富士日記」の一節に「遊行二代真教上人.家集に
甲斐の国より相模を越えける「御坂」といふ山にて
富士のたけを見やりて 雲よりも高く見えたる富士のねの月にへだたる影やなからむ と見えたり
とあり、山中湖北岸の平野なる「平野天神諸記」と題する、氏神所藏の文書の一節に、○「大化五年(649)十月、高座郡ヨリ四郷ヲ割キ甲州に編入。中古宇宙ノ郷中ノ庄と称す」と記されてある。
焼橋は小明見西方寺の裏手より下吉田との中聞を流れる、桂川の渓谷附近の原野を今も字「焼橋」と称しているのであるが、
<秦の徐福>
古文書には
「秦の徐幅がこの地を開拓したので、その子孫の福信といふのが、尊に反逆された賊魁で、向ひ火をたかれて返り討ちにされ、橋をやいてこの部落へ逃げこんだ」と記してある。上古はこの辺に「御船湖」(下吉田新倉付近)「阿祖の海」があり、その中間の原野には、沼沢が澤山あつた。即ち古事記にある、この野の中に大沼あり、という地勢である。なお、ここは富士の裾野から分離された小原野で、東北は高座山から御正体山へつづく山脈で、西北は御坂山脈から三つ峠への、嵩巒(コウラン)かさなり合う中にかこまれて居て、
さねさし(眞嶺刺し)相模の小野に、もゆる火の ほなか(炎中)に立ちて間ひし君はも
と弟橘媛(おとたちばなひめ)のよまれた歌に、ふさわしい地形をそなえている処なのである。
明見の風土記 堂谷の火祭り

<堂谷の火祭り>
富土の北麓、下吉田駅から東方を眺めると、東南に高座正面に杓子山・東北に御正体山および入山らの山脈で囲まれた盆地が見える。杓子山の麓に富士八湖の一なる明見湖がある。その南北につらなる村が明見村である。
西は桂川、東に明見湖から流れる御座の川の、二流にかこまれた小明見の下宿(シモシュク)から、川をへだて入山の嶺つづきに、「堂谷の山」といふ小丘がある。毎年旧六月六日に、下宿の火の見櫓の下、道祖神様の前へ、松薪や竹茅などを山のように積み上げて、大きな松明をたくさんこしらえ、村の若い衆が大勢で、この大松明を堂谷の山へかつぎト上げ、麓から頂上まで、数十ヶ所に備えつける。
夕暮れになると若い衆は、揃いの浴衣に白手拭いで向こう鉢巻、縄襷(たすき)の甲斐々々しい扮装(いでたち)で、手に手に小松明を振りかざし、堂谷の山へかけのぼって行く。昼間据え付けた大松明へ、一つ一つ火を着けながらのぼる。村から見れぱ、黄昏で黒くなった山へ一筋の火の龍が煙を吐きながら這い上がっていくように見える。
頂上の白王様の碑の前へは、大松明が四本ならべてある。これへ火をつけるとあたりは一面にあ明るくなる。まん中に土俵がこしらえてあってて、若い衆たちは東西にわかれ、かわるがわる飛び出して相撲をとる。数十番の取組があって優勝者は賞品を貰い、酒なども出て大騒ぎをした後で、大松明を四つ一ケ所へあつめて、火烙がパツと高くも燃えあがったとき、一同で鬨(トキ)の声を三唱して、やがて凱旋の支度をなし、小松明をふりかざして、村へ帰って来る。
白王様は悪い虫を退治する神様で、毎年この日に大煙火をたいて.虫除けのお祭りをするのだという。白王様の嶺続きを数丁奥へゆくと、右は入山裏の物すごい山で、左は桂川の流域を見おろす千仭(センジン)の渓谷となる、右の山を権太山と云う。権太山の中腹には、厄病にかかった者や無宿者の死骸を、焼き捨てるところがある。村の子供たちが悪い事をすると、「権太山へやってしまうぞ」と、おどかすとおとなしくなるという、おそろしい所だ。
堂谷山の対向面の、小明見下宿御座の川張縁の岩盤の上に、不動様の小祠がある。この不動様は堂谷の山を見上げて、にらんでいる位置にあり、土地の人は日本武尊を祀ってあると、云いつたえている。

<再び堂谷の火祭り>
焼橋から逃げた賊はどうなったか、青年時代に単身熊襲を征伐せられた、勇猛果敢な貴皇子(日本武尊)に座(オハ)せられる。寒川(桂川の古名)を徒渉(トショウ)する事くらいは食前の茶飯事である。陣の跡で休息して、石橋に狂う獅子の精のような、奮迅のいきおいで渓流をおどり越え、賊輩を襲撃した。
