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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年09月05日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉 関連史跡 資料館ガイド 東北

 

 『歴史読本 3月臨時増刊』

 「江戸三代俳人 芭蕉・蕪村・一茶」

  平成8・38

芭蕉・蕪村・一茶 関連史跡 資料館ガイド

 一部加筆 山口素堂資料室

 

 芭蕉を『おくのほそ道』の旅に駆りたてたのは、陸奥の歌枕であったといっていい。とにもかくにも芭蕉は旅に先立ち、知人らに書簡を出しているが、そのなかに松島・塩竃(釜)・白河・浅香沼(安積沼)などの名をあげ、「能因法師・西行上人のきびす痛みも思ひ知らん」といっていることでもそのことがうかがえよう。

 

 〔白河関の森公園〕

 

白河の関は古来、歌枕として著名であった。したがって芭蕉は、この関址を訪ねることを目的の一つとしていた。しかし、その所在は久しく不明であった。そこで松平定信(白河藩主)は寛政十二年(1800)、白河の関は「関の森」にあったと比定、「古関蹟」碑を建立した。芭蕉来道後百十一年のことである。

 昭和三十四年七月から一年間かけて、学術的な発掘調査が行われて、ここが関址として立証され、昭和四十一年九月、史蹟として国の指定をうけた。

 「古関蹟」碑の近くに、白河の関の件を銅版にして嵌めこんだ文学碑がある。

 白河の関を越え陸奥に第一歩を踏み入れた芭蕉は、須賀川では俳友の等躬を訪ね、また浅香山(いまの安積山公園)を眺めている。二本松では「黒塚の岩屋」を一見し、信夫の里(福島市)では「しのぶもぢ摺り石」を訪ねている。そして飯塚の里(飯坂温泉)では医王寺を訪ね佐藤兄弟の故事に涙している。

 

  笈も太刀も五月にかざれかみのぼり

 

その後、鐙摺・白石の城(白石市)・笠石を過ぎ、岩沼にいたっている。「武隈の松」に能因法師を偲んでから、名取川を渡って仙台に入った。

 

〔壷の碑〕(多賀城碑)

 

宮城路の芭蕉は、宮城野の萩、つつじが岡の馬酔木を眺めたり、多賀城(多賀城市)に「壷の碑」を訪ねだりしている。

いったいに芭蕉は考古癖が強いので、

 

「行脚の一徳、存命の喜び、覇旅の労を忘れて、涙も落つるばかりなり」

 

と感動している。

 覆堂(壷の碑)の近くに芭蕉句碑がある。碑面上部に、

  

あやめ草足に結(ば)ん草鞄の緒

 

下部に

「むかしよりよみ置る歌枕」

以下

「涙(岨)も落つるばかりなり」

までを刻んでいる。

また、近くに東北歴史資料館があり、宮城県内をはじめ東北各地の歴史資料の保存・研究調査にあたっている。収集した資料の公開・展示も行っている。

 

壷の碑(多賀城碑)を見たあと、芭蕉は末松山、興井(沖の島)、野田玉川、塩釜(浦磯・簸ケ島)、松嶋(雄嶋)といった歌枕をめぐり、石巻、登米とよまを経て平泉におもむいた。

 

〔平泉〕

 義経主従の最期に哀れをおぼえた芭蕉は、平泉にはいるとまず高誼の丘にのぼり、

 

  夏草や兵どもが夢の跡

 

「夏草や」の碑は毛越寺大泉他のほとりに立っている。中尊寺は藤原氏三代の栄華のころは、堂塔四十を越えた大寺であったが、芭蕉が訪れた当時は野火にあったりして経堂と光堂がわずかに残っているだけであった。

  

五月雨の降りのこしてや光堂

 

平泉で義経の悲運な最期に泪し、藤原氏の栄耀の跡を偲んだ芭蕉と曾良は、金成、岩ケ崎、真坂を経て岩出山に出ている。岩ケ崎には芭蕉衣掛の松や「芭蕉ケ岡」(志登ケ森)がある。また、岩出山の四辻の宿跡には「芭蕉一泊の地」碑が旧有路家住宅(封入の家)立っている。

 岩出山から歌枕として著名な「小黒崎」「美豆小鳴」をめぐった芭蕉は、鳴子の湯には寄らず、荒雄川の向う岸を歩き、尿前の関にかかる。間址はこんもりと茂った林の中にあり、

  

蚤凱馬の尿する枕もと

 

の碑が立っている。その奥に古びた小堂がたたずむ。

 

 〔旧有路家住宅〕(封入の家)

 

