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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年09月05日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉 関連史跡 資料館ガイド 関東


 『歴史読本 
3月臨時増刊』

 「江戸三代俳人 芭蕉・蕪村・一茶」

  平成8・38

芭蕉・蕪村・一茶 関連史跡 資料館ガイド

 一部加筆 山口素堂資料室

  

 延宝八年(一六八〇)の冬、松尾桃青は居を深川に移し、杜甫の詩にちなんで泊船堂と号した。

翌年の春、李下から贈られた芭蕉の株を植えた。芭蕉庵の庵号はこれにもとづく。

しかし、この庵は天和二年(一六八二)の江戸大火に類焼し、いっとき難を甲斐谷村(山梨県都留市)

に避けた。

翌三年、江戸にもどった芭蕉は、同年冬、山口素堂らの尽力によって造られた新しい芭蕉庵に入った。『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』など、漂白の旅の拠り所は、この新しい庵であった。

 元禄二年(一六八九)三月のはじめ、芭蕉は深川の草庵を「平右衛門なる人物に譲り」、杉風の下屋敷採荼庵に移り、同月二十七日、曾良を同伴し「奥羽長途の行脚」に出た。これが『おくのほそ道』の旅である(「芭蕉の生涯」参照)。

 

〔芭蕉庵址〕

 万年橋(小名木川)の北詰にある芭蕉稲荷神社(江東区常盤一-三)境内が芭蕉庵の址とされている。社頭に

「芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり、幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正六年津波末襲のあと、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎等地元の人々の尽力に

より、ここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定-」

 という説明板が立っている。  

 なお、万年橋のたもとは「芭蕉庵史跡展望庭園」になっており、芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフが配されている。四季折々の水辺の風景が往時を偲ばせる。

 

〔江東区芭蕉記念館〕

 

芭蕉庵旧址(芭蕉稲荷)は狭隘であったので、昭和五十六年、その北方の大川(隅田川)畔に旧址を移し、三階建ての芭蕉記念館を建設した(常盤一・六・三)。

館内には真鍋儀十(芭蕉研究家)から寄贈された資料を中心に、芭蕉関係資料、俳文学関係資料、旧址から出土した石造の蛙などが展示されている。

また、築山には石造りの芭蕉庵や句碑が移されている。

 

〔関口芭蕉庵〕

 神田上水堀(神田川)に沿って芭蕉庵(文京区関口二・一一)がある。芭蕉はこのあたりの風景が瀬田(滋賀県)に似ているとして、

  さみだれにかかれぬものよ

   瀬田の唐橋 

 と詠んだとされている。寛保三年(一七四三)の芭蕉五十回忌に、宗端、馬光ら俳人が「さみだれ塚」を築いた。のち、其角、嵐雪、去来、丈草の像をふくめた芭蕉堂が造られた。

芭蕉は一時、神田上水の工事に従事したという説がある。そのことはともかく「さみだれ塚」が築かれてから有名になった。芭蕉庵は戦災で焼失、小堂だけ残っている。

 

〔俳句文学館〕

 同人誌会員などの協力を得て、昭和五十一年に建てられた俳句専門の博物館(新宿区)である。「松尾芭蕉自画賛画壁之図」や蕪村短冊などが展示されている。

 

〔出光美術館〕

 出光興産の創立者出光佐三のコレクションを主体とする美術館(千代田区丸の内)である。芭蕉の作品としては「蓑虫の」自画賛、「菊の香や」自画賛、「なにの木の」懐紙などがある。

 

須佐盞(すさの)()神社〕

 

芭蕉は杉風の別墅(べっしょ)から船で千住まできた。しかし、南と北のどちらの岸へ上がったかについては研究家の間で意見がわ かれる。ともあれ古来、千住の渡しの主護神として名高い須佐盞(すさの)()神社(荒川区南千佳六・六〇)には、芭蕉碑がある。碑面の上部には亀田(ほう)(さい)の筆になる『おくのほそ道』の一部が、下部には建部(たてべ)(そう)(ちょう)筆の芭蕉坐像が浮き彫りされている。

 千佳大橋を渡ると、左側に大橋公園(足立区立)があり、「矢立初」碑が立っている。『おくのほそ道』の「千じゆと云所にて」以下「見送なるべし」までを刻したものである。芭蕉はこの地に上陸したとの見解にもとづく建碑であろう。

 日光道中の次なる宿場は草加である。

「其日漸早加と云宿にたどり着にけり」

という『おくのほそ道』本文の記述にもとづき、このまちでは「奥の細道ポストカード」やミニブックを作成するなど、『芭蕉の里』づくりに懸命である。

とにかく札場河岸公園には芭蕉碑が立ち百代橋の畔には,「月目は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」という一文を刻んだ「橋名由来」碑がある。松並木の遊歩道も目光道中のおもかげをいまに伝えている。

 

〔鹿島神宮〕

 貞享四年(一六八七)八月十四日、芭蕉は月見がてらに鹿島根本寺(鹿嶋市宮中)の仏頂和尚を訪ねる旅を思い立った。同伴したのは河合曾良と宗波(禅僧)である。鹿島へついたのは翌十五目であった。生憎と雨で、期待した月見もできず、根本寺に隠居していた仏頂和尚と歓談した。

翌十六日の夜明け、ようやく雨後の月を賞することができた。このときに詠んだのは、

  

寺に寝てまこと顔なる月見哉

  月早し梢は雨を待ちながら

 

という句で、その色紙は根本寺に伝わっている。芭蕉の一行は神宮に詣り、神前で、

   

此松の実ばえせし代や神の秋

 

と詠んだ。

帰路、潮来の本開白準宅に立ちより、滞在中に『かしま紀行』を書いて、白準亭に残して江戸に帰った。

 「月早し」の句碑は根本寺境内に、

「此松の」の句碑は鹿島神宮境内に立っている。

 

〔芭蕉の館〕

 

『おくのほそ道』の芭蕉と曾良は、最初の歌枕である「室の八島」(大神神社=栃木市惣社町)の詣でたあと、壬生(みぶ)楡木(にれぎ)・鹿沼を経て日先にいたり東照宮を拝見した。素直に敬意と賛嘆の意を表した

芭蕉は、

  

あらたうと青葉若葉の日の光

 

と詠んだ。「あらたうと」をはじめ、日光には芭蕉句碑が多い。

 日光山参拝を終えた芭蕉は、奥州古道にわけ入り、那須野を進んで黒羽(黒羽市)にいたり、浄法寺家(城代家老)に身を寄せた。手厚いもてなしを受けた芭蕉は、犬追物の跡を見物したり、玉藻稲荷・金丸八幡・光明寺などに詣でたりした。 

 そのあとに参禅の師「仏頂和尚山居」の跡をたずねて雲巌寺に杖を曳いている。

ともあれ、芭蕉の黒羽滞在は二週間の長きに及んだ。

 大雄寺参道の入口付近からはじまる「芭蕉の道」をたどると「芭蕉の広場」そして「芭蕉の館」が姿をあらわす。広場には那須野越えの乗馬姿の芭蕉と曾良の銅像と『おくのほそ道』の黒羽のくだりを刻した文学碑がある。館内には、芭蕉エントランス・ホール、芭蕉展示室・大関記念室(黒羽藩主大関氏に関する資料)などがある。

 黒羽をあとにした芭蕉は那須温泉におもむいて「殺生石」をみる。そして芦野の里(那須町)で「遊行柳」に立ち寄り、

   

田一枚植ゑて立ち去る柳かな

 

と詠んでいる。






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最終更新日  2020年09月05日 18時50分53秒
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