賊は三方を山でつつまれた、明見の盆地へ追いこまれたのが運のつき、皇軍の殺到にたまりかね、堂谷の山へかけのぼったのを、尊の軍は部落の民と協力して、松明をふりかざして追撃し、頂上で殲滅して権太山で焼き払ってしまった。
頂上で虫けらのような悪い賊輩を退治したから、こゝに、祀られる白王様は、悪い虫を退治する神様になられている。そのときの闘争の形が後の世までのこって、いまもなお毎年大炬火をもやして、相撲の行事をつづけて居るのである。それにしても白王様は何様を祀ったのかと、不審におもって尋ねて見ると、「白王」の二字を合せると「皇」の字となり、日本武尊は小碓の皇子様で座(オハ)せられるから、白王様はやはり、尊をお祀りしたもので座せられると、吉田の局長白須氏が解釈してくれた。
<富士古文書・古駅「家基都」(カキツ)>
富士古文書によれば、明見の町はむかし、延暦噴火以前の頃には「家基都」(カキツ)の町と称して、近郷の一の古い駅であったと記してある。「家基都」は「加吉」とも書かれて,発音は「かきつ」であるが、延暦・貞観の富士の大噴火に全滅して、現在は明見の町に、その面影を止めて居るだけである。「古事記」にある尊の御遭難地の「ゆえにここを焼津といふ」とある焼津の所在地が、駿河国志太郡の焼津港で無い事は、周囲の地勢も違い、何らの文献も遺跡も無く、何人も否定している所である。
明見村の古名「家基都」(カキツ・ヤキツ)が焼津と発音が同じによめる事は、動かすべからざる事實の証明であって、付近の地形と云い、環境と云い、火祭りの故事に至るまで、完全に御遭難地の御遺蹟としての、形態を具備しているのである。
但しここで弁護しておきたいのは、福信は悪い奴であるが、その祖先の秦の徐幅はこの地を開拓して、かの国の文化及び技術をつたへ、この村を啓発振興せしめるために非常に功績のあつたことである。部落の人々が尊に協力して、賊の征伐に参加した事は、付近出でる弥生式土器の証明する通り、神代以来古く皇化に浴した民族だからである。土地の人々は「家基都」や「やきつ」と読まれるのを嫌って、「加吉」とあらためたのである。
河口湖畔嘯山公園(かわぐちこはんうそぶきやまこうえん)

「国立公園繍山入口」と木標の立てゝある、船津町の理髪店の横をまがると、幅二間ばかりの落差一尺くらいづゝの、そまつな石段がある。十数段のぼると、雑草のしげった崖へつきあたる。崖の上には石の鳥居が見える。道は屈折して左へ長く半町ゆき、また右へ折れて約二十間で、石鳥居の前へ出る。
石段からこゝまで、約二十mだが、迂回して來たから大分あるような気がするが、鳥居の下から雑草をけずり落した、幅のひろいすべり台のような坂があって、この崖をすべり降りれば、石段の所まで二三分で行かれる。土地の子供や若い衆は、平気で上下するのだが、山になれない都会の人々にはあぶない。危険だからおよしなさい。
鳥居を潜ると、高さ一丈ばかりの、立派な黒花崗(ミカゲ)石の忠魂碑がある。大山公欝閣下の筆で昭和八年建設だ。ここから四五間のぼると、四桂板ぶきの東屋がある、ここで一服して紫のけむりをはきながら、足もとを見わたすと、湖畔のバスの停留所と船着場から左りへ、登喜和・山岸・大屋ホテルの屋根が見え、村社八王子神社の鳥居が見え、その境内の裏の溶岩の上に、近頃増築された料理屋風の家が目だつ……。
その下の自動車道路に沿って、奇巖突几(トツコツ)としたどすぐらい熔岩湖畔に、数人の人がつりをしている。河ロホテルの背後から、水をへだてゝ対岸の小立部落、敷島の松あたりを見はらすと、湖は藍色に岸辺の断崖は黒褐色に裾野は消し炭色で彩色されている。右側の湖上に突き出した産屋ケ崎(ウブヤガサキ)のトンネルから、甲府通いのバスが飛び出して半円形の磯伝いに疾走して、島原岬に消えた。
大石の部落は桐に隠れてよく見えないが、雲の絶え間に御坂山脈が隠見している。藍色の湖盆は何を写すか、ところどころに鼠色をぼかし、谷風に立つ漣(サザナミ)は白い泡を散らして、定常波は湖面の色彩を、いろいろに変化させている。雨もようなので、船は一艘も出ていない。