出羽に入って最初の集落が堺田(山形県最上郡)である。新庄藩では庄屋有路ありじ家に問屋的な性格をもたせ、集落を宿駅とした。芭蕉と曾良はこの有路家に泊った。国道四十七号線沿いに「封入の家」という有路家がある。広間型民家の代表的なもので、寛永十五年(一六三八)の建築といわれる。昭和四十四年、国の重要文化財に指定された。のち、解体補修されて一般に公開されている。宅内には芭蕉関係の文献、馬具や馬関係の写真などを展示、庭先には「蚤取」の句碑がある。

 

〔芭蕉・清風歴史資料館〕

 

一刎ひとばねに出て、山刀伐なたぎり峠を越えた芭蕉は、

「高山森々として一鳥声聞かず」という山径を踏み分け、尾花沢へと急いだ。山刀伐峠には「高山森々として」の一節を刻んだ芭蕉翁顕彰碑が立つ。

 尾花沢(尾花沢市大字尾花沢)についた芭蕉たちは、紅花商の富豪鈴木八右衛門(清風)宅に草鞋をぬいだ。この尾花沢には十日滞在した。清風宅に泊ったのは三日だけで、あとは近くの黄泉寺に滞在した。鈴本家はその後、紅花の暴落もあって傾き、いまは蔵を残すのみである。

  

眉掃きを悌にして紅粉の花

 

資料館には、清風撰の『俳諧一橋」『稲筵』、自筆短冊、雪国・尾花沢の民俗資料などが展示されている。館の傍に芭蕉像がある。養泉寺には、

  

涼しさをわが宿にしてねまるなり

 

の句碑(涼塚)がある。

 

 〔山寺芭蕉記念館〕

 

 尾花沢に滞在していた邑蕉は「人々のすすむるに依って」「尾花沢よりとって返し、其間七里ばかりの「山寺」立石寺を訪れている。山寺は「岩に巌を重て山とし、松柏年旧り、土石老いて、苔滑か」で「佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ」という寂境であった。そこで詠じたのが、

  

閑さや岩にしみ入る蝉の声

 

である。

立石寺根本中堂の左側に「関さや」の句碑、秘宝館の向かい側に「俳聖芭蕉」像と顕彰碑、さらに曾良像がある。また、仁王門の于前に「せみ塚」と「奥の細道」碑がある。

 山寺芭蕉記念館(山寺宇南院)は、山寺立石寺を一望できる高台にある。芭蕉の遺墨を中心に、蕉門の墨跡、『おくのほそ道』関係資料、「山寺風雅の図」などを展示している。企画展示もある。

 

〔大石田町立歴史民俗資料館〕

 

 芭蕉は立石寺より大石田(北村山郡)の高野平右衛門(一栄)宅にいたり、三泊している。旧高野家には芭蕉真蹟が伝わり、「さみだれを」歌仙碑も建てられている。西光寺にも「さみだれを」の句碑がある。資料館は芭蕉関係の資料や最上川舟運関係資料を展示している。

 大石田をあとにした芭蕉は、名木沢を経て猿羽根峠を越え、舟形を通って新庄に出ている。新庄には芭蕉が世話になった渋谷家があり、その遺址には「芭蕉遺跡盛信亭跡」「奥の細道風流亭跡」の標柱が建ててある。また、本合海には「史蹟芭蕉乗船之地」の標柱が立ち、傍らに芭蕉曾良の旅姿像(陶製)がある。

 

〔出羽三山歴史博物館〕

 

 最上川を船で下った芭蕉は、清川・狩川を経て羽黒山麓の手向村(羽黒町)にいたり、南谷の別院に入る。そして出羽三山をめぐるのである。

博物館は昭和四十五年六月の開館である。芭蕉関係では、真蹟の天宥法印追悼句文・近藤左吉(国司呂丸)宛書簡、稿本『芭蕉庵三日月日記』の写本などが展示されている。

 南谷は苔むしか礎石を残すだけであるが、ここには、

  

有難や雪をかほらす南谷

 

の句碑が立っている。また、鐘楼の先には「俳聖芭蕉」の行脚像および三山巡礼の句を刻んだ句碑、月山山頂近くには真蹟短冊を拡大して銅板に陽刻しか「雲の峰いくつ」の句碑、湯殿山本宮には「語られぬ」の句碑がある。

