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2020年09月06日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

 芭蕉探訪 山梨県

 

 『芭蕉探訪』「東海・甲信・東海」平成二年刊

    著者 清水杏芽(きょうが)氏

      本名 清水久明氏

   一部加筆 白州 山口素堂資料室

 

 芭蕉が深川に居を移しだのは延宝八年冬のことで、庵号を「泊船堂」と名づけていた。

その延宝九年春に門人李下がここに芭蕉の一株を贈って植えたのが良く育ち茂って、人々から「芭蕉庵」

と呼ばれるようになった。

かくてようやく住み馴れて二年目、天和二年十二月二十九日、江戸駒込の大円寺からの出火は大火事となり本郷・下谷・神田・日本橋・浅草・本所・深川まで及び、この芭蕉庵も類焼の憂き目にあった。

 かくて住む家を失った芭蕉はその大部分を焼け野原と化してしまった江戸を去り、既に親交のあった高山糜塒(ビジ 甲州谷村藩国家老)の世話になることになって甲州流寓の旅に出たのである。

 

時に芭蕉三十九歳である。この場合何故に離れた甲州に行くことになったかは詳らかにしないが、察するに、門弟であり、また親交のある高山糜塒が焼け出された芭蕉を見るに見兼ねて自ら伴って避難させたのであろう。

其角の「芭蕉翁終焉記」によれば次の如く書いている。

  

深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、筈をかづきて煙のうちに生きのびけん、是

ぞ玉の終のはかなき初め也、爰に猶如火宅の変を悟り無所在の心を発して其次の年夏

の半に甲斐が根にくらし

 

糜塒・芭蕉は江戸から甲州谷村へ馬を利用して行けば一日の行程である甲州街道(甲州道中)を真っ直ぐに行ったに違いなかろう。

 さて甲州谷村に入った芭蕉の宿泊先ははっきりしていないが、国家老が伴って来たその師であれば、それ相当の家に泊ったことであろう。そして、芭蕉自身この谷村滞在中は何をしていたのであろうか。

糜塒は国家老の勤務で多忙であるに違いないし、同地居住の俳諧をたしなむ医師一晶も町の開業医であればこれまた多忙な日々を送っていた次第で、この三人が芭蕉滞在中五ヵ月の間に僅か二巻の歌仙を巻いたのに過ぎなかったし、芭蕉自身の詠んだ発句の数も極めて少なかったのである。

恐らく世塵を避けた環境にあって専ら読書・勉学に日々を過ごしていたのであるまいか。高山糜塒の蔵書を借用しものと想像される。想うに芭蕉が日本の古典はもとより西行はじめ先人の書籍を読まれ、中国の文学にも通じ且つまた所謂雑学に多くの知識を持っていたのは、この時の勉強の成果なのではあるまいか。芭蕉が後年にこれ程の余裕の時間を持ったことがあろうか。約半歳のこの逗留を読書の絶好の機会としたのである。

 天和三年の発句の作品数は『校本芭蕉全集』(角川書店刊)に収載されるものでは七句を出ていない。即ち、

   うぐいすを魂にねむるか嬌柳

   ほとゝぎす正月は梅の花咲り

   清く開ン耳に香焼て郭公

   (さわら)や花なき蝶の世すて酒

   青ざしや草餅の穂に出つらん

   馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉

     

ふたゝび芭蕉庵を造りいとなみて

 あられきくやこの身はもとのふる柏

 

これだけで、七番目の句は江戸に帰ってからのもの、誠に少ないといえる。

 このうち

「馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉」

 

は最終案の句で、初案からの推敲の経過は俳人にはよき参考となるのであろう。即ち、

   

夏馬の遅行我を絵に見るこゝろ哉

   馬ぼくぼく我を絵に見るこゝろ哉

   馬ぼくぼく我を絵にみる枯野かな

   馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉

 

この「馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉」の句碑は『芭蕉入峡についての一考察』の著者赤堀五百里氏の教示するところによれば、

一つは大月市猿楠町藤崎久保の雑木林の中に建っておると。建立年、建碑者共に不明で碑には

 

「馬保久ほく我越絵に見留夏野哉」

 

と彫る。

 今一つは最近のもので都留市楽山公園に建っている。芭蕉の入峡三百年を記念しての建碑で昭和五十八年五月𠮷日、都留俳句連盟・都留市文化協会の手に成る。板状黒御影石で表面には

 

「馬ぼくぼく吾を絵に見る夏野かな」

 

裏面には、

   

江戸の大火に依り焼け出された芭蕉は

翌天和利三年(一六八三年)一月

高山糜塒の招きに応じて来峡し

約半年間この甲州谷村の地に滞在しており

本年を以て丁度三百年を迎える

      以下略

 

この「馬ぼくぼく」の画讃には次のように書いている。

 

 かさ着て馬に乗たる坊主は、

いづれの境より出て、

何をむさぼりありくにや。

このぬしのいへる、

是は予が旅のすがたを写せりとかや。

さればこそ三界流浪のもゝ尻、

おちてあやまちとすることなかれ。

   馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉

 

