カテゴリ:甲斐武田資料室
武田信玄終焉の地 根羽
根羽村観光協会 パンフレットより 一部加筆 山梨歴史文学館
歳五三才、天正元年(一五七三)両の四月十二日、 三河・美濃・信濃三ケ国の間、 ねばねの上村か申す所にブ御他界(甲陽軍鑑)
信玄の南下によって三河国根羽村は、元亀二年(一五七一)信濃国へ編入されました。 しかし三河攻めの折り、信玄は三河の野田城攻撃中に肺肝を患い、 根羽で臨終を迎えたといわれます。 信玄が病重く、 悲しみのうちに旗を横にしたのでこの地を 「横旗」というようになりました。
〔信玄の軸〕 毎回信玄まつりと八幡様に掲げられる掛軸は、 阿智村伍和に存在した武田家ゆかりの高坂家か贈られたものと云われています。 明治三十三年に伍和村の高坂代太郎から、 信玄塚供養基金として大金100円の寄付を受け、 預かり預金証が渡され、四月十二日にはその利子七円が送金されて、 御供え物が賄われました。 信玄公の掛軸と預金証は宝物として、お祭りの日には掲げられます。
[信玄公の宝飯印塔] 寛文十二年(1672)甲斐国塩山の乾徳山恵林寺で、信玄公百年の法要があり、 五輪塔と宝飯卵塔を修造。 その折り、武田家ゆかりの人々によって、 信玄終焉の地検旗に宝飯印塔が建立されたと伝えられています。 塔の様式からみて室町末期であろうとする説もありますが、 城主・大名級のものです。 花尚岩製、高さ1、84m規模で塔身に四仏を表わす梵字が刻まれていますが、 激しく摩耗しています。
信玄塚というのは愛知県北部の東郷・上津具にもありますが、 墓場の形式と規模の上からいうと、 根羽村横旗のものが最もうなずき得るもので、 歿後あまり長くない年代に営まれた供養塔とすれば、 肯定せざるを得ない。 (日本考古学会員 池上 年)
〔信玄まつり〕
取手(砦)・横旗・中野の三区で祀る八幡様は、 元禄(1688~)頃には武田神社と呼ばれていたようです。 信玄の祭日は昔は旧暦八月十五日に八幡様のお祭りとして行われていました。 現在は信玄の命日の四月十二日(新暦)に、米の粉餅の蒸したもの、 八月十五日(旧暦)には、「おぶく」と言う小豆ご飯を、 十月十五日(旧暦)の祭日には、 「おはたき」という生米餅(なまごめもち)をお供えします。 今日の信玄塚でのお祭りは八幡様とともに地元の人々によって、 信玄にまつわる沢山の伝説 (信玄公の喪を秘密にすることなど) を語り継ぎながら行われています。 そまじとうげ のろしだい
[杣路峠の狼煙台(遠景)]
杣路峠、月瀬山の入にて 伊那南方の要塞なり。 山上より三河の国を見下す。 信玄公御代三河の様子、 此の山上にて狼煙を上げ、 浪合の蛇時に合す (伊那郷村鑑)
◆ 小栃区奥の柏路峠は標高884m。 ここは甲斐、八ケ岳に連絡する重要な情報基地でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月12日 18時07分13秒
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