羽黒山を下りた芭蕉は、鶴が岡の城下(鶴岡市)、酒田(酒田市)を経て象潟(秋田県由利郡)にいたる。酒田市の〔本間美術館〕には、あふみや玉志亭唱和懐紙、仏頂和尚遺掲ゆいげがあり、〔光丘文庫〕には清風編の『稲菰』『一橋』、『図司呂丸伝書』などが所蔵されている。また、山形市の〔山形美術館〕には、蕪村の『奥の細道図屏風』や芭蕉の『出羽三山短冊』などが展示されている。

 

北陸道

  

象潟や雨に西施がねぶの花

 

と詠んだ芭蕉は、「酒田のなごり日」を重ねたあと、北陸道(越後路)を日本海沿いに出雲崎、直江津、高田、親不知、市振、奈呉の浦、金沢、小松、那谷寺、山中温泉、天龍寺、永平寺、福井、敦賀といった町まちを経て大垣にいたるのである。

 小松の多大神社で斎藤別当実盛の遺品である兜などに、

  

むざんやな甲の下のきりぎりす

 

の句を手向けた芭蕉は、那谷寺を訪れ、山中温泉に入った。ここで曾良が腹の病にかかり、一足先に伊勢の長島の親戚のもとに急ぐことになる。金沢から同行していた北枝が随行して全昌寺、汐越の松、天龍寺まで旅をともにするが、このあと北枝は金沢に帰った。

 芭蕉は福井の俳人神戸等栽をたずね、敦賀、種の浜などに遊んだのち、一路南下して大垣に向かう。

 

曾良という随行者を失ってからの芭蕉の動静は明瞭を欠く。

  

今日よりや書付消さん笠の露

 

芭蕉が泊った全昌寺(加賀市)には杉風刀の芭蕉木像がある。

 

〔奥の細道むすびの地記念館〕

 

大垣にはいった芭蕉は、如行・曾良・越人・前川・別口父子ら、親しい俳友・門弟に温かく迎えられ、しばらくの間は長途行脚の疲れをいやした。

 大垣市船町の谷本因宅跡に「史蹟奥の細道むすびの地」の標柱が建てられている。馬場町の記念館には芭蕉および俳友木因などに関する資料や蕪村の『奥の細道』絵巻、大垣入りした芭蕉・路通の旅装が復元展示されている。

 大垣に二週間ほど滞留した芭蕉は「長月六日になれば伊勢の選宮おがまん」と木因・如行らに見送られて、水門川か経て揖斐川を渡った。

 伊勢参宮をはたした芭蕉は、九月下旬(元禄二年)伊貿にいたり、十一月まで滞在している。

 

 〔芭蕉翁記念館〕

 

芭蕉のふるさとの地「上野」の中心的な建造物で、芭蕉に関する書籍や遺品が展示されている。赤坂町の芭蕉翁生家には、

  

故郷はほぞの緒に泣く年の暮

 

の句碑がある。近くの愛染院境内には、芭蕉の遺髪を納めた「芭蕉翁故郷塚」、本町には『貝おほひ』を奉納した上野天満宮(天神さん)がある。また、日南町には芭蕉の門弟服郡上芳が住んでいた蓑虫庵がある。

 

 〔俳聖殿〕

 

 上野公園(上野城跡)にある八角堂で、芭蕉の旅姿をかたどっている。木造桧皮葺で、初雁が八角、二層が丸型の優美な建物である。内部正面には芭蕉祭献詠句が掲げられ伊賀焼の芭蕉座像が安置されている。上野城には芭蕉の旅笠・文机などが展示されている。

 なお、福地城跡(伊賀町柘植)は松尾氏(福地氏)の居城であったところで、本丸は芭蕉公園になっている。

 元禄四年冬、江戸に帰った芭蕉は三年後の七年冬、江戸を立ち、ふるさとで月見の会を催した。そのあと大坂に出るが病を得て臥した。

 

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 

の句を遺して、この世を去るのは、十月十二日のことである。没後、遺言によって義仲寺(大津市馬場)に葬られた。

 

  木曾殿と背合わせの寒さかな

 

〔正木美術館〕

 

正木忠之のコレクション(大阪府泉北郡忠岡町)で芭蕉筆自画賛『時雨夕陽』が蔵されている。

コレクションは室町時代の水墨画・墨蹟が中心である。大燈国師墨蹟、小野道風筆三体白氏詩巻、藤原

行成筆白氏詩巻は国宝である。

 

 〔柿衛文庫〕

 

芭蕉の筆蹟鑑定の第丁人者岡田利兵衛のコレクションだけに、「ふる池や」短冊、「旅の画巻」「猿蓑」巻頭、柿衛木『おくのほそ道』巻頭、蕪村筆『俳仙群会図』など貴重な作品が多い。






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最終更新日  2020年09月05日 18時55分08秒
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