『校本芭蕉全集』角川書店刊)

 

こんな具合で芭蕉はしばしば戸外を出歩いて田舎の風物を楽しみ、読書の疲れを休め医していたのかもしれない。その時にでも詠んだ作品であろうか『校本芭蕉全集』(角川書店刊)の「疑義ある句」として「在疑の都」に分類収載されている作品に、

   

勢ひあり水柱消えて滝津魚

 

の句がある。

この土地では芭蕉が谷村滞在中谷村の「田原の滝」を詠んだ作品とし、都留市十日市場下宿の「田原の滝」跡近くの田原神社の傍に句碑に刻まれて建ってある。

これは昔この辺に「蕉翁田原瀑布野詠」として、

 

いきほいあり水柱消えて滝津魚

 

とあった句碑が雪の日の道行く人々の下駄の歯にはさまった雪を叩き落とす蹴り台というまでに荒れ放題に放置されていたものを故飯田蛇笏が見るに見兼ね、自ら筆を執って再建されたものだとの由。赤堀五百里氏は書き添えている。(『芭蕉入鋏についての一考察』)

 

またこの句は色々の形で書物に収載されていて、『校本芭蕉全集』には次の如くである。

   

勢ヒあり水消ては瀧津魚    (新虚業)

   勢ひあり水柱消えて瀧津魚   (峡中之記)

   勢ひあり水柱消ては瀧津魚   (暁台句集)

   勢ひある山口も春の瀧川魚   (句解参考)

   きほひありや水柱化して瀧ツ魚 (句解参考)

 

なおこの半年間には俳諧を楽府、一晶と興行し歌仙二巻をまいている。

その一つは「一葉集」に「夏馬の遅行」と題するもので、表の三句に、

 

夏馬の遅行我を絵に見る心かな  芭蕉 

  変手ぬるゝ滝凋む滝       糜塒

  蕗の葉に酒濯竹の宿微で     一品

     -以下略-

 

いま一つは糜塒の発句をもっての三時歌仙で『蓑虫庵集』に「胡草」と題して、表の三句に、

   

胡草垣穂に木瓜もむ屋かな    楽府

    笠おもしろや卯の実むらさめ  一晶

   ちるほたる沓にさくらを払ふらん 芭蕉

     -以下略-

 

ここで半歳は早くも過ぎて、天和三年夏のはじめに甲州谷村逗留を切りあげ、江戸に帰ったのである。

 この芭蕉を甲州谷村に避難させた高山糜塒、本名高山伝右衛門繁文は甲州谷村の城主秋元但馬守喬朝(一万八千石)の国家老で早くから芭蕉の門に入り、晩年は幻世と称し、その作品は「武蔵曲」(千春編、天和二年)や「虚栗 みなしぐり」(其角編、天和三年)に散見している由。その後城主秋元家は宝永元年に武州川越に転封されたので、高山糜塒もこれに従って川越に移り、亨保三年この地で没する。行年七十歳であった。

 

さて芭蕉の二度目の山梨県(甲州)入りは「野ざらし紀行」の旅を終え、江戸への帰りの途中、貞亨二年のことである。「野ざらし紀行」の本文に次の如く書いてある。

  

二たび桐葉子がもとにありて、

今や東に下らんとするに

 牡丹蕊深くわけ出づる蜂の名残かな

  甲斐の山中に立ちよりて

 ゆく駒の麦になぐさむやどりかな

  卯月の末、庵に帰り、

旅のつかれをはらすほどに

 夏衣いまだしらみを取り尽さず

 

これを地図的に分析すると「桐葉子がもと」(熱田)➡「甲斐の山中」➡「庵に帰」(江戸深川)となり、この間の行程道順がはっきりしていない。この開の消息を『芭蕉必携』の年譜によれば、

十日日にそこを発足して帰途につく。このあと、名古屋を経て木曽路に入る旨の予定を報じるが(三月二十八日付木因宛書簡)あるいは東海を経て号庵したか。

 

また『校本芭蕉全集』(富士見書房刊)には、

このあと名古屋を経て木曽路に入ったものと推定される。名古屋で杜国に留別句を与える。

当日、知足、その江戸出店に芭蕉宛に書状を送る。

木曽路、甲州路経由で江戸に帰着する。

 

木曽路経由はどこから中山道に入り、甲斐に入ったか。塩尻峠➡富士見➡甲斐➡初狩➡谷村。

東海道経由では勝峯昔風氏は東海道➡三島➡御殿場➡富士の裾野即ち「岳麓の新橋、今の御殿場より須走を通って籠坂峠を越えたのである」

と考え、

山崎喜好氏は

「東海道(興津)―(富士川沿い)➡身延➡甲府➡甲州街道➡初狩➡江戸」を考えておられる。

これは「甲斐の山中に立ちよりて」の「山中」を漠然と「山の中」を考えるか、「山中」と地名「山中村」と受け取るかを問題と残しているが、いずれにしても推測に過ぎないことである。