位置をかえて東の方を見わたすと、「赤阪鐘かけ松」のあたり、剣丸尾の累々たる熔砦帯を越して、吉田の町がつらなり、浅間神社・小倉山・大臼子臼の丘陵から明見につらなる山脈が・うす墨色に一沫はいた中間を、桂川谷の田園沃野(ヨクヤ)が、パノラマのように展開して居る。しかし南面は天地を包む一大煙幕のような、白雲に遮られて、肝心要の天下の絶景富士山は今日は少しも見えない。
東屋を出て十間ばかりのぼると、草むらの中に、不規則に歪んだ石の碑がある。ここからの展望は、東屋やよりも遥かに雄大で、沖には老樹緑層の「鵜の島」がうかび、その対岸の小海、長浜の方面まで見える。小海付近には実る麦の穂であろう、黄色く区割りされた畑が点綴(テンセツ)されて、藍色の荒涼たる風景を、やゝ朗らかにしている。碑の面には
秋晴れや富士明らかに水鏡  昭和四年初 小波
と刻んである。自分も何か一つと、頭をひねくり
梅雨空や 湖畔にならぶ 貸ボート
富士写す 波をちらすな 渡し舟
と、おぼつかない、十七字の処女作を並べて見た。傍で石楠花(シャクナゲ)の花がわらつている。
付近の藪の中で、木の枝を集めていた村の子供たちに、これから上に昇れば何かあるかと聞くと、頂上には小御岳神社があると云う。
嘯き山は標高一千一百米、登るに四十分、河口湖を脚下に見おろし、遠くは籠坂峠から近くは青木ケ原にわたって、富士裾野を一望の中に収める、雄大なな眺望であると聞いてはいるが、まだ十五六町もあると云うので、今日のお天気では仕方があるまいと、断念して下山することにした。
嘯き山公園には、忠魂碑と東屋と小波の句碑との、三つしか設備がなく、誠に荒涼たるものだが、その眺望の絶佳なことは、精進のパノラマにくらべて、彼は山容の美を味わい、これは湖畔の幽邃(ユウズイ)をうつす、優劣さだめがたき天下の絶景である。五湖めぐりの旅客たちは、三十分の時間を割いて、嘯き山へ登って見た」まえ、湖畔を一周すると同じ情趣を得られ、それ以上の大自然に抱擁される、興味を感ずるであろう。
序(ツイ)でに、船津の村役場へ希望するのは、東屋の附近へ展望客のために、腰かけ台を数個、備えつけて貰いたいと思う。
石鳥居の下の崖の中に、二尺四方ぐらいの小祠が二つある。天神様と誌してある。文化の神を祭るならば祠は一つでよいわけだが、祠が二つあるのは疑義を生ずる訳で、京郡から筑紫まで伝説を遺した菅公が、文化の神として日本全国に祭られているけれど、単に文化の神として祭るならば、祠は一つでよい訳である。祠が二つあるのは、天沸宮以外に、古來より土地の人が尊崇した神様を、合祀したのではあるまいか。菅公以前に古来より伝承された神様があって、そこへ天満天神を合祀したという解釈である。山を崇拝して農業を奨励した天神七代の中の、二柱の神を奉祉して居たのを、後に天満宮を合祀して天紳様といふ称号を継承したものとも考えられる。
嘯き山は付近の溶岩地層とは異なり、地質上から見ても第三期層の、古代より伝わったもので、この山が古代の先住民族要塞地帯であつたということも、考えられているのである。
雨がぽつりぽつりと降り出したので宿へ帰る。大屋旅館の二階の奥座敷、河口湖を見晴らした一番眺めのよい座敷だが、雨が土砂降りとなったので、窓をしめきって退屈していると、番頭の中村君が来て話し相手になってくれた。中村君は主人の弟土地の者だからいろいろ面白い郷土の話をしてくれた。大船津・小船津は二つにわかれていて、二つの部落のものは昔から気が合わない。大船津は八王字の氏子で、小船津は筒口神社氏子となっていて、氏神様まで違っている。その祭りがまた、たいしたもので、若い衆は甲冑を纏い両刀を手挟んで、御神輿を守護して練り歩く、近郷近在から見物に来る素晴らしいお祭りだ。





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最終更新日  2020年08月24日 08時42分14秒
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