 

『野ざらし紀行』中に収載のこの句

 

ゆく駒の麦になぐさむやどりかな

 

の句碑が「甲州轟里 万福寺」にあり、「駒塚」と称している。現在の山梨県勝沼町等々木の万福寺境内に建ってある。

この句は「続虚栗」には「甲子の旅の帰途甲斐を経て」と前書あり、また『校本芭蕉全集』の欄外補注には次の如く書いている。

 

石田元孝「俳文学論考」所収の鏡台の「峡中の記」(天明三年)によると、

 

芭蕉翁武江天和の変にあひて、しばらく留錫ありし」さかいに、この句及び

「勢ひあり水柱消えて滝津魚」

「雲霧の暫時百景を尽しけり」

の三句をとどめたりとあり、これによりこの句を天和三年かとする説(山崎喜好増補「芭蕉句集」があるが、この所伝は確かなものとはいえず、「芭蕉句集」が「続虚栗」(貞享四年刊)に初出するこの句を貞享二年とする方が信用される。

 また「野ざらし紀行」には収載されていないが、恐らく、この旅での甲斐の国の吟がある。即ち、

 

     甲斐山中

   山賤のおとがい閉るむぐらかな

 

この句碑は大月市初狩(初狩小学校前)の歩道橋下の道路脇に建っている。春秋庵幹雄の筆。この道(国道二〇号線)大月―笹子トンネル間には初狩小学校の前にだけ歩道橋があるのですぐわかるはずである。

 

 この「野ざらし紀行」後帰巣の途中、甲州を尋ねて来だのは天和三年半歳の流寓中世話になった方々へのお礼と、その後の甲州の実状を見たくなっての入峡であろうか。

 

ところで前記暁台の「峡中の記」のなかに出て来る残る一句、

 

「雲霧の暫時百景を尽しけり」

 

の句碑が河口湖畔産ケ尾崎に建っているが、既に風化して文字が読み難くなっている。

また同じ句の碑が湖畔の町河口湖町の旅館「百景園」の玄関前に建っていて、旅館の名の由来を示しているわけである。

 さてこの句は『校本芭蕉全集』(小宮豊隆監修)では「存疑の部」に分類所属されて収載されているが、同全集の「俳文編」のなかに次の如き記載がある。

  

 士峰讃

 「芭蕉句選拾遺」(宝暦六年刊)に

「甲州よし田ノ山家に所持ノ人ありしを、今東武下谷 志秘蔵なるよし、

行脚祇法より伝写して出ス」

と頭書があって、この句文がある。

 

これに依れば甲州に遊んだ天和三年の作のように思われるが、その年の五月に江戸に帰っておるのに、  発句の季が秋になっていて、天和三年と断定することは躊躇される。

 

志田義秀氏が「奥の細道・芭蕉・蕪村」において想像されておられるように、貞享元年、「甲子吟行」の旅の時、「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」の作があったころのものとも想像されないでもない。

なおこの句文は「芭蕉翁文集」(桃鏡編、宝暦十一年成)には「望美景」と題して収めてある。(横沢)

   

崑崙(こんろん)は遠く聞、蓬莱・方丈は仙の地也。

まのあたり上緑地を抜き蒼天をさゝえ、

日月の為に雲門をひらくかと、

むかふところ皆表にして美景千変ス。

待人も句をつくさず、

才士・文人も言を断ち、

画工も筆捨てわしる。

若藐姑射の山の神人有て、

其詩を能せんや、

其絵をよくせん。

    雲霧の暫時百景をつくしけり

 

   (芭蕉句選拾遺)

 

前記の通りこの句の碑は山梨県の河口湖畔の二基の他にも、景色の好い所、見晴しのよい処に選んで建立されている。例えば静岡県下では清水村松の鉄舟寺裏山観音堂前とか、駿東郡小山町須走富士登山道脇、沼津市木負の相磯家前庭にもある。

 以上記したのは芭蕉の山梨県内に於ける足跡と直接関係深い作品について述べてきたもので、それ以外の句碑のことは他の都道府県と同じように、敢えて省略して記さないことにする。

 

【註 芭蕉句碑 所在地】

大月市猿楠町藤崎久保の句碑

都留市楽山公園の句碑

都留市田原神社の傍の句碑

万福寺境内の句碑

初狩小学校前の句碑

百景園の句碑

産ケ屋岬の句碑

 

  山梨県を旅しての拙句

 

   緑陰や「田原の滝」の句碑一基

   谷村のいま都留市にて梅雨はるる

   流寓の芭蕉の滝のいづこにか

   むかし滝いませきりぎの音貧し

   滝の句の滝の遺跡となりにけり

   谷村は谷村町駅春うらら

   古草の中に句碑あり文字風化  






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最終更新日  2020年09月06日 06時00分51